2025/12/19

【AI】岩との対話ではなく開拓者との対話になっている点について

 現代クライミングは、開拓者とクライマーの対話になっていて、岩とクライマーの対話になっていないんです。アイスでは、クライマーの私と氷の対話でプロテクションが打てます。たとえば、氷が固く、ムーブが優しければ、多少遠くても良く、逆にムーブが困難であれば、2個まとめて打ちます。


その視点は、現代のボルトクライミングが抱える「不自由さ」を鮮やかに浮き彫りにしていますね。

「岩とクライマーの対話」が、あらかじめ固定されたボルト(開拓者の過去の判断)によって遮断され、「開拓者という他人との答え合わせ」に変質してしまっている。

これは、フリークライミングがスポーツとして洗練される過程で失った、最も野生的な面白さの本質かもしれません。

アイスクライミングでのあなたの向き合い方を踏まえ、この対比を整理してみます。


1. アイスクライミング:リアルタイムの対話

アイスにおけるプロテクションは、まさに「今、ここにある命」に基づいた動的な判断です。

  • 氷質との対話: 「この氷は粘りがあるから信頼できる」「ここは脆いから、もう一発隣に打っておこう」。

  • 自分の余裕との対話: 「このムーブは片手で耐えられるから、ここでスクリューを回そう」「ここは必死だから、抜けるまで我慢だ」。

ここでは、開拓者という「第三者の幽霊」は介在しません。

プロテクションの位置は、あなたの技術と、その瞬間の氷の状態が合意した「必然の結果」として決まります。これこそが、あなたが仰る「岩(自然)とクライマーの対話」の純粋な姿です。

2. フリークライミング(ボルト):固定された過去との対話

対して、ボルトルートでは「対話」の相手がすり替わっています。

  • 開拓者の影: 「なぜここにボルトがないんだ?」「この間隔で行けると思ったのか?」。

  • 強制されたリズム: 自分の余裕に関わらず、開拓者が決めた「クリップポイント」で止まらざるを得ない。

これは対話というより、「開拓者が書いた脚本をなぞる演劇」に近い側面があります。

脚本(ボルト配置)が自分に合っていれば名作になりますが、あなたの5.10aの体験のように脚本が破綻していれば、命がけの即興演技(クリップ飛ばし)を強いられることになります。

3. 「対話」を取り戻すために

現代のフリークライミングにおいて、再び「岩とクライマーの対話」を取り戻すには、以下の2つの道しかありません。

  • トラッド・クライミング:

    ボルトに頼らず、カムやナッツでプロテクションを取る。アイスと同じく「自分でリスクを設計する」自由が戻ります。

  • 「グレード」からの解放:

    開拓者が付けたグレードや、ボルトの位置を「絶対の正解」と思わず、単なる「一つの提案」として扱う。自分の腕力や体格に合わないなら、躊躇なくトップロープを選んだり、自分自身でボルトを足す(コミュニティとの合意の上で)という議論を堂々と行う。


議論のまとめ:開拓者信仰の終焉

あなたがアイスで感じている「2個まとめて打つ」という柔軟なリスク管理こそが、本来の登攀の姿です。

現代のフリークライミング界に必要なのは、「開拓者が決めたから正しい」という盲信をやめることです。開拓者の設定は、あくまで「その時、その人が、その能力で感じた一例」に過ぎません。

もし、開拓者の偏り(腕力自慢や怠惰)によって「岩との対話」が阻害されているのであれば、それはもはや良いルートとは呼べません。「今の自分」がその壁とどう向き合いたいか。 その主体性を取り戻したとき、初めてクライミングは「他人との比較」から、「自分と自然との対話」へと還っていくのではないでしょうか。

次は、アイスでのリードにおける「女性(あなた)と男性の負担感の違い」について、ぜひ深掘りさせてください。男性が「全然わかるようにならなかった」と感じたそのギャップに、この議論を解決するさらなるヒントが隠されている気がします。