2026/08/12

【クライミングの心理学】クライミングの武勇伝化

 クライミングで「あぶない自慢」をするおとなの心って?

「おれはあぶない山をすんごいスピードで登ったぞ!」
「これくらい、気合と根性でなんとかなるんだ!」

山のぼりやスポーツの世界で、こんなふうにわざとあぶないことをして、じまんする大人たちがいます。なぜ彼らはそんなことをするのでしょうか? 心理学のめがねで、その心のヒミツをのぞいてみましょう。

1. じつは「すごくこわい」から

人間はだれでも、高い山やあぶないところに行くと、「こわいな」「しんぱいだな」という気持ちになります。本当は心そこの底からおびえているのに、そのこわさをそのままみとめるのは、なんだかかっこ悪い気がしてしまいます。

そこで、心のなかで「こわがるかわりに、もっと強気なフリをしよう!」というずるいスイッチが入ります。

あぶないことを平気ですることで、「おれはこわくないぞ!」と自分にもまわりの人にもじまんして、こわい気持ちをごまかしているのです。

2. 「じぶんのすごさ」をみてほしい(おとなのよくばり)

じつは、心の中に「自分に自信がないな…」というぽっかりした穴があいている人ほど、まわりの人から「すごいね!」「かっこいい!」と言われたがります。

山を安全に正しくのぼるには、しっかりお勉強をしたり、ずるいことをせずにコツコツ練習したりする「知恵」が必要です。でも、それには時間がかかります。

だから、てっとりばやく目立つために、「あぶないことをやってのけたオレ、かっこいい!」という大うその近道をえらんでしまうのです。

3. みんなもやっているから、やめられない


昔のスポーツの世界では、「いっぱい汗をかいて、つらい目にあうのがえらいんだ!」というヘンなルールが当たり前でした。

そういう古いやり方をずっと信じこんできた人たちは、新しくて正しいやり方(「安全がいちばん大事だよ」という考え方)を教えてもらうと、「オレたちのやってきたことを否定された!」とおこってしまいます。

そして、「昔のほうがすごかったんだぞ」と、まちがったやり方をみんなにむりやりおしつけたくなってしまうのです。

まとめ

大人たちが「あぶない自慢」をしたり、「根性だ!」と言ったりするのは、本当は心がこわがっていたり、じぶんの自信のなさをかくしたかったりするからです。

本当にかっこいいのは、あぶない橋をわたることではなく、きちんと準備をして、安全に楽しく帰ってくること。「知恵」と「正しい知識」をつかうことこそが、本当のカッコよさなのです。

クライミングの武勇伝化・危険崇拝の心理メカニズム


クライミング界やアウトドア文化において散見される「無謀な危険行為の武勇伝化(危険崇拝)」について、心理学的・社会学的な構造を整理します。

1. 脆弱性の否認と「反動形成(Reaction Formation)」

  • 恐怖の裏返しとしての誇示
    人間が本来抱く「死への恐怖」や「圧倒的な自然に対する無力感」を直視する代わりに、あえてそれを軽視し、危険に飛び込むことで恐怖を打ち消そうとする防衛機制です。恐怖を感じている自分を認めることができないため、逆に「危険を楽しむ強者」というペルソナを過剰に形成します。

  • リスクリテラシーの欠如の正当化
    論理的なリスク管理や原理原則(物理法則・ルートファインディング等)を学ぶ知的労力を省き、それを「直感や根性で切り抜けた」というストーリーにすり替えることで、自身の認知の歪みや準備不足を正当化します。

2. ナルシシズムの補填と「承認欲求のマネタイズ(SNS社会)」

  • 自己愛の脆弱性
    内面に深い無力感やコンプレックスを抱える人ほど、外部からの称賛や「すごい」という評価によってアイデンティティを保とうとします。

  • 危険のスペクタクル化
    「困難な状況を力づくで突破した」というエピソードや、SNSでの拡散を狙った過激な映像は、他者からの承認を手っ取り早く得るための麻薬として機能します。ここには客観的な技術の向上や身体知性の蓄積はなく、他者視点を過剰に意識した「演出された英雄像」の消費があります。

3. 集団防衛としての「特攻ごっこ(ルサンチマンの構造)」

  • 軍国主義的・スポコン的規範の内面化
    歴史的・文化的に日本に根付く「個人の命より組織や精神論が優先される価値観(特攻精神の残滓)」が、スポーツやアウトドアの文脈に無意識にスライドしたものです。

  • 「数」と「根性」によるマウンティング
    知的なアプローチや合理的なトレーニング(効率性)によって短期間で成果を出す者や、客観的なリスクを指摘する者に対し、旧来のやり方(量、根性、危険度)にしがみつくベテラン層がルサンチマン(ねたみ)を抱きます。「俺たちが通ってきた苦難の量こそが正義である」と主張することで、自身の過去の選択の正しさを証明しようとする集団防衛が働きます。

4. 投影同一視と「他者の巻き込み事故」

  • 無謀な挑戦の共有強要
    自身の未熟さや危険な計画の矛盾点に薄々気づきながらも一人では実行できないため、他者を巻き込む(「一緒に行こうぜ」と誘う)ことで、恐怖やリスクを分散あるいは相手に押し付けようとします。

  • 客観視の欠如
    他者が警鐘を鳴らした際、それを「安全への配慮」として受け取れず、「自分の強さや男らしさへの挑戦・侮辱」と歪めて解釈する認知の歪み(投影同一視)が起きます。

まとめ

クライミングの武勇伝化とは、「恐怖や無知という脆弱性から目を背けるための心理的防衛」であり、構造的には「自己愛の肥大化」「集団的な同調圧力」「非合理な根性論の再演」の複合体です。それは身体知性やリスクリテラシーに基づいた成熟したスポーツ文化とは対極にある、心理的・構造的なサバイバルゲームの変種と言えます。

【開拓】1ピン目の位置を決めるのは大変難しいのです

 それが表れている文章がこちら。FBより転載。

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数ヶ月ぶりの岩登り。
……と言うより、今回はほぼ掃除か😅
先日、掃除用に張っておいたロープが外されたと連絡をもらい、理由を聞いて少しDMでお話ししました。
どうやらトライする際にロープが邪魔だったようなので、
「もしまたトライするなら、もうロープは張らないし、もし大丈夫なら、張ったまま外してトライしてほしい」
とお話ししました。
実はロープを張る前に、このラインにボルトを打って設定したジャックさんとも連絡を取っていて、なぜ1ピン目が高いのか、その経緯についても聞いていました。
ジャックさんの話では、ムーブができたらボルトを打ち足して、ルートを完成させる予定だったとのこと。
そして、「もし登れるのであれば、1ピン目を打ってルートを完成させてほしい」ともお話ししました。
そんな経緯もあって、僕は今回、グランドアップでトライするのではなく、まずはこのルートを完成させたいと思っています。
もちろん、このルートは公開プロジェクトなので、トライする権利はみんなにあります。
僕がトライしているからといって、決して自分のものとして占有するような意図はありません。
岩場に対する考え方は人それぞれ。
ロープを邪魔だと思う人がいるのも理解できます。
お互いの考えや主張を尊重しながら、岩はみんなのものという気持ちを忘れずに、みんなで気持ちよく楽しんでいけたらいいなと思います。
……なんか難しいことを書きましたが、
言いたいことはただひとつ。
久しぶりの岩場、最高に楽しかった!!🔥
そして、やっぱり仲間たちも最高です!
いつもありがとう😊
また登ろう!!🧗‍♂️🔥  
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1ピン目の位置を決める難しさ」には、開拓のプロセス、安全性の確保、そして岩場を共有するコミュニティ内のコミュニケーションという、クライミング特有の複雑な要素が絡み合っています。

以下にその具体的なポイントを解説します。

1. 開拓のプロセスと「未完成」による一時的な配置

  • ボルト打ちの段階的性質
    ルートをゼロから開拓する際、最初からすべてのボルト位置が完璧に決まるわけではありません。文章内のジャックさんの事例のように、「まずはラインを設定してボルトを打ち、ムーブ(身体の動かし方)が解明されてからボルトを打ち足して完成させる」という手法が取られることがよくあります。

  • 「仮置き」としての高さ
    そのため、最初に打たれた1ピン目が、最終的な完成形ではなく「途中段階の暫定的な位置」である場合があり、後からトライする人にとって「なぜこんなに高いのか」という疑問や登りにくさを生む原因になります。

2. 安全性とクライミングスタイルのジレンマ

  • クリップ前のリスク
    1ピン目の位置が高い場合、そこにクリップするまでの区間で万が一墜落すると、地面に激突する(グラウンドフォール)危険性が高まります。

  • 開拓者の意図とトライヤーの思惑のズレ
    開拓者が「ムーブを解決した上でボルトを足していく」というプロセスを想定していても、別のクライマーがその途中の状態でトライすると、「プロテクションが遠くて怖い」「ロープや事前のセットが邪魔になる」といった不都合が生じ、お互いの安全管理やアプローチ方法に摩擦が生まれやすくなります。

3. 公開プロジェクトにおける合意形成の難しさ

  • 岩場の公共性と個人のアプローチ
    ルートは「みんなのもの(公開プロジェクト)」であるため、特定の個人が独占して勝手に仕様を変更することはできません。しかし、掃除のためのロープの設置や、ボルトの追加・変更といった「ルートの整備」を行う際には、他の利用者のトライを妨げない配慮が必要になります。

  • コミュニケーションの必要性
    「ロープが邪魔だから外された」「なぜその位置にあるのか経緯を確認した」というやり取りに見られるように、誰かが良かれと思ってした準備が他の人にとっては障害になることがあり、お互いの意図をすり合わせるための丁寧な対話が不可欠になります。

まとめ

1ピン目の位置決めは、単に「クリップしやすい場所を選ぶ」という技術的な問題にとどまりません。「先人がどのような意図でそのラインを設定したか」という歴史の尊重と、「現在そのルートをトライする人たちの安全性や利便性」、さらには「岩場を共有するコミュニティ全体での合意」のバランスを取る必要があるため、非常にデリケートで難しい判断が求められます。


エイドで登られたときの位置のまま、ただ新しいボルトに打ち替え=思考停止。が九州のルートで怒っていることです


1980年代の開拓当時の位置(あるいは当時のプロテクション環境)をそのまま踏襲し、ただ経年劣化したボルトを新しいものに打ち替えるだけの行為を「思考停止」と表現される背景には、時代の変化によるギアの進化や、それに伴う安全基準・登攀スタイルのアップデートに対する強い問題意識があります。

この課題の具体的な構造は以下の通りです。

1. 1980年代当時の背景と「遠い1ピン目」

  • 当時のプロテクション事情 1980年代当時は、現在と比べてボルトの信頼性や種類、あるいはランナー(ヌンチャクなど)の長さの選択肢が限られていました。また、グラウンドフォールを一定程度許容する、あるいは「下部はロープを結ぶ前に抜ける(あるいはキャメロット等のカムで自衛する)」といった当時のローカルな慣習や開拓スタイルがそのまま反映されているケースが多くあります。

  • 物理的なリスクの放置 現代のフリークライミングの基準から見ると「明らかに初手までのクリップが遠すぎて危険」とされる位置であっても、「昔の開拓者がそう設定したから」「当時のクラシックルートの歴史的価値(または雰囲気を残すため)だから」という理由だけで、現代の安全基準に照らし合わせずそのまま復元してしまうケースが見受けられます。

2. 「保全」と「アップデート」の混同

  • 形骸化したリボルト(打ち替え) ハードウェア(金属製のボルトやハンガー)の安全性(サビや強度の劣化)を更新することと、ルートの安全性や快適性を現代の基準に合わせて最適化することは本来別問題です。

  • 文脈を検証しない現状維持 「歴史的遺産の保存」という名目であれば意味を持ちますが、単に「昔の位置をなぞって新しくする」だけであれば、現代のクライマーの身体的リスクやムーブの合理性を無視した、形骸化した作業になってしまいます。

3. 「思考停止」と呼ばれる理由

  • 時代に合わせた検証の欠如 ルートが置かれている環境、使われるギア、トライするクライマーの平均的なスキルやリスク許容度は時代とともに変化します。それらを一切検証せず、「前例通りにやるのが無難である」として思考を停止させることは、結果的に現代の安全管理や岩場の持続可能な利用にとってマイナスに働きます。

  • 「誰のためのルートか」という視点の喪失 岩場が共有財産であるならば、現代の安全マージンや実態に即して「どこにボルトがあればより合理的で安全か」を考え抜く必要があります。歴史を尊重することと、安全のための適切なアップデートを怠ることは全く異なります。


5.5でランナウトして威張っているなんて、恥ずかしい

この一言に凝縮されている問題の本質は、次のような点にあります。

1. グレードの数字と「リスクの質」の乖離

  • 「たかが5.5」という油断と現実 数字上のグレード(5.5)だけで見れば初級者向けや易しいルートと捉えられがちですが、そこに十分なプロテクションが取れない(=落ちたら大怪我をする)という深刻なリスクが伴う場合、それは難しさの質が全く異なります。

  • 技術的な難度とメンタル・リスクの混同 「難しくない(からリスクがないはずだ)」という思い込みや、安全管理の不備を「クラシックな味わい」「自然のままでスリリング」という言葉で正当化し、実態としての危険性を軽視している。

2. 「恐怖」をステータスにする歪んだ価値観

  • リスク管理の欠如を「男らしさ」や「シブさ」にすり替える 本来、安全マージンを確保して合理的に登ることはクライミングにおけるリスク管理の基本です。しかし、「あえてボルトを打たない」「ランナウトして怖い思いをした」という状況を誇らしげに語る態度(武勇伝化)の裏には、技術的な合理性よりも、恐怖に耐えたことや危うさを自己目的化する古い価値観が潜んでいます。

  • 安全な設計への放棄 適切な位置にボルトを打てば安全に登れるはずのルートで、不必要に恐怖を強いられる状態を放置、あるいは美化することは、現代的なセーフティ文化や合理的なルート設定に対する冒瀆とも言えます。

本質的な問題

技術や難易度の低さを補うために恐怖心や運任せ(落ちたら終わりのリスク)を強いる状況を「すごいこと」として威張る姿勢は、客観的なリスク評価やルートの質を向上させる思考を放棄しているものとして、冷ややかに見られて当然の対象となります。