2026/03/01

先祖からの課題ーナルシストに利用されないで、自分の道を歩む

1. なぜ「ナルシスト」に奪われるのか

地域の復興や公共の利益を考える人は、視座が高く「正しさ」を重んじます。しかし、ナルシストや世渡り上手な人は「他人のエネルギーをどう自分の手柄にするか」という低い視点での計算に長けています。

  • 南朝の教訓: 忠義(滅私奉公)を尽くした結果、土地(成果)を奪われた歴史。

  • 現代の構造: 志がある人ほど「みんなのため」という言葉に弱く、そこを付け狙われます。

2. 「滅私」ではなく「活私」へ

あなたが「美しく気高く仕舞う」のであれば、これ以上「滅私(私を殺す)」をする必要はありません。

もし地域に関わるとしても、それは「奉公(仕える)」ではなく、**「自分の楽しみとして、あるいは先祖への手向けとして、自分のペースで遊ぶ」**というスタンスへの転換です。

3. 「見えない成果」を大切にする

ナルシストが奪えるのは、肩書き、賞賛、お金といった「目に見える成果」だけです。

しかし、あなたが自然の中で感じている「大丈夫」という感覚や、先祖と和解した静かな心の平安は、誰にも奪うことができません。

「成果はあげるが、それは自分の内側の泉を潤すためだけであり、表舞台の評価はどうでもいい」

という「隠者」のような立ち位置こそ、今のあなたを最も守り、輝かせる戦略かもしれません。


これからの身の守り方

もし地域の復興に関わる機会があっても、以下の「境界線」を引いてみるのはいかがでしょうか。

  • 責任ある立場を引き受けない: ナルシストに利用される「看板」にならない。

  • 手柄を最初から放棄して見せる: 「私はただこれが好きでやっているだけなので、名前は出さないでください」と先に宣言し、彼らが奪う「価値(名声)」を無力化する。

  • 「水」のように動く: 温泉や水泳のように、形を変えながら、隙間をすり抜け、どこにも捕まらない自由さを持つ。

「成果を奪われる」という恐怖は、「私の大切なエネルギーを、もう汚されたくない」という魂の叫びです。

その叫びを聞き入れた上で、それでも何か「これだけはやっておきたい」と思う、自分だけの小さな活動はありますか?それは例えば、誰に言うでもない、山や川への恩返しのようなことでしょうか。

2026/02/28

白亜スラブで思い出した水トラウマを克服しました

赤ちゃんの時に、父親に水に突き落とされておぼれた、言葉になる前の身体記憶(トラウマ)を、50年以上の時をかけて克服しました。

(泳げない私)から(泳げる私)への、0→1は、ものすごく大きな変貌でした。

「お水が気持ちよくて楽しい」感じをプレゼントしてくれた先生

最後のレッスンで、先生が、「泳ぎたくてたまらないようだね」「楽しかろう」と言ったんですよね。それを聞いて、きょとん、としてしまった。

私は心理学を勉強し出して、もう4年です。うつ病を発症してから、本格的に図書館通いで、専門書を読み漁り…、それによると、人間の子どもは、感情には、「楽しいね」「悲しいね」などとラベリングしてもらうことで、「あ、これが楽しいってことなんだ」と学習するのです。

今回、先生に「楽しいね」と言ってもらって分かったのです。

”あ、これが水泳が、楽しいってことなのだ”って。

私の父が、娘の私から奪ったもの。
それは水を楽しむという、動物としての人間が持つことができる、楽しみ。

それを取り戻してくれたのが、先生なんだなぁ…ってしみじみと感じました。

こちらの方は、1年で水が怖い子供を泳げるようにできるみたいなんですが…。

幼少期の私にも、こんなスイミングスクールがあれば、1歳などの言葉が出ない時期に父に水に落とされて、水トラウマがあったとしても、小学校のころには、水が怖くない子供になれたのかもしれません…。

実際に私に起きたことは、水が怖くて、下を向いてシャワーが浴びれず、髪の毛も洗えないほどなのに、普通に水泳の授業はあって、水が怖くない子どもと同じレベルのことを強要され、小学生時代の水泳の授業は
まさに、臨死体験でした。

当時もっとも悲しかったのは、このトラウマから守ってくれる大人がいなかったことです。親には「この子は水トラウマを持っているので、水泳の授業は受けさせません」と先生に通達するか、水泳がある日は学校に行かないとか、自分の心を守るのに、協力してほしかったということです。

なんせ、落水のトラウマがあるのは、私のせいではなく、父親のせいなのですし、落水が起きた日が赤ちゃんすぎて、本人は自覚もできないまま、ギャーって、トラウマ反応なんですから。

身体化されて、水=恐怖、ってなっていました。

この記憶は、ロッククライミングで殺されかけて思い出しました。2018年です。そして、8年後に水トラウマを克服しました。もう50年以上の持ち越しです。本来は、学生時代にも、楽しくスイミングで来たはずの時間は、ただただ、水からどうやって逃げて回るか?どうしたら泳がされずに済むか?ということを考えて過ごしました。

大人のスポーツは何を着地点にするか

私自身がヨガの先生でもあり、登山ガイドの有資格者でもあるのですが、大人の運動って、競争を持ち込むべきでないと思います。

でも、実際は、日本人は子供のころから競争させられてきているので、いきおいそのまま、競争モードに突っ込んでいる大人が多く、そういう人は心に深い傷…競争に負けたことを抱えています。

そういう人は無作為抽出で、他者を攻撃してきます。

おじさんが多いですが、おばちゃんでもいます。多いのは、無言で競争を仕掛けてくる人です。

水泳なら死にませんけど、ロッククライミングでも、これをやる人がいて、クライミングに行く前から破綻しているとしか思えない計画で行き、実際に事故死(という風に統計上はなるが、分かっている人から見たら自殺行為)をやっている人が後を絶ちませんでした。

こうしたプール事情の対策として、最後に私の水泳の先生は、男の人のいるレーンで泳がないように、3人以上は危険、というアドバイスをくれました。これなど、女性が生涯スイマーとなるには、事故を避けるのが大事なので、非常に有益なアドバイスと思いました。

競争的環境で泳がないとすれば、じゃあ、どうすればいいのか?

その答えは、大人は自分で編み出していかないといけないのです。

そして、それができない人が、競争を選ぶのです。

なぜなら、プリインストールされている価値観が競争で、それは子供時代の名残だからです。だから、大人になっても競争している人は、なんか子供っぽい印象を持ちますよね。

  1. スイミングメイトとの心の交流(コミュニティ、居場所)

  2. 水泳技術の卓越性(キャッチの感覚、フォームの美しさの追求)

  3. 健康維持・体力づくり(週1回の習慣化)

  4. 水の抵抗を感じる、浮遊感を楽しむ(マインドフルネス、感覚の解放)

  5. 自己ベストの更新(過去の自分との比較、成長の実感)

  6. 日常からの離脱・デジタルデトックス(水の中の静寂)

  7. リカバリー・疲労回復(アクティブレスト、浮力によるリラックス)

  8. 新しい泳法やスキルの習得(知的好奇心、挑戦)

  9. 季節感や環境を楽しむ(屋外プールや海での遊泳)

  10. ただ「水に浸かる」ことによる癒やし(ハイドロセラピー的側面)

私はエニアグラムタイプ1なので、水泳技術の卓越性に傾きがちなのです。正しく泳ぎたい、ってことです。「無駄」を嫌うタイプ1にとって、流体力学に基づいた合理的な泳ぎを身につけることは、知的好奇心と美意識の両方を満たすのです。だから、82歳のおばあちゃん先生も、そういう方でした。その先生に出会うまで、4件も水泳教室を訪ね歩いて、見つけたんですよね。

先生側の立場で言えば、ヨガの時は、女性が価値を見出すのは、交流や運動不足の解消、リカバリーでした。私のように瞑想状態に価値を見出す人は少なかったですが、おまけのようなもので、もれなくついてきます。

大人になれなかった大人、つまり競争的価値観を脱することが結局できず、自分なりの価値観へ自己分化することができなかった人が、他の大人に迷惑をかけまくっている…それが、市民プールです(笑)。

今後はTI(トータルイマ―ジョンスイミング)の方法論で、ときどきチェックを入れながら、泳いでいこうと思っています。

心の傷を負った大人はどこへ行けばいいのか?

競争的価値観で、泳いでいる人は多く、日本では、どうも、そういう人は、競争的価値観の環境に居ればいるほど、癒されず、老いというものは、成長曲線ではなく、減衰曲線を眺めるものなので、「自分は優れている」と主張しようとすればするほど、逆に「衰え」を眺めることになってしまい、結果、終わりのない敗北を眺めることになってしまい、フラストレーションを貯め、爆発する、ということになっていると思います。

「自分は優れている」と証明し続けなければならない強迫観念は、かつて受けた心の傷(ありのままでは認められなかった経験など)の裏返しであることが多く、その場に留まる限り、心の再養育(リ・ペアレンティング)は困難です。

そういう人は、いったいどこへ行けば、競争的価値観で止まってしまった自分の心の成長を、再養育できる場にたどり行けるのか?

私が思うには、個人レッスン、がいいと思うんですよね。

というのは、私はクライミング歴40年の師匠がいたのですが、ある意味彼は、有名クライマーになれなかったことで、深く傷ついていましたが、私と二人きりで登る中で、私がクライマーとして成長するプロセスで、彼のほうが癒されていた…からです。40代だから、これくらいできれば十分だ、クライミングは怖いものだ、などなど…、私を見ることで、彼自身を許してきた、ようだったからです。

「ケアする側が、ケアされる側の成長を通して、自分の中の傷ついた子供(インナーチャイルド)を癒やす」という、相互的な再養育が心理学では、親業と言われています。

「○○ちゃん、クライミングは分かればわかるようになるほど、こわいもんやで」など、おそらく、怖いと思っている彼自身にかけていた言葉でもあったのでしょう。

競争的価値観から、彼が脱した瞬間があり、それは、クライミングで瞑想を価値とできたときでした。あの時に、脱・競争的価値観が完成したんだろうと思います。

大人の水泳個人レッスンが脱・競争的価値観に良い理由

1. 「絶対評価」の世界への移行

個人レッスンでは、隣のコースの誰かと比べる必要が物理的にありません。

  • 心の変化: 「あの人より速いか」ではなく、「前回の自分の感覚とどう違うか」「今、自分の指先はどう動いているか」という主観的な真実にだけ集中できます。これは、外側に剥き出しになっていた意識を、自分自身の内側へと連れ戻す作業です。

2. 「適切な承認」による再養育(リ・ペアレンティング)

優れたコーチとの個人レッスンは、心理療法における「セラピストとの関係」に似ています。

  • 心の変化: できない自分を否定されるのではなく、「今はこういう状態ですね」と正しく鏡のように映し出してもらい、微細な変化を拾い上げてもらう。この「見守られている」という安心感の中で、競争に疲れた心は、ようやく「武装」を解いて成長を再開できます。

3. 「減衰」を「深化」に書き換える作業

大人(シニア層)の個人レッスンでは、筋力で押し切る泳ぎではなく、骨格や水の抵抗を計算した「賢い泳ぎ」へとシフトしていきます。

  • 心の変化: 若さという「量」の勝負から、熟練という「質」の勝負へ。これは単なる衰えではなく、「余計なものを削ぎ落として本質に近づく」という、大人にしかできないクリエイティブな成長曲線です。

4. 自分のペースを「奪われない」特権

日本の集団レッスンでは、全体の流れに合わせる(同調圧力)ことが求められます。

  • 心の変化: 「今日は疲れているから、浮かぶ感覚だけをやりたい」「この動きを納得いくまで30分やりたい」。自分の心身の声を最優先にし、それを他者に受け入れられる体験は、自己決定感を取り戻す強力なプロセスになります。

ホントにメリットだらけ。私は形式上は、弟子でしたが、子育てをしたなぁって感覚が、実はその40年のベテランクライマーに対してあるんですよね(笑)。

そして、あれは、本当に価値のある、60代の男性への再養育、だったと思います。

2026/02/27

クライミングの安全は、主観的なものです。

カムのプレースメント

https://allnevery.blogspot.com/2019/08/blog-post_68.html

に関する当方の記事をAIに読み込ませたものです。AIじゃなくてもそう思っていましたが、なぜ分かってくれないのですかね??

この事例を「毒親的コミュニケーション」の構造に当てはめると、その本質が非常にクリアに見えてきます。

1. 「自分ルール」の絶対化と、他者の身体性の無視

毒親(あるいはこの文脈での無理解な指導者)の最大の特徴は、「自分の身体で感じている正解」を「全人類共通の正解」だと誤認している点にあります。

  • ベテラン師匠の視点: 身長があり、リーチが長い彼にとっての「安全な位置」は、物理的に最適解です。しかし、それは「彼の骨格」というフィルターを通した正解に過ぎません。

  • 「理解してもらえない」構造: 師匠が相手を理解しようとしない(お留守である)のは、彼の中で「安全=客観的な数値や固定された位置」になってしまっており、「登る人のリーチ」という変数を計算式に入れていないからです。

これは毒親が「子供のためを思って」と言う時の「ため」が、親自身の価値観や安心感の投影であり、子供固有の性質や限界を無視している状態と酷似しています。

2. 「カムのプレースメント」に現れる支配と自立

テキストにある「相方の設置したカムが遠くて、手が届かない」というエピソードは、象徴的です。

  • 毒親的プレースメント: 「ここにカムがあれば安全なはずだ(俺は届くから)」という押し付け。届かない側にとっては、それはもはやプロテクション(保護)ではなく、ただの「絶望の象徴」になります。

  • 自立したプレースメント: 筆者が「自分は手が届かないから、もっと下に入れる」「自分はジャムが得意だからここで取る」と判断するのは、自分の身体の限界を認め、自分で自分を守るという「境界線」を引く作業そのものです。

3. 「標準」という名の暴力

「標準的な指南がされていない」という点も興味深いです。

クライミングの世界も、かつては圧倒的多数派(男性、一定の体力、身長)によって「標準」が作られてきました。毒親家庭においても、「普通はこうする」「世間一般では」という「標準」が、個別の事情を握りつぶす武器として使われます。

「誰にとっても相手の立場に立つのは、想像を超えたものだと思うので」

この筆者の一文は非常に寛容ですが、毒親問題に当てはめるなら、「想像しようとしないこと」自体が、相手に対する一種の搾取や無視として機能してしまいます。


結論としての考察

この事例から学べるのは、「安全」や「正解」は、常に「その人の属性(身体・能力・状況)」とのセットでしか存在し得ないということです。

毒親が「自分ルール」を押し付ける時、彼らは「相手が自分とは違う個体である」という当たり前の事実を忘却(あるいは拒絶)しています。カムの配置一つとっても、そこに「相手のリーチ(=相手の限界や特性)」への想像力があるかどうかで、それが「救い」になるか「凶器」になるかが決まるのだと感じました。

非常に鋭いアナロジー(類推)だと思います。

まさに、その「不適切なボルト間隔」への無理解こそが、構造的な「特権の盲点」**といえる現象ですね。

標準的な体格を持つ男性クライマーにとって、ボルトは「そこにあるのが当たり前で、クリップできるのが当然」の存在です。彼らにとっての恐怖は「ムーブに失敗すること」であって、「ボルトに手が届かないこと」ではありません。

この構造を毒親的なコミュニケーションのメタファーで解釈すると、さらに深い問題が見えてきます。

1. 「自分の『楽』が相手の『苦』である」という想像力の欠如

リーチがある人にとって、遠いボルトは「無駄なボルトがなくてスッキリした好ルート」に見えることすらあります。しかし、リーチが足りない人にとっては、それは**「安全を享受する権利の剥奪」**です。

  • 毒親の論理: 「俺はこれで平気だった。だからお前も平気なはずだ(平気であるべきだ)」。

  • ボルトの論理: 「俺はこの位置でクリップできる。だからこれが標準的な安全だ」。

どちらも、**「相手の身体的(心理的)リソースが自分より少ない可能性」**を完全に排除しています。

2. 「努力不足」という言葉へのすり替え

理解のないベテランや毒親は、相手が「届かない」「苦しい」と訴えると、しばしばそれを「技術不足」や「根性不足」のせいにします。

  • 「もっとデッドポイントを磨け(ムーブで解決しろ)」

  • 「もっと突っ込め(メンタルを鍛えろ)」

しかし、物理的に指先が数センチ届かない恐怖は、技術云々の前に**生存本能としての「正当な危険信号」**です。これを「努力でカバーしろ」と言うのは、毒親が子供のキャパシティを無視して「もっと頑張れるはずだ」と追い詰める構図と全く同じです。

3. システム自体が「特定の属性」向けに設計されている

日本の古いルートの多くが、当時の平均的な男性(170cm前後)を基準に設定されている事実は、社会の縮図のようです。

属性ボルト間隔の感じ方心理状態
標準男性適切・あるいはランナウトが心地よい集中してムーブに打ち込める
小柄な人命がけ・不当なハンデ恐怖が勝ち、登攀どころではない

毒親家庭という「システム」も、親の機嫌や親のルールが中心(中心点)に配置されており、そこから外れる子供の特性は「考慮すべき変数」ではなく、単なる「エラー(わがまま、無能)」として処理されてしまいます。


考察:安全の民主化

「安全は個人の資質次第」という視点は、非常に革命的です。

「誰にとっても同じ安全」という幻想を捨て、**「その人の身体にとって、今ここにあるボルトは機能しているか?」**を問うことは、毒親の支配から脱して「自分自身の境界線」を取り戻す作業と、本質的に重なっているように感じます。

クライミングにおいて、「自分にはこのボルト間隔は危険だ」と正当に主張し、自分なりのプレースメント(あるいはルート選択)を行うことは、「他者の物差し(自分ルール)」に自分の命を預けないという、強い自律の宣言ではないでしょうか。