2025/12/30

九州でクライミングに興味を失った理由

さてさて、みんな、楽しく登っていますか?私は、ラオスにクライミングに行って、いたく楽しかったのですが、それは、全部オンサイトだったからです。

全部オンサイトって超楽しいです。

一方楽しくないのが日本のクライミング。

ハングドッグ(テンションをかけてルート上で休んだり、ムーブを練習したりすること)を繰り返した末、ムーブがつながった!となって、それからの完登は、純粋な「一回勝負の冒険」という観点からは、

「高度にリハーサルされたスポーツ・パフォーマンス」

へと変質しています。

ハングドッグはプチ・トップロープ

ハングドッグでムーブを完全に解明した状態でのリードは、実質的には「墜落の危険がないことを確認済みの作業」で、登れることは当然って感じになります。

ジムでも、なかなか登れなくても、一回登れたところは自動化して登れますよね。

私が思うには、ハングドッグをしても、あんまり登れるようになるのに効率的でないのに、ハングドッグがかっこいいと思うことで、ハングドッグ以外の試行錯誤の手段を失っている。

結果、指をパキる。

管理されたスリル

 本当に命懸けのリード(OS/オンサイト一択の世界)は、現代社会ではリスクが高すぎます。

「プチトップロープ」状態まで解像度を上げることで、死や大怪我を避けつつ、リードというスリルだけを抽出して楽しんでいる、とも解釈できます。

現代クライミングが失いつつあるのは「不確実性への挑戦」なんだろう

「ハングドッグしてムーブを固めるのは、カンニングペーパーを作っているようなものだ」と感じる層にとって、本来のクライミングの価値は、結果(RP)よりも、初めてその壁と対峙した時の知性と勇気の交差点(OSやフラッシング)にあるはずだからです。

一方で、その「RP儀式」を突き詰めることでしか到達できない身体的極限があるのも事実です。

その両立が行われているのが、現代のスーパーアルパインなんですよね。
フリークライミングの基礎力の上に築かれたあるパインクライミングです。

「リハーサルスポーツ化」の現代のフリークライミング

「未知への挑戦」から「再現性の追求」へ

本来、登攀(とうはん)は「何が起こるかわからない場所へ行く」という非日常的な体験でした。

しかし、リハーサルスポーツ化した現在のクライミングでは、価値の力点が「未知」から「再現性」へと移っています。

  • 練習(ハングドッグ): 未知の要素を一つずつ潰し、既知のパズルに変える作業。

  • 本番(RP): 練習で作り上げた「正解のムーブ」を、一滴のミスもなく再現するデモンストレーション。

  • 構造: これは、即興演奏(オンサイト)ではなく、クラシック音楽の演奏やフィギュアスケートの演技に近い、「事前の準備をいかに完璧に披露するか」というスポーツの形です。

「プチトップロープ」という安全圏での限界突破

「リハーサルスポーツ化」が進んだ最大の要因は、「リスクの分離」です。

  • 物理的リスクの排除: ハングドッグによって、墜落の軌道、プロテクションの強度、ホールドの保持感をすべて確認します。これにより、実質的には「リードの形を借りた、安全な反復練習」が可能になります。

  • 純粋な身体能力の測定: リスク(恐怖心や不確実性)という「ノイズ」を取り除くことで、自分の純粋な身体的限界(グレード)だけを測定できるようになりました。

  • 結果: これによってクライミングのグレードは飛躍的に向上しましたが、同時にそれは「冒険(アドベンチャー)」としての側面を削ぎ落とすことになりました。

日本における「リハーサル」の過剰な重視

日本のクライミングシーンにおいて、この傾向が強く感じられるのは、以前お話しした「型」への意識に加え、「失敗への不寛容さ」「効率性」という社会的背景も影響しているかもしれません。

カンニングペーパーの完成という意味合い
 
ヌンチャクがすでにかかり、ムーブも教わり、ハングドッグで固める。この「完璧な準備」が整わない限り、本番を出さないという姿勢は、失敗を恥とする文化的な「リハーサルへの執着」とも繋がります。

「登れた」という記号の消費
 
リハーサルを完璧にこなして得られた「RP」という結果(記号)だけが、SNSやジムのコミュニティで流通し、評価の対象となります。

その裏にある「ハングドッグという名のリハーサル」がどれほど長く、本質的に「プチトップロープ」であったかは、問われることがありません。

2時間ハングドッグして登れたことなんて、自慢になるんですかね?
もしかしたら、逆なのではないでしょうか?


「リハーサルさえすれば、格上のルートも自分の手中に収められる」という感覚

により、クライミングは「冒険」を失い、「スポーツ的なルーティン作業」になっていますね。それは確実にそうです。

そこに、ある種の「魂の不在」を感じる。泥臭さがない、というか。
まぁ、私にとってはつまらない作業なんですよね。

それで九州では興味を失いました。

とても退屈なものに感じられるからです。私の好きな山は、読図であっても一発で、思った通りのところに降りた時の快感がある山です。

ルートファインディングが的確であることに無上の喜びを感じます。

山のサイズなんて、別に小さくてもまったくOKです。

難度も必要でないです。


なんせ、山では、難度が引く平べったい山のほうがルートファインディングは難しいのですから。