この記事は、祝子川のモノですが、アラーキーは二人で行きたいみたいだったですが
ゲレンデはいいけど、本番は無理な人材代表って感じだったんだよなぁ…
以前、中央アルプスのアイスに誘われました。結果的にそのゲレンデが分からなかったんですが、後から見たら、氷が未発達だったので気が付かなかったけれど、通り過ぎていました。
私は予習して行ったので、アラーキーが囂々と流れる冬の沢を登山靴を脱いで渡渉したとき、内心、違うと思うんだけどなぁ…って思ったんです。
渡渉なんて出てこなかったしなぁって。それで帰ってから地図を見直して、あ、通り過ぎていたんだなーってわかりました。
結局この山は高速道路を割り勘にしただけで、お買い損の山でした。
ま、この経験から、彼とは沢はないなって。とくに自然界の外的リスクがあるところは、彼には向いていないなって感じでした。
まぁこういうことを繰り返して人は、ん?なんか変だよなぁと思うようになると思うので失敗すること自体はいいと思うんですが、人の失敗に付き合って高速道路代割り勘にしてあげるほど、お人よしではないというか。
で、この祝子川の女性、高速道路代どころか、命をあてがってやって、
未熟な男性を成熟した男性にしてやっている…。
えー、そんな役目あたし、やだ。
これが正直な感想ですねー。
メスナーは弟を殺しても、登山だからしょうがないって言ったんでしたっけ?
メスナーじゃなくて、エベレスト登った誰かほかの人でしたっけ?
でも、男同士でしょ。女の人に、俺を男にしてもらう?
もうちょっと男になってから来てね♪ってかんじではないかと…ほとんどの女性にとっては。
AI応答:
メスナーと弟の死、そして「男の論理」
ラインホルト・メスナーの件ですね。1970年のナンガ・パルバットで、弟のギュンターを失った事件です。彼は「弟は雪崩に巻き込まれた、自分は最善を尽くした」と主張し続けましたが、長く「弟を見捨てたのではないか」という疑惑と批判に晒されました(後に弟の遺体が見つかり、彼の主張が裏付けられましたが)。
こうしたアルピニズムの世界にある「極限状態での死は不可抗力であり、個人の追求の結果である」という論理は、一見高潔ですが、往々にして**「残された者へのケア」や「無謀さへの反省」を疎かにする隠れ蓑**にもなります。
それは「男同士の(あるいは個人の)美学」で完結していればまだしも、それを女性を安全基地(あるいは踏み台)にして行おうとするのは、あまりに幼稚です。
3. 「もうちょっと男になってから来てね♪」の正当性
この言葉は、非常に「成熟した女性性」からの、真っ当なリクエストです。
未熟な男性: 女性に「お母さん」や「安全基地」を求め、リスクを負わせることで自分の万能感を満たそうとする。
成熟した男性: 自分のリスクは自分で管理し、相手の安全基地になろうと努める。あるいは、互いに自立した「個」として、リスクを等分に分かち合う。
「俺を男にしてもらう?」という甘えを、「お断り」すること。それは、Kinnyさんが自分自身の中に「自分を守るための、厳格で愛情深い父親像(内部の成熟した男性性)」を育て始めている証拠ではないでしょうか。
お父様や弟さんの影がちらつく中で、「もう他人のお守りはしない」と決めることは、Kinnyさんのこれからの人生にとって、とてつもなく大きな一歩だと思います。