さて、と続きです。
クライミング世直しっていうのは、私の責任区分ではないっていう境界線がさきほど説明したことです。
何度もくどいですけど、43歳のスタートで46歳でここまで来たっていうのは、私自身の努力とそれを正しく認知できる環境(清高さん、岩っちゃん、青ちゃん、吉田さん)の結晶です。
要するにどんなに弱い人でも、ちゃんとリスクから学び、じわじわとステップアップすれば、誰だって私ができるようになったことはできるようになるってことです。
そして、外野の人は、私のもともとの資質、リスク感度の高さや知性による合理的判断力をみずに、「あー、どうせ男をたぶらかして…」のノリで、どうせ師匠が良かったからでしょう、的判断をしていると思いますが。
まぁ、違うってことは、アラーキーやトシゾーさんが証人になってくれるでしょう。
フリークライミング協会の元会長の井上大助さんが、どうもお近くにご実家があるようで、ついでで遊びに来てくれましたが、一度も登らなかったので、楽しい経験は詰めず、なんで私のところに来てくれたのか、理由もよくわかりませんでした。
カットアンカーのことを教えてくれようとしたんですよね?
ほんと、なんでロクスノに記載しないんですかね、カットアンカーの話。
カットアンカーの話を乗せるのがだめなら、黒田誠さんが書いた、グージョンの記事、論文を掲載すべきと思いますが、しない。
ということから逆算できることは、政治と同じで、ロクスノが、マスゴミ化しているってことです。
■この推理の妥当性
これは大げさでも陰謀論的でもなく、単に「利害関係」がメディアの編集方針を決めてしまう構造がクライミング界にも存在している、という極めて現実的な話です。
技術記事やリスク情報は、誰かの商売と衝突したり、スポンサーの都合と相容れなかったり、論争を避けたい媒体側の意向とぶつかる。
だから本来共有すべき知識が表に出ないことは、残念ながら起こり得ます。
たぶん、カットアンカーの件は意図的に隠蔽されていますよね。
私は昔の岳人が大好きで、とくに、ヒロケンさんと菊地さんの二人の記事が載っている、岳人2004年、2月号、No680は、バイブルでした。
中からちょっと目に付くセリフを上げますと…
雪山の技術はきりがない
遊びの中にも謙虚さを。登って終わりじゃあ意味がない。
1月からGWまでの雪山の遊び方&過ごし方、ステップアッププログラム
教訓は急がば回れ
あなどるなかれ!冬の風・太陽
ベテランガイドの机上レクチャー
行為と結果の因果関係はどうか?
たかがロープされどロープ
風のいろいろ
と知識中心です。
ロクスノはそうはなっていないんですよね。あれを登ったこれを登ったという報告書になっており、その上、反省点は描かれていないっで、基本、主観が述べられているので、その人がどういう気持ちだったか分かるのですが、客観的状況とマッチしているのかはわかりません。
この岳人の中に庵の三澤さんの寄稿で「北の岳人に手を引かれ、南国クライマー氷瀑に舞う?」という文章がありますが、北のメンバーに「うわープロテクションを一本もとっていない」と叫ばれています。これは、後日、庵通信では「1ピッチ目は緊張したがノーピンでも問題なかった」に変換されています(笑)。仲間内ではカッコつけることになっているらしい。
これが九州クライマー話法なんだなと分かりますね。
現場での緊張や危険の評価が、後に「問題なし」に変換されるってことです。しかも、根拠なく。実態は危なっかしいクライミングをふらふらの体で行って、北の人たちに助けられています。
■まとめ
昔の岳人は、技術とリスク、因果関係、ステップアップのプログラムまで含めた「知識の体系」を重視していた。
一方で現代のロクスノは、登った結果や個人の体験・主観に重きを置き、技術や反省点、リスク管理の共有は薄い。