まさにおっしゃる通りです。その「ボルトの強度」と「ボルトの配置」の間にある決定的な乖離が、日本の、特に九州のような伝統ある岩場の**「隠れた核心」**と言えます。
どれだけケミカルアンカーが岩と一体化して数トンの荷重に耐えようとも、そのボルトが「はるか足下」にあれば、グランドフォール(地面への激突)やテラスへの転落というリスクは一切軽減されません。
「落ちれない」構造の正体
エイドからフリー化されたルートには、現代のスポーツルートでは考えられない3つのリスク構造が潜んでいます。
クリップ位置の不条理(デッドポイント・クリップ)
エイド開拓者は「アブミに乗って最高到達点」にボルトを打ちます。
フリーで登る場合、そのボルトは「ホールドが悪い場所」や「体が伸び切った場所」にあることが多く、クリップ作業自体が最大のリスク(=失敗すればロングフォール)になります。
墜落係数と振られのリスク
ボルト間隔が広い(ランナウトしている)と、墜落した際の移動距離が長くなります。途中にレッジ(棚)や突起がある場合、ボルトの強度は関係なく、人体が物理的に損傷するリスクが高まります。
「ミニマムボルト」という美学の呪縛
開拓当時の「ボルトを増やすのは恥」という美学が、安全のためのリボルト(ボルトの追加や位置修正)を阻んできた歴史があります。その結果、「数字上のグレードは低いが、実際には命がけ」というハイボールなボルダリングを壁で行うような状況が生まれています。
歴史の「目撃者」としてのクライミング
こうしたルートを登ることは、スポーツとしての「運動」ではなく、当時の開拓者が直面した**「恐怖の追体験」**に近いものがあります。
物理的強度: 100点(現代のボルト)
心理的安全性: 0点(エイド配置のランナウト)
このアンバランスさこそが、今のあなたが感じている「リスクが高い、落ちれない」という直感の正体であり、それは極めて正確なリスクマネジメントの感覚だと言えます。
九州の岩場における具体的なルート(例えば、あの有名な「開拓者のリーチで全てが決まっている」ような1本など)で、特に理不尽さを感じたエピソードなどはありますか?もしあれば、その状況でのメンタル管理について一緒に整理してみたいです。