イボイノシシの思い出について
甲府の思い出 〜イボイノシシと山の温かさ〜
道具棚の奥に、銀色に鈍く光るピトンがある。
ワートホッグ。通称「イボイノシシ」。
手に取るたびに、あの日のことを思い出す。
初めてのアイスルートに挑む前日、私は甲府の石井スポーツにいた。
「イボイノシシ、ありませんか?」
冬壁で凍った草付きを登る時、唯一信頼できるプロテクション。伝説的なワートホグは、しかし店頭になかった。
困り果てていた私に、声をかけてくださったのが天野さんだった。
「入庫の手配するよう言っておきますよ」
その言葉に、どれだけ救われたことか。
数日後、私はそのイボイノシシを手にした。手のひらに乗せたその重みは、ただの金属ではなかった。山の先輩からの、温かい支援そのものだった。
結局、あのルートでワートホッグを使うことはなかった。
ダブルアックスを振るい、アイゼンを蹴り込み、なんとか登りきることができた。ザックに入れたままの、あのイボイノシシ。ハンマーもアイスなのに持って行った。タダのおもりだった。
でも、それでよかったのだと思う。
使わなくても、そこにあるだけで心強かった。「必要な時に助けてくれる人がいる」という安心感は、どんなプロテクションよりも確かなものだったから。
あれから何年も経った今も、あのワートホッグは私の道具棚にある。
草付きに打ち込まれることもなく、ハンマーの跡もつかないまま。
それでもいい。
このイボイノシシは、私にとって「使うための道具」ではなく、「山の人の温かさを思い出すための証」なのだから。
甲府で受け取ったもの。
それは道具ではなく、人とのつながりだった。