いや、びっくりしました。
なんで、富士山だったんだろうか?
三名の登山者が富士山で遭難というニュースが入り、またか~と山に不慣れな登山初心者なのかなぁ…と思ってニュースを聞きましたが、なんとクライマーの中でも
プロ中のプロ
みたいな前途のあるクライマーの倉上さんが同じ日に富士山で持病で亡くなったというニュースでびっくりしました。
心臓に問題を抱えているクライマーであることは知っていましたが…、なぜ富士山…?
以下、いくつか彼の業績や考えが分かる記事が出ていたので、紹介です。
1)なぜ除細動器をいれなかったのか?
https://number.bunshun.jp/articles/-/856054
2)公式サイト
3)プロフィール等のまとめサイト
https://hiroko310.com/2024/06/26/kurakamikeitabyouki/
4)お話しされている様子が分かる動画
https://youtu.be/3ZMykleuF-4?si=jOZLj7vnDKwg3ACQ
5)雨猿ラジオ
https://podcast.app/rainy-monkeys-radioyu-yuan-razio-p2325189
声が素敵なクライマーでした。
■ Climbers We lost
倉上さんは、著名クライマーなので、ロクスノに追悼が出るのではないか?と思いますが、本当に親交があった人からの文章であってほしいなぁと思います。
というのは、故・吉田和正さんの記事が出たとき… 誰でも知っている有名クライマーからの追悼文だけで、本人の身辺を良く知っている人たちの追悼文ではなかったように思ったからです。
私はもっと深く吉田さんを知りたかったので…亡くなったことを聞いてショックでしたし、もっとクライミングと吉田さんの深い関係について、良く知る人から聞きたかったです。
日本では、有名クライマーの追悼しかロクスノには載りませんが…アメリカでは、Climbers We Lostという特集があり、毎年、亡くなった一般クライマーの思い出や追悼の話がまとめて出されています。
日本もやったらいいのに…。有名クライマーだけでなく、誰の命でも大事な命です。
一般クライマーの死は取り上げない、取り上げられないから、大した命ではない、価値はない、というメッセージを、暗示で送ってしまっています。
そうしたら、犬死というような、つまらない死に方のクライミング事故も減るでしょう…
■ 命を輝かせて生きるほうが、長く生きるより、私は好き
私個人の意見ですが、私は、長生きするよりも、命を精いっぱい使って好きなことをして生きるほうがいいと思います。
私は7歳から希死念慮があります。希死念慮がある、ということは、自分らしく生きさせてもらえないくらいなら、もう死んでしまいたい、と思うほどに、自分のしたいことに命を使うことが本人にとって大事だ、という意味です。
7歳から希死念慮があるのは、なぜか?
子供時代というのは、親に逆らえない。逆らったら、生きていけないからです。
なので、”偽りの自己”を作り上げないといけなくなります。親の気に入る子供像を生きるということですね。
以後の人生は、偽りの自己を抜け出すための人生みたいになります。
■ 賞賛を求めず、クライミングを求めることの大事さ
クライミングをすることや、クライマーであることが、”本当の自己”なのか?”偽りの自己”なのか?は、人によります。
親が賞賛される子供だけを欲しがる場合、子供は子供自身を愛してもらえず、賞賛を得たときだけ、愛してもらえるということになります。
例えば、テストで100点を取った時だけ親が喜び、そうでないときは悲しむなら、無条件の愛ではなく、条件付きの愛です。子供自体を愛しているのではなく、テストで100点取れる子、を愛しているってことです。
同じことで、クライミングも、”登れる俺”が、自尊心の根拠となってしまう人もいます。そうなると、登れなくなった途端に自尊心の傷つきを抱えることになってしまう…
そういうクライマーを何人も見てきました。
そういう風にクライミングを使う人もいれば、純粋にクライミングが大好きという人もいます。
私には、登れるか、登れないかは、どんな体に生まれついたのか?いつクライミングに出会ったのか?の差にしか感じられません。
私は、ヤングケアラーであり、優等生として子供時代を過ごしたので、クライミングというのは、登山も含めて、ですが、子供時代の自分らしさ…優等生キャラ…とは対極にあり、なんだか、もともとの冒険好きで元気で明るい女の子、という本来の自分の自我を人生の中盤で取り戻した感、があります。
もちろん、それは、私たち兄弟にはいなかった父親を求める、探索要求と重なったわけですが…。
今後、私がクライミングを続けるのか?まだよくわかりませんが、私は、倉上さんのように、クライミングに自分の、何か才能のようなものを見出しているわけではなく、単純にクライミングくらい、強度の強い、失敗の許されない活動をすると、ものすごく集中でき、その集中が、自分の散らかりがちなマインドを整えるのに貢献するのです。
やってみたら、水泳でもできるし、テニスでもできることが分かりました。要するにスポーツの技の習得に、マインドフルになればよかったのかも? バレエやヨガも、技の習得にマインドフルになる活動ですしね…。
なので、私にはRはイラナイ。普通のクライミングで十分集中できるからです。いくら5.8でも、40mランナウトはイラナイ。
それにしても、彼の千日の瑠璃などの業績は、すごいものでした。
九州では、レベル感が40年前のままで、いくらランナウトしても、5.8では、現代のトップクライマーのレベル感を持ってすると、赤子の手をひねるくらいな簡単さなのではないか?と思ったりしました。
そのようなレベルで自我の源泉にしてしまうのが陳腐というか…。自己肯定感を上げる、という目的に使うには、時代感覚的に、遺物になってしまっている…。
もちろん、自己肯定感を上げるために何か成果を求めること自体が、そもそも、条件付きの愛を、本当の愛だと間違って求め続ける行為ではあるのですが…。
■ 人間の器が試される
クライミングや山登りって、正直な自分自身が試されます。
ちょっとしたミスや思い違い、かけ違いで、死ぬとなれば、いい加減なことは、普通はできないからです。(ナルシストで頭が悪い人の例外を除く…笑)
それを思うと、彼の業績から逆算すると、いかに器の大きな人だったのか?ということがうかがえると思います。
ご冥福を心より、お祈りいたします。
■参考記事
故・吉田和正さん https://allnevery.blogspot.com/2016/09/blog-post_68.html
故・村上周平先生 https://allnevery.blogspot.com/2022/04/blog-post_19.html