■ 防衛機制
こちらのブログを参考にまとめました。
① 逃避
逃避は、辛い現実を避けようとする防衛です。
英語ではwithdrawalです。何か自分がミスをしてしまったとき、それを見なかったことにする、無かったことにしてしまい、責任を取らない、ということは、逃避、となります。
例:
・試験勉強をしようと机に座ったとたんに、なぜか部屋の掃除をしたくなり掃除を始める。
・幼児は、多くの刺激に疲れた時には眠ります = 逃避
・大人の場合は、社会や人間関係から逃避して、自分の内的な空想の世界での刺激を求める
・薬物等の使用により意識状態を変えるのも一種の逃避
つまり、広く言えば、コーヒーや居酒屋も逃避です。逃避はストレス発散と似ているのですが、発散はしていないで、方向性を変えただけですので、問題は残り続けます。
逃避の相補的メリット: 現実を歪曲しないですむ
② 否認
否認は、クライミング界には顕著です。
しょぼいミスで遭難した事例は、まず事故自体が発表されません(笑)。否認の根拠に、故人の名誉が用いられます。しょぼい事故で死んだことを恥と考えているため、秘匿します。
例:
肉体能力や認知能力の衰えを認めずに運転免許証を返納しない高齢者
否認の明らかに病理的な例は、躁状態です。ですので、クライマーハイ=躁状態にある人は、自らの身体的限界を否定します。
睡眠の必要性、経済的緊急事態、自分の弱点やいつかは死ぬ存在であることすら、否認します。躁状態です。
③ 「万能的支配力 (omnipotent control)
これを防衛の一種に分類する立場は少数派のようです。
幼児期の万能感をもとにしているようです。自分の望みには魔法のような絶大な影響力があって「願えば叶う」というような万能感(自己肥大感)はスピの世界でよく聞きますが、これは、赤ちゃんが「自分が不快だと思う→オムツが乾く」という風に観察力などの欠如の結果であるようですね。私もたまに、原因と結果の法則をスピの人は無視しているんではないかと思ったりします。
赤ちゃんが自分と外界の区別ができるようになると、自分の無力さに気づき、それが不安を呼ぶので、今度は養育者を万能だと信じることで安心感を得ようとします。さらに成長すると、養育者でさえ万能ではないという現実に気づき、それを受け入れながら成長することで、自分の影響力には限界があることを認識した大人に成長していきます。
クライミングに例えると、俺ってスゲー=万能感 → 自分が登れないところが出てくる → 指導者やトップクライマーなどに万能を求める → しかし、それでも限界があることに気が付く → 成熟したクライマー です。
ロープがないと危険→落ちなければいいじゃないか = 万能感の段階
フリーソロのアレックススゲー、倉上スゲー etc... = ランナウトやフリーソロ礼賛
マークアンドレ = あれ?死んでる… = 限界に気が付く
どんなに優れたクライマーでもロープによる確保は必要 = 成熟したクライマー
ってことですね。男性は特に万能感へのあこがれが強いような気がします。
自己万能感の防衛は「他人を出し抜け」という働き方をします。クライマー界では、だしぬけ=ルサンチマンとして働いているかもしれません。たとえば、チッピングをする人は、この思いのために行っている可能性があります。倫理観より、自己万能感が優先するからです。
自己万能感と違い、有益な自己効力感は、次のようなものです。
トランプなどの勝負ごとで、相手の出方やゲームの展開の読み、その勘が当たって勝ちを手にした時の快感は、「願いは叶う」という「万能的支配力」の感覚に近いものです。
これは、私にとって、投資や山行計画でのリスクの読みが当たる感覚に近いです。海外登攀に出かけたとき、ホテルの選択などで、良い選択が出来たときもこれになります。ほかにはヨガのクラスがあります。良い内容を出来た、という実感があるとき、読みが当たった時です。
④ 理想化と脱価値化
養育者を万能だと信じることで安心するという心理です。
大人になると、国を運営している人々は自分よりも賢く頼りがいがあるという望みに表れます。民主主義国家であれば自分の今の生活は守られるという安心感などもそうです。
クライミングでは、師匠やメンター、山岳会への信頼がそうですが、それは、まぁ打ち砕かれるのが早ければ早いほど良いかもしれません。
他人から、魅力や権力、知名度などを絶え間なく称賛されることを必要とする場合、それは理想化と脱価値化という防衛の結果です。
グレード競争の結果、おれは5.13と言わないといけないクライマーが増えたのは、万能感を根底にするのかもしれません。
自分の妻の癌を治療できるのはこの医者しかいないと主治医を理想化している夫は、妻が治療の甲斐なく死亡した場合には、その医者を裁判所に訴える可能性すらあります。あの学校に進学さえできれば、あの会社に就職さえできれば、減量して痩せさえすれば…エベレストに登れさえすれば…あるいは、2段がノーマットで登れさえすれば…、5.13が登れさえすれば…等々、対象を理想化して「それさえ実現すれば私は完璧になれる」という心理は、それほど珍しくありませんが、その裏側には不完全な自分への不安があります。そして、それが実現したときに理想化の幻想が破れて、大きく落ち込むことも珍しくありません。
防衛機制⑤ 取り入れと同一視
取り入れは、健全なものを取り入れる場合と、不健全なものを取り入れる場合があるようです。当然か。
クライミングにおいては、クライマーとしての入門者時代に健全な態度を取り入れるのが大事ですね。
例えば、「これ、5.9だぜ、こんなのも登れねえのか…」というのは健全な態度ではないです。甲府時代もこの態度を取り入れていたクライマーに遭いましたが、クライミングの経験値が増加した今、分かるのは、
日本の5.9が、本当に5.9であることはほとんどない
したがって、5.9が普通に登れないことは、5.12をインドアで普段登るクライマーでも起こる
そのため、私を責めるクライマーが持っている防衛は、この”取り入れ”という防衛機構なのだと気が付くようになりました。
家族に争いが絶えないなどの劣悪な環境に育った子どもは、境界線を曖昧にすることによって環境の悪さを自分の悪さと感じます。お母さんが機嫌が悪いのは、自分のせい、というような感覚です。
強く惹かれる他者との境界線が曖昧になり、他者を取り入れた結果、それが自分のアイデンティティの一部になっている場合には、例えば、「私は〇〇の母」など…、その重要な他者を失った際には自分の一部を失ったように感じるそうです。
その空虚感や喪失感を回避するために、自分を責めたり、相手を責めたりし続けることでうつ状態になるという解釈です。
子どもが巣立った後の親や人生を捧げてきた仕事から引退した人にも当てはまる場合がありそうです。このように、不健康な取り入れは抑うつに関係すると考えられます。
これは、クライミングをアイデンティティの一部としていた山梨時代の私が九州に来てクライミング自体を喪失したこととについて言えるかもしれません。
同一視は中立的なプロセスであり、同一化の対象によって健康的にも病的にもなりえます。例えば、手本となる他者を見て真似ることを「モデリング」と呼ぶことがあるように、日常生活でも観察されます。
最近水泳の先生の、準備運動のかけごえが、まるで体育会系男子みたいなので、変だなーと思っていたのですが、同一視、だと思います。
私はクライミングでは何に対して同一視していたか?というと…?その対象がなくて困っているかもしれません。できたら、上級の女性クライマーと登りたいと思っているのですが…。なかなか同一視というかモデリングできるような女性クライマーがいなくて困っています。
長くなってきたので、①~⑤でひとまず、終了します。