2016/09/26

昇仙峡の思い出・・・吉田和正さんの訃報

■ 大事なこと

人生で大事なことは何だろうか?

死なない人間はいない。 死の床に就いたとき、人は何を思うのだろうか?

もっと働いていればよかったと思うのだろうか?もっと贅沢をしておけば良かったと思うのだろうか?

大事なことは、死の床に就いたとき、思い出せるような、良き思い出を持つ、ということではないだろうか?

■ 訃報

昨夜、危篤の連絡があった。 そして、今日は、訃報の連絡があった。午前3時27分。亡くなられたそうだ。

とても動揺した。前にもこのようなことがあった。新井和也さんが亡くなった時。

荒れ狂う渓谷
吉田さんとご一緒した岩場へ出かけた。

行くと、渓谷は増水で荒れており、チャンスとばかりに、オジサンたちが魚釣りにいそしんでいた。ちょっと見には、釣果はあまり良さそうでない。

荒れ狂う水の流れを見ていると、心が落ち着く。よく川の流れは人生に例えられる。一瞬として同じときはないのだ。

吊り橋を渡り、ボルダ―エリアを抜け、いつものプロジェクトのところに行こうとしたが、倒木が道をふさいでいた。右側は沢側に深く切れ落ちたトラバース。踏み跡程度なので、道幅も細く、雨上がりのため、地面も緩かった。危険で、とても行けない。

それで、そこはあきらめ、神社へ戻り、しばらく栗拾いをした。風で新しい栗もたくさん落ちていたが、どれも中身が小さく、食べてもおいしくないだろうと思われた。「こういうの、吉田さん、詳しそう・・・」、そう思った。

■ 吉田さんのこと

吉田さんは、日本で最初のフルタイムクライマーと言われている人だった。車上で生活しており、クライミングに捧げた人生に敬意を感じた。

どんなことでも、一つのことに捧げた人生には尊いものを感じる。そのようなことは、なかなかできることではないからだ。人は、あれこれ、できない言い訳を用意して、人生の冒険を避ける。そして、世間体に支配された人生を送る。

そうではなく、自分の心の声に従った人生を送った人は、心から応援したいと思う。対象がどんなことであっても。

私自身がそうでありたい!と思うから。

バレエダンサーの生き方にも敬意を感じるし、クライマーの生き方にもそうだ。何か一つのことを極めるのは、非常に難しいことだと思う。

なぜなら、それは、モノにならないという可能性があるからだ。人生がオールオアナッシング化してしまう恐怖が、常にまとわりつく。実際は、オールオアナッシングではなく、色々な道があるものだが、選択肢として見たときに、一つしか掛けたものがない、という恐怖は、誰もが感じるだろう。

吉田さんからクライミングを取ったら何が残るだろう?私はまだ6年の経歴しかない。が、この6年、私から山を取ったら、何も残らない。キャリアもなく、子供もなく、、あるのは、山の成果だけ。山さえできたらいい、とすべて切り捨てたからだ。その成果すら、たいしたものではない。

・・・が、山は、それなりに私の情熱に答えてくれた。その一つが吉田さんとの出会いだった。

≪フリークライマー吉田和正さんの業績・・・知らない人が多いので・・・≫
89年 初登攀 マーズ5.14a(城ヶ崎)、
92年 シュピネイター5.14a/b(神居岩)、
93年 ハードラックトゥミー5.14a(名寄見晴岩) 当時の国内最難ルート
湯川、白髪鬼 第二登

■ クラック

クラックは初心者で、吉田さんにはクラックを教えてもらおうと思って出た吉田スクール。とても丁寧な指導で、ハンドジャムの利かせ方から、教えてくれた。私は全然、間違ったジャミングをしていた。

私が使っていた外国のクライミングの教科書を見せると、「全然ダメだね~」写真の一つ一つにダメだししてくれた。

吉田さんがスクール生に用意してくれた課題は、大体5.10Aくらいで、質が良かった。ボルダ―でもトップロープが張れるようになっていた。

フィンガージャムの課題も、逃げようと思えば、フェイスに逃げられた。でも、掃除するのは、大変みたいで、ビレイヤーでプロジェクトの手伝いに行ったら、「やってみる?」と言われ、断わると、とても残念そうにしていた。掃除、手伝っておけば良かった。

晩冬の昇仙峡・・・アイスは脆くなってしまって、そろそろ登れなくなるころに、岩場は、ぽかぽか陽気で、ピンクのレンゲツツジが咲き、お昼寝してしまいたいような快適さだった。

クライミングできなくても、その岩場にいるだけでも幸せ、と思って、呼ばれれば、いそいそと出かけていた。

■ アダモへ

結局、倒木に通せんぼされて、吉田さんのプロジェクトのデイドリへは行けないので、別のプロジェクトに行く。

たくさんの釣りのおじさんたちの車とすれ違う。擦れ違いが大変。お魚は取りすぎで、資源が枯渇している。欲望の世界を感じる。

いつもの場所につくと、この時期なのに、3台も先客がいた。でも、岩場には姿は無し。釣り人だろう。

吉田さんと登ったボルダ―課題は、もう蔦に覆われて、草ぼうぼうで、とても登れるような課題ではなくなっていた。

こんなになってしまうんだ・・・。これを掃除して登らせてくれたわけで、掃除も大変だったんだろう。

小さなボルダ―であっても、開拓って大変なんだな。

それでたった8000円の講習費なんだった。

これは有名クライマーの半額くらい。クライマーは年金がない人が多いから、稼げる時に稼がないと大変なんだろう位に思っていた。

プロジェクトにつくと、まだ残置のロープがあった。切なくなる。

吉田さんとはあまり会話しなかった。

ただ、私が一言二言、聞いたことを吉田さんが、勝手に誤解して、「このプロジェクトが終わったら、吉田さんはどうするのか」ということに答えてくれたことがあった。

「引退かなぁ」というのが答えだった。もう、やりたいことはやってしまったし、次の目標も、その時になれば見えてくるもので、見えてきたらやるけれど、見えてこなくても、それはそれでいい、ということだった。

吉田さんはアチコチ体が悪い。体がぼろぼろっていうので、有名な人でもあった。

それで、ここの筋肉を緩めるにはどうしようか?とか、変なポーズを取り合ったりした。あとは互いに静かにして瞑想していた。

■ 思い出

私は一般登山からクライミングに入ったので、フリークライマーの作法にはまだ慣れておらず、吉田さんには驚かされることがあった。

例えば、1本か2本しかトライしないこと・・・。

8時など、朝早くにビレイヤーで呼ばれて行くのに、吉田さんは1本か2本しか登らないで、「もういいです」とか言ってしまう・・・。

いつも、夕暮れまでギリギリまで遊んでいるのが普通なので、「え~?そうなの!」と最初はびっくりした。まぁ、私も昼過ぎに終わってくれた方が都合が良いのだが。

終ると、ビレイのお礼に、初心者向けの課題を登らせてくれる。

でも、吉田さんに会ったころ、私はアイスクライミングに夢中で、前日のアイスで腕がパンプして上がっていたりして、せっかく用意してくれた課題も登れないのだった。

一度、吉田さんが突然、私の前腕をガシっとわしづかみにした。「これじゃ登れん」、という話。

もっとレストしなさいと言われた。ジムにも長居しすぎだと指摘された。

大きなスラブがある。そこに吉田さんが初心者向けの課題を開拓してくれていた。

なかなかアルパインな感じで、小川山と同じ花崗岩とはいえ、非常に悪い。スタートは泥の中。きれいだったクライミングシューズがどろどろになった。上の方も悪くて、手は切れるし・・・なんだかとても、長くて悪い感じ。

でも、そこがたぶん、そのスラブでは一番易しい課題のようだった。

出だしがどろどろで、それを越えると小ハング。かなり振られるのだが、タイトに引くと登りを邪魔してしまう。このロープ、あまり命綱にならないな、と思ったりしたが、がんばって登ったら、あっという間にロープのたるみを取ってくれて、なんて上手なビレイなんだ~!!と感激した。

いつもトップロープでは、たるたるで、落ちたら、テラスにあたるかもな~くらいのビレイでも、トップロープだからと、嫌だとは思いつつも、贅沢言わず、我慢して登っている。

吉田さんは、ちゃんとビレイしてくれていて感動した。当然なんだが。

初回は半分くらいまで行った。それで心が折れてしまい、それ以上登れず、降りてしまった。吉田さんは、とっても残念そうにしていた。

でも、5.9でアップアップだったころの私には、とても越えられそうに見えなかったのだった。

2回目は、前回越えられなかった、少々のハングを越えた。それでだいぶ、当人としては満足した。

でも、そこから上は、とても無理に思えた。ムーブ、思いつきもしなかった。

この時は文句を言われた。

「何?怖いの?」

実際、怖いのだった。

「怖いんです」と答えれば良かったのに・・・、”トップロープだしなぁ・・・怖いと言う訳にも、いかないよなぁ”と考えてしまい、私は言葉に窮してしまった。

マルチのセカンド(トップロープ)だったら、頂上への到達が目標だから、登れなくても、ロープを掴んででも、Aゼロしてでも登れば良い。実際いつもそうしている。スピード命だからだ。

が、ショートの場合のトップロープって、基本的にはクライミング力を上げるために登っていて、ごぼうしたり、Aゼロしたりしたら、全然やっている意味がない。

でも、私はムーブが思いつかないときに、ビレイヤーを待たせて、ハングドッグしたりすると、下のビレイヤーに悪いな~と思ってしまうのだ。

でも、あとで、吉田さんのインタビューが載っている昔の『岩と雪』を読んで、吉田さんは、何時間ハングドッグしても、怒らなかったし、むしろ、喜んでくれたのだろうな~と、理解した。

究極のレッドポインターと書いてあった。それが意味することが、まだ業界に不慣れな私には、全然、分かっていないのだった。

私は、ただ単純に、フリークライミングの登り方が良く分かっていなかったのだ。初心者過ぎて。

アルパインで登る時みたいに、さっさと登れないと、”登れない”と自己判定してしまっていた。

そんなこんなで、吉田さんが、後輩の初心者クライマーのために良かれ、と思って、そして、たぶん苦労して掃除してくれた課題・・・思いやり・・・が、肝心の後輩の胸には届かない、というような結果になってしまっていた。

もっとハングドッグして、吉田さんのビレイに甘えて、登れば良かった・・・。

そのほうが吉田さんは喜んでくれただろう。

■ 擦れ違い

湯川のクラック講習に行く予定にしていたら、南沢大滝のアイスクライミングで遊んだ時にトップロープ支点にしたケブラーコードを回収担当の私が回収しなかったために、湯川クラックがおじゃんになったことがあった。

事情を電話で説明すると 「そんなスリング、知らないと言いなさい!」 なんて言って、ちょっとおちゃめな吉田さんだった。

そのスリング、知らない人から見れば、高級品ケブラーにはとても見えず、一見して残置っぽいのだ。上でそれも回収なのか?と聞いたのだが、下のビレイヤーに声が届かなかったみたいで、カラビナだけだと言うので、ビナだけ回収したら、やっぱりスリングも回収だったのだった。ので、翌々日くらいに、急いで回収に出かけることになった。

それで、湯川クラックが流れ、そして、次は十六夜岩が流れて、色々残念だった。なんだかバッティングが激しかった。そうこうしている間に、北海道にスクールの舞台は移って行った。

吉田さんが行くところは、岩場のベストタイミングなところ・・・いなくなった岩場=あまり快適でない岩場。

■ 大切なものとのお別れ

吉田さんが昇仙峡にいるころ、猫ちゃんが亡くなってしまった。大事に大事にしていた猫だった。

キッカケは、お母様の危篤の知らせでの長距離ドライブ。なので、続けて二つも、大事なものを失うことになってしまった。

それがとても痛々しく、吉田ブログもペットロスの痛みであふれていた。

元彼のデイビッドのことを思い出す・・・デイビッドも、ネズミを飼っていて、ネズミが死んだときにはスゴイ嘆きようだった。

心のよりどころ、自分を無条件に愛してくれるもの、そんな対象がペットなのだ。人間同士の愛では、どうしても埋めれないもの。

ちょっとペットロスから立ち直ったころ、6月、肺がんの知らせを聞いた。それからすぐの訃報だった。

癌の発見から3か月と早い死だった。悪性リンパ腫だったそうだ。

まだ53歳だったそうだ。

ご冥福をお祈りします。

■ 残置のロープ

今朝、吉田さんと取り組んだ課題の岩場へついたら、まだ残置のロープが残されていた。

吉田さんのプロジェクト・・・引き継ぐお弟子さん、いたのだろうか・・・?
多分吉田さんのロープ岩の基部
その下に、吉田さんが初心者向けに設定してくれたクラックがある。

そこ、だいぶ頑張ったけど、登れなかったんだよなぁ・・・。

今なら、もうだいぶクラックに慣れたので、登れるような気がする。

このクラックは、つまり・・・こうして私の個人的な課題になることになる。

これは登ってしまわなくては、吉田さんが悲しむだろう。


≪今日の言葉≫

いつでも できることは
いつか できなくなるよ

いつでも 会える人は
いつか 会えなくなるよ

いつでも見れる景色は
いつか 見れなくなるよ

いつでも一緒にいる人は
いつか 一緒にいられなくなるよ

だけど
いつかできなくなることは
今は できるよ

いつか会えなくなる人は
今すぐ 会えるよ

いつか見れなくなる景色は
今は 見に行けるよ

いつか いなくなる人は
今は 隣にいるよ

だから
もっと
シンプルに今を生きよう
伝えたい想いは 伝えていこう

未来を思い煩い
不安をつくるのをやめにしよう

今まで行ったことのない道を歩こう
子供の頃の目の輝きを取り戻そう.
後悔がないように日々を生きよう


( しみず たいき ) http://ameblo.jp/taiki-ism/entry-12202250875.html?frm_src=thumb_moduleより引用。


2012年9月26日は、私のクライミングのきっかけとなった敦子さんと出合った日だった。2016年は、吉田さんの命日になってしまった。

吉田さんと登った課題
ジャムジャム84


≪関連URL≫
吉田ブログ
幸さんのブログ
眠れぬ夜に吉田和正さんの過去記事を読み返す
ヨシーダさんとの思い出

クラック講習の様子
翌日のクラック
昇仙峡
ボルダ―

https://allnevery.blogspot.com/2020/03/rock.html

----------- 2016.09.28 コメントを頂戴しました-------------------------

アメリカ合衆国のジョシュア・ツリー国立公園にある、 ステイングレイ(5.13d) は1987年に鈴木英貴氏が初登して以来、23年間の長い間再登者が現れず、2010年についにソニー・トロッターが再登に成功した当時世界最難クラックの1本です。ソニー・トロッターは5.14aかもとも言っています。

同じくアメリカアメリカ合衆国のレイク・タホにある、トニー・ヤニローが初登(ピンク・ポイント)したグランド。イリュージョン(5.13c)。鈴木英貴氏はこれレッド・ポイント。 その後にStingray(5.13d)を登った。今井考氏が2009年にグランド。イリュージョンを登り、ステイングレイにトライしたが、手も足も出なかった。13cが登れて13dに手も足も出ない?。そして再登者がいない。私は13dよりステイングレイは難しいのではこのとき思いました。同氏は今年7年越にステイングレイをレッドポイントしました。

1989年に吉田和正氏初登の、城ケ崎のマーズ13d(ピンク・ポイントなので吉田氏は13dにしたのかもしれません)は、2006年にコブラクラック(5.14a~cのいずれか)が登られ、2008年にメルトダウン(5.14c)が登られるまで、クラックでは鈴木英貴氏のステイングレイとともに世界最灘の2本でした。 マーズは佐藤裕介氏が第二登して5.14aはあると。それ以前にトライした杉野保氏も、登れなかったものの、どんなに低く見積もっても5.14aはあると言っています。

私が吉田さんに「吉田さんのマーズは14aはあるのですよね」と言ったら、吉田さんが「○○(私のこと)さんが登って確かめてください」と言われました(^-^;。吉田さんお茶目なんだから。

湯川のハニワの嫁入り(5.12a)でJack・N氏が墜落。ロープがほどけてグランドフォール。変形ブーリンを教えたのが吉田さんだと教えてくれた。あのノットは結び間違えをしやすいのです。

吉田さんが背負って降りたのです。その吉田さんをJack・N氏は君呼びする。君というのは格下に対する呼称でしょう。

湯川で合ったプロガイドのY下氏に吉田君と言われて「あんたみたいなヘタレに吉田君、お互いに年をとったね。と言われる覚えはない。俺は現役、あんたとは賭けているものが違う」みたいなことをブログに書いてた。しかし、翌朝には消されていました。

聞けば答えてくれるけど、吉田さんは自分の実績を自ら語らない、強がらない。体に問題があって、若いときみたいには登れない。それでも登り続けていました。クライミングが好きなのでしょうね。そう山野井さんと同じ雰囲気なんだなぁ。二人とも孤高の人と呼ばれているし。時々山のことを聞かれたよなあ~。吉田さんはアルパインの人を応援していました。

吉田さんや山野井さんは、大空を高く自由に飛んでいる鷹なのです。
同じ鳥でも私はほとんど地上を歩いている鶏です。鶏は空を飛べないけど、鷹は地上に降りて来てくれます。

1987年に来日した当時の世界のトップクライマーであった、シュテファン・グロバッツが初登した小川山の(Ninja5.14a)。1990年に第2登したのは吉田さんでした。

マーズを登った後に「青い鳥を追いかけて、ぼくはどこまで行くのだろう」と言っていた吉田さんは、遠い星になってしまった。早すぎです。

吉田さんの課題のDay Dreamは、今となっては何と意味深な。。ネーミングかと思います。
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