■ 「場合による」、「経験値」、「体力」、「自己責任」という思考停止が蔓延する登山・クライミング業界
これらが厄介なのは、実際に事実だからです。
沢での確保は、”場合によります”。
しかし、場合によってはATCガイドを沢でも使ってよい、という事実が、
A)水流があり、途中停止すると、水圧で押されるチカラと引き上げるチカラが拮抗してしまい、水死の危険がある条件下を想定せず、
B)そのような条件下では、ATCガイドを使ってはならない、という知識を知らないで良い、
という2重のミスを正当化する理由にはなりません。
「場合による」と言われて、皆さん、「そうだな」とうかつに納得していませんか?
場合によるなら、事故防止を対策するなら、カリキュラムに、あるいはその特定の沢に行く条件に、その場合についての知識を追加しておかないといけません。それが真の対策です。
なのに、「今回は、その”場合によるという場合”を知らない人だったんだ、避けられない事故だ」と結論してしまうのは、変です。
そもそも、そのような条件であることは、ここ何十年も変わらない訳ですから、祝子川ゴルジュに行く人は、エイト環による確保に習熟してから行け、溺死に注意しろ、と条件付きの登山許可を与えるべきなのです。
■ 登山歴〇〇年だからとか、クライミング歴〇〇年だから
は要注意。
10年、20年歩いていても、一般ルート以外は歩いたことがない人は、たくさんいます。
経験と経歴の長さの妄信は危険です。
■ 「落ちなきゃ確保はいらない」
確保者の確保能力の欠如を擁護をするために、落ちなきゃ確保はイラナイ、と脅迫してくる自称ベテランもいます。
そういう人は、一人で行けばいいのではないでしょうか?
確保技術の軽視、が、クライミング界にははびこっています。確保は技術です。
■ 「体力」
同じく、落ちた人に責任を擦り付けるのが、”結局は体力理論”です。
体力さえあれば、10日間の雪洞泊だって耐えられる?体力さえあれば、8日何も食べないでも耐えられる?
山男の伝統は、伝説的な体力、驚異的な体力、超人的体力の自慢話です。
山の文学本では、人であることを超越しなきゃ、山に登ってはいけないというほどに誇張されています。
しかし、八甲田山の死の行軍でさえ、同じ日に行って帰ってきた人がちゃんといるんですよ?
基本的に、日本の山はみな小規模なので、きちんとした山の知識さえあれば、超人的体力が必要となる山なんてあるわけがないです。冷静になりましょう。
大体、20、30km歩けば、町にぶつかってしまうのが、日本の山々…里山なのですから…。
そういう場所で、遭難してしまうのは、体力が問題なのではなく、山の知識がないことや、間違った方法論で道を見つけようとしてしまうことにあります。
つまり、知識の欠落、です。経験ではありません。
■ 知識がない=自己責任論
私自身は相当に意識高い系登山者&クライマーだと思いますが、そのような人でも、抜け落ちる知識はあります。
たとえば、重たいザックを背負うときは一回膝の上に載せて、それから背負うのだそうです。そんなこと全く知りませんでした。
講師には、「そんなことも知らねえのか」とバカにされましたが、知っているとなぜ思うのか?そこが分かりませんでした。
なので、
「重たいザックを背負うときは、一度膝にのせてから背負うといいよ」
「へぇ、そうなんだー、教えてくれてありがとう」
という普通の会話(クロスしていない交流)ができず、
「重たいザックを背負うときは一度膝にのせてから背負うといいよ」
「へぇ、そうなんだー」
「そんなことも知らねえのか」(さげすみ)
「知らないから講習会に来ているんです!!」(健全な権利主張)
という交流(クロスした交流)になりました。
これは、知識を与えたい、というのが真の目的ではなく、相手のコントロールが真の目的である交流、コミュニケーションです。
これはナルシスト的な対応です。
https://youtu.be/d_tHEZmFu6I?si=FgMpWAAMrt15nWP2
だから、正しいことを教えても、受け取る側は、感謝して受け取れないです。
■ ナルシスト的対応
なぜか、登山界・クライミング界では、不必要に
自分より、相手は下だと、まずはさげすむ
という心的習慣があると思います。
ある分野で、優れている人もいれば、ある分野で優れていない人もいるのは、当然のことです。
講師が、山で、山について、講習生に教えるのは普通のことです。
それを「お前らこんなことも知らねえのか?」と出し惜しみしているから、原因と結果の法則通りのことが起こり、遭難が絶えないのだと思います。