「無知 + 挑戦 = 無謀 → 事故」という流れでした。
ただ、同じ「挑戦」でも 知識や準備があるかないか で、結果はまったく違う。
整理するとこんな感じになりそうです:
無知 + 挑戦 → 無謀 → 事故
知識 + 挑戦 → 学び → 成長
つまり、挑戦を成長に変えるか?事故に変えるか?は、
知識・準備
が前提になっている。
しかし、そこに盲点がもう一つあった。
反省力
でした。いくら、現場でヒヤリハットを経験しても、それがヒヤリハットだとは分からない。のは、
メタ認知力、がないから。
メタ認知力がないのは、ただの
模倣(ミミック)、だから。
ただのミミックに陥るのは目的が冒険でも挑戦でもなく、承認欲求の充足?仲間入り?だから。
…と因数分解していくと、何のために山に行くのか?みたいなところが問題になってきてしまうのでした…。
ここで、ん?と。山に行く目的は、人それぞれでいいんですけどね。
私も最初は悲しみを癒すために登っていました。
山岳教育の欠如が課題であって、目的は、”挑戦”や”チャレンジ”でもいいんではないかと思います。
私自身も、挑戦的な山はしていますし…。撒けるようなチャレンジをするのがおバカなんです。
しかし、山岳教育が日本の登山事故を防ぐ形にはなっていない。
のは、やはり言語化が足りておらず、ミステリアスな言葉…経験…で、ごまかされているからなのでは??
なぜなら、一年に1回登っても、登山歴10年でしょう。なら、その人の登山経験は、10回ってことになる。
なら回数が多ければいいか?っていうと、登山は、回数であってもならず、事例で行くと、100名山登山が人気なんだが…100名山を一番簡単なルートで登っても、100個完登してもまだ、山をわかった、ということには全くならない。
じゃ、何が分かっていれば、山が分かったということなのか?
そりゃ、文句の一つも言いたくなりますよね…。
結論的に言えば、「何が分かったら、山を分かったといえるのか?」を、各個人個人が、追求することが、”登山”であり、結論、どれだけ長い間、登っても、山を完全に分かった、とは言えない…という謙虚さをもたらすものです。
禅問答みたいになっちゃった(汗)。
ここからは、私が理解した山の姿を書きますが、皆さんの山は、違う形があってよいものです。
本来、”山談義”っていうのは、俺にとっての山はこうだった、私にとっての山はこうだった、という自分にとっての山を発表しあうのが楽しいものです。
読図は新しい地理システムOSの習得である
アメリカの住所のシステムを知っていますか?道路には全部ストリートネームがあり、ストリートネームと番号だけで、郵便は届きます。奇数番号か偶数かで、道のどっちサイドかもわかります。
日本は、何丁目の何番かを細かく分割していくので、永遠に土地は小さくなれる…。
両者の地理システムは全然違いますよね?
アメリカと日本では 空間をどう切り分け、どう記号化するか がまったく違う哲学で設計されています。これって、読図や地理感覚の「OS」が違うようなものなんですよね。
そして、山の読図というのは、まったく新しい下界とは異なる、
山でだけ通用する地理システムOSの習得
なんです。
山を分かるとは、山でだけ通用する地理システムOSの習得というのが、私バージョンの山が分かるの意味です。
その地理システムは?というと、尾根と谷が道路、なんです。
東西南北で尾根を表わすでしょう…?例えば、前穂北尾根。北に延びる尾根だから、北尾根。当たり前ですが。
北尾根があれば、当然、南尾根もありますよね?東尾根や西尾根も。山の地形図を見ると、あれ、この山は北に出っ張っているけど、南側は平たんなんだなぁ…とか、地形が把握できます。日本の山は、だいたい片側が急峻で、片側がなだらかです。それは、風雨による浸食の具合によります。
で、尾根があれば、谷も当然ありますよね?谷があれば、それが集約して河川になる。山から海まで一本の線が引けるわけです。これが○○本谷っての。
尾根と谷の違いは、尾根にはアップダウンがあるが、谷は一方的に下るだけだということです。そりゃ当然ですよね。水が流れているわけだから。水は低い方に流れます。
逆に言えば、谷を伝えば、いつか一番最初の水が湧き出たところにたどり着く。これが源頭です。
つまり、山の「住所システム」はこう言えるかもしれません:
尾根と谷の組み合わせで「住所」が決まり、登山者はその自然の住所体系を読めるかどうかが生死を分ける
つまり、
「あなたは今どこにいますか?」
の答えが、
「今、○○尾根の第二ピークにいます」とか、「第4のコルにいます。」
って答えになるんですよ。
地形図を広げたら、100人いたら、100人が全員同じ答えになります。共通の理解ってことです。
細かいことを言ったら、他にも縦走路は高速道路なんだとか、いろいろ、細かな知識はあるのですが、大まかに言えば、こういうことです。
初級の地形読みは、尾根と谷が分かり、コルとピークが分かることです。
これが、山を理解する、ということなんです。
だから、100名山を5回ローテーションしても、20年登っても、尾根と谷、ピークとコルを分かっていなければ、山を分かったということにはならないんです。残念ながら…。
実は、昔の人は、隣村と山を越えて交易していたので、田舎の人はみんなこれを理解していたんですよ。
実際、え?!っていうところにまで、日本の山には、くまなく踏まれた跡があります。藪になって閉じてしまっていますけど…。地図では破線で示されています。
実際的には、最近はGPSがあるので、「今、○○尾根の標高1030mです」などと表現することが多いです。特に、沢(谷)では目印になる物体が、自然のもので…チョックストーンの大岩のところとか言っても、分かりにくいので、標高で表すことが多いです。
自分の左右が両方とも低ければ、尾根。
自分の左右が両方とも高ければ、谷。
です。現地で見れば、自分が尾根にいるのか?、谷にいるのか?見分けがつくのが登山者のあるべき姿なのですが、現実的には、今の登山は商業化され、スタンプラリーにした方が儲かるので、そうはなっていません。残念な世相ではありますが。
さて、自分が谷にいるのか?尾根にいるのか?理解するには、自分の左右を見ればいい、ということを言いました。
ここでクイズです。両方見たけど、平坦だったら?
困りますね。尾根にいるのか、谷にいるのか?分からない…(汗)。
ここは、広ーいピークなのか?平野なのか?それとも、広ーい谷の底なのか?
というわけで、現在地の把握においては、平たんな山のほうが難しいです。
ということが分かっているのが、「山を理解している」ということの回答の一つです。
あんまり詰め込むのも何なので、この稿はここで締めますね。