2025/12/06

水泳の先生と再会した日のこと。師匠とも再開できればいいなぁ。

しばらく前のことです。

仕事がひと段落したのが3時ごろだったので、ひと泳ぎでもして気分を変えよう!とプールに行ったら、なんとプールの玄関で、水泳の先生に再開。御年82歳。

赤ちゃん期に溺れて水恐怖症を身体化してしまった私を泳げるようにしてくれた、おばあちゃん先生です。当時は80歳。

プールが長期間の工事に入っていたので、水泳教室は中止されていたのです。

あら!先生!って感じでした。しかも、先生、3,4歳のちびちゃんに水泳教室をする前のところで、ちょうど私が泳いでいる間先生、水泳教室中。

小さな子供たちがプールサイドに腰かけて、足をバタバタさせており、それは、それはかわいらしく、微笑ましい光景でした。

あー、あの年齢のころの私は、あれですら怖かったのだ…と。しみじみしてしまった。

私にはなかった、幼児水泳教室。

でも、いいもん、だって今、バタフライ、泳げるもん。

そう。そうなんです。この、でも今バタフライ泳げるから、私には幼児水泳教室がなくたっていいんだもん、みたいな気持ちが重要なのかなーと思いました。心理学的に見て、です。

英語で言えば、It'sNotFairみたいな感じかな?

みんなだけ恵まれていてずるい!みたいな気持ち。

”えーん、私にはお母さんがいないよう…”と泣いていた6歳の女の子の私も、お母さんがいないことが逆に、過干渉を逃れられ、親がいないからこそ、好きなだけ漫画を読める、とか、逆のメリットを見出した時…小学生の高学年になってからですが…に、親がいなかったことはどうでもよくなったかもしれません(笑)。

私だって、娘を溺愛してくれる、大好きなお父さんが欲しかった、ということに気が付いたのは、クライマーのSNSで、子どもを持った、若い父親が娘の一挙手一同をSNSにアップしている様子を見たときからです。

え?普通の父親ってこんなに子供をかわいがるの?と知ったんですよ。

それまでは、父親がいない家庭で育ったことすら、すっかり忘れていました。なんせ、4歳ころからいないので。もう父の顔も覚えていません。

私だって大人になった弟と、楽しく遊びたかった、だからクライミングしているのもかも?と気が付いたのは、クライミングもだいぶ上級者になってからです。

ラオスにクライミングに行ったら、ほとんどが西洋人の若い男性でした。

クライミングは、どうも若い男女の出会いの場みたいでした。日本ではお爺さんの老後の活動か、もしくは、若い男子がストレス発散にやるかどちらかです。

私みたいに、山がもともと好きで、山に登れるようになるために登っている、という人は少なかったです。現代のクライマーって山族ではなく出会い系なんですよ。

さて、話を戻すと、そういう、本来、自分にだって与えられるべきものが与えられてこなかった、みたいな気持ち…平たく言えば、ひがみ、なのかな?

こうした気持ちは、大人になると、「私はあなたをひがんでいます」とは言えないわけなので、抑圧され、それが心の澱としてたまると???

人によっては、他者への、あるいは自分への攻撃性、として出るのかも…?

というのは、昨日、バタフライを泳いでいたら、隣の自由遊泳のレーンに、5mおきに止まってドリルをやっているおばちゃんがいて、子どもがうじゃうじゃいる自由遊泳ゾーンではやりにくそうだったので、泳ぐ人のレーンにきたらどうか?とお誘いしたんですよ…立ち止まると邪魔になると思って、遠慮していたら、気の毒だと思って。

すると、「どうぞ、お好きにバタフライを泳いでください!」だって。

ものすごい、つんけんした調子で言われたんですよ…。

親切に声をかけ上げて、逆に攻撃で返された。なんだかなぁ…。

それで、”ああ、この人は羨ましかったんだなぁ、私のことが…”と気が付きました。

バタフライって、私がそれしか泳げないからって理由で泳いでいたとしても、泳いでいたら目立つんですよ…。

嫉妬される泳ぎNo1がバタフライかもしれません。

プールにいるのはたいていは高齢者で、そういう人たちは、私がバタフライで何メートル往復しても、体力あるわねーと思うだけで、とくに羨ましがっては来ません。

体力や泳ぎ方も人それぞれ、取り組みは、人それぞれだからです。逆に、どうやってるの?と聞いてくる人もいます。

普通に成熟した人格を持つ人は、羨望に支配された行動をとらない。

クライミングでも同じでした。どうするんですか?と聞いてくる人は、たいていは普通に教えてあげていました。そのうち仲良くなって一緒に登るようになる。

この方は60~70歳くらいの方でしたが、まだ、癒えていない幼少期の傷があるんだろうと思いました。”私だって泳げるようになりたい”というおばちゃんの内なる声、それが、ゆがんだ形で出ると、親切に声をかけてくれた人に対して、逆切れになる。

この方も、私を金づちから、泳げるようにしてくれた、水泳の先生みたいな、”お母さん”が必要な人なのかもしれませんね。

と思っていたら、帰り際に先生が、プールサイドに来てくれました。

久しぶりね~泳ぎ続けとったんね、えらかねーと話しかけに来てくれ、先生~!がんばってるよー私、となりました。

最近、子どもの動画をいつも見ているのですが…私のお気に入りは、Ami'sLifeです。

動画内で、子供には、だいたい、”していることの承認”をしています。おいしい!と子供が言えば、親は「おいしいね~よかったよかった」と言います。

これだけですが、この親と子のコミュニケーションスタイルは、私も自分がベビーシッターをしていたころやっていたころの、私の子どもに対するコミュニケーションスタイルと同じです。

その事実から逆算すると、私はたぶん、ちゃんと親に話を聞いてもらえた子なのではないかと思います。

だから、先生がプールサイドに来た時、私がやったのは、この承認のやり取りで「ちゃんと泳ぎにきとっとねー、えらかねー!」→いいね承認。「先生、今も教えておられるんですねーすごい」→いいね承認。といいね承認の循環になっているんですよね。

だから、人間関係が円滑。

何も変なことは起こらない。

そして、それがほんとに平和で平和さがありがたかったな~と思った先生との再会だったのでした。

また先生にスイミングを教えてもらう段取りになりました。そういう流れが人間らしいコミュニケーションだと思うんですよね。

あなたもOK、わたしもOKでしょう。