■ 言語化が難しいという病気
今朝は昨夜早めに寝たので早朝覚醒…。しかし、夢も見ず、ぐっすりで良いお目覚め。外はまだ真っ暗だ。
パートナーシップが問題になるクライミング。人の長所は欠点の裏返し、なので、人というのは相性次第で、どんな人にも必ず良い相性のパートナーというのはいるものだと思う。
とはいうことは、大事になるのは、自分のクライミングを言語化して伝えることができる能力。だが、言語化というのは、意外に難しいもの…。
■ 解釈の齟齬があった…
周りの人が勝手に私を誤解する、
というのもあった。例えば、
真実 =ムーブが出かかっている
誤解 =落ちるのを怖がっている
のだと解釈する場合。
■ ビレイヤーはクライマーから信頼されてなんぼのものです
あるいは、例えば、今ムーブが出そうでいいところ、ちょうどよく、落ちたくない!というプレッシャーがかかって、いいところで、
「さっさと登れよ~」とか、
「落ちればー」とか
言うビレイヤーだと、出るムーブが出なくなるんですよね…。
そこはビレイヤーがクライマーを邪魔してどうする?と思うんだが…。ビレイヤーっていうのは、クライマーから頼りにされてこそ、なんぼ、という価値のものではないですかね?
クライマーに負担になる=逆転したビレイヤー。
子どもに負担になる親=逆転親子。
上司を部下が指導=逆コーチング。
親子関係から始まって逆コーチングは、ライフワークかもしれません。
内向的なクライマーにとっては、そういう逆転ビレイヤーは価値がない。 いくら内向的でもクライミングには命がかかり、誰もそれを肩代わりできないのだから、クライマーはどのような手段を使っても、自分の意思を遠さなければいけない。
自分の意志を通すというのは、これが人生課題、かもしれない。
昨日は、
自分がどういうクライミングが好きなのか?というのが、だいぶ吐き出せた…
というのが、ホントに良かったなと思う…
(が、これは、あと6回くらい回転させないと、中身が充実しないものなのだ、ということも分かる。)
それは、嫌な経験をたくさん積んだから… こうしてほしい!が分かるためには、こういうのがいや!というのが分かる必要があったのだろう…
だから、嫌な経験を積ませてくれた人は、ホントは、天使、だったのかもしれない。
■ 嫌なことは好きを知るために起こる
Aは嫌、Bは嫌、Cは嫌、…でEは好き…みたいな感じに、Eが好きだということを理解するために、AとBとCを経験したんではないだろうかと思う。
例えば、ABCの3つくらいで、4つめに好きなことがある、くらいだと、好きの強度は、そこまで強くないかもしれない。なんだかな~な経験が3つで、好きな経験が1つなら、そこまで、その一つに執着心は湧かない。
が、A、B、C,D,E,F,G,H,I,J…と、私の場合は10個くらい、NO!と言わざるを得ない、嫌な経験が積みあがった。それだけ経験すると、
好き、
が強固になると思う。なかなかその体験というのは、得難い、ということだからだ。貴重性が高い経験と言っていいと思う。
■ 安心の根拠 = コツコツ
コツコツしている、やるべきことをやれている、と感じられると、私という人間は安心する。
それは、例えば、子供のころ、NHKのラジオ英語を聞いていた時の気持ち、と似ている。
今は英語をしゃべることができないが、将来のどこかの時点でしゃべることができるようになるだろうというレールの上に載っている、という感覚だ。
その感覚がクライミングでは、九州に来て失われた。このままいけば、いつかは、〇〇だって登れるようになるでしょう、という感覚ということだ。
それが、むしろ、このままいけば、死に至るかもしれない、という感覚にとってかわられてしまった…(汗)。
これまでの成功体験…心からの充足感…というものを振り返ってみても、コツコツした努力が結実した時に得たもので、棚からボタモチみたいな成功…は、あまり連想できない。
連想できないから、現実感がなく、そんなのホントなのかな?という気持になって、疑心暗鬼になってしまう。
一発逆転、なんて人生にあるんだろうか?私の個人的経験はないというのだが、そういうのを求めている人もいるから、その人はその人の内的世界では、それもありだ、という確信があるのだろう…
私には、全くないんだけどなぁ…。