2023/01/05

若いころにサンフランシスコに住んでいました♪ → 私はあなたのお母さんじゃないのよ問題

 ■ 自分の潜在能力をフルに生かした経験

もしかして、日本の若いクライマーたちは、私が若いころにやっていたような西洋社会への適応力はないのかもしれないと思い、参考になるかもしれないので書いています。

■ ずっと海外に行きたかった…生きる手段としての英語

私は子供のころから、束縛から逃れたく、それには、誰も私を知る人がいない海外に行くのが一番いい、と思っていました。 

三人兄弟の長女だったので、生まれた時から、面倒見る側の運命…。もう人の面倒を見て一生を費やすのはうんざり、ったのです。

■コツコツ努力時代

それで、我が家は貧乏だし、英会話の〇〇とかで習得するのはありえないので、ずっとNHKの英会話入門とか、ラジオで聞いていました。ビジネス英語も、杉田ひとし先生の時代はずっとファンでした。18歳ですでに10年は聞いていました…から、子供のころから、自覚があった、ということですね。

■ 高校選びに失敗…先生の希望で熊本高校へ…

私は、高校選びに失敗し、本来は、大学に進学しないで高校から直接就職できる高専に行きたかったのに、中学の担任の先生の点数取りで、進学以外、選択肢のない熊本高校に進んでしまい、にっちもさっちも行かなくなり、結果的に自分で大学に進学するしかないという、最も厳しい選択肢をとらざるを得ませんでした。

いや~マジ大変でした。10人に一人くらいしか、この選択肢で、大学を卒業できる人はいないです。級友はポロポロと一学期が終わるころには半分くらいになっていました。

中学の先生が、一流高校に進学させたという自慢話がしたい、という理由で、進学校に進んだため、プログラマーになる夢は棚上げで、大学進学=夜学しか選択肢がなかったのです。

もちろん、親には引っ越し費用の17万円の現金以外は、何も貰っていません。というか、喰うにも困っているのでもらえません。高校時代は早朝のパン屋でバイトしていました。

入試の日に入試の結果を待たずに(どうせ合格は分かっていたため)、翌年のアルバイト先を決め(生協)、入学式より早く入寮して、一日も無駄にせずアルバイトしていました。入学式はバイトで出ていない。成人式もそんなお金はもったいないので、パリの旅行に使いました。

そんな調子の大学一年生だったので、受験明けで、羽を伸ばすモードの他の学生とは、まぁ全く生活態度が違いました。今から本気モードです。やっと足かせなく、自分の人生を生きられるようになった、ということなので。

ラオスで感じたのは、これかな。やっと足かせなく、登れるようになったって感じです。遠いボルトはチビには足かせ。

■ 黒人の先生で英語の専門教育

大学のころも、NHKのラジオ講座は続け、小3からなので、1年生ですでに10年選手です。このころは英語の専門教育がスタートしましたが、私の先生は、カリフォルニア大学バークレー校から派遣されたオルレミ・オモデレ先生というケニア出身の黒人の先生で、日本国発の黒人女性教授でした。

先生は英語のドラマ(戯曲)が専門ですが、外大の学生が引っ込み思案で発言しないので、ずいぶんとイライラされていたようでした。先生の要求は、アメリカ人学生並みだったような(笑)?先生、日本社会に詳しいわけではなく、たまたま日本にきただけみたいでした(笑)。

私はどこ吹く風で、外大の図書館で司書としてフルタイムで働き、日々、外国語の本と格闘しつつ、リナックスを覚え、18歳からテルネットコマンドでパソコン通信をしていました。外大の図書館は当時最新のネット環境でした。インターネットって大学からスタートしたものなのです。英字新聞も学生向けのを読んでいました。

■ 転機

転機が来たのが、 3年生の時。貯めたお金でパリに行った直後で貯金がスッカラカン、だったのですが…、アメリカ人の教授と日本人の教授がオペアで学生を捜しているということだったのです。

聞くと、オレゴンか、カリフォルニアという話でした。片方は日本人の先生、片方はアメリカ人の先生ということだったので、アメリカ人の先生のところに行くことにしました。が、パリに初めての海外で個人旅行に出かけた直後だったので、財布には2万円しかない(笑)。

それでも、このような機会を逃すと一生アメリカに暮す経験と英会話力は望めないと思ったので、二つ返事で出かけてきました。オペアというのは、子守で、月給が当時で400ドルでした。

失うものがなかったわけではなく、帰国しても学生寮には戻れないので、その後の大学生活が不安でした。英語も当時は話せませんしね。育英奨学生だったし。

■ ベイエリアで暮らす

行ったら、そこはベイエリアのかなり奥で、アメリカの場合、奥になればなるほど、お金持ち地帯という決まりでした。

当時のトップクラスの富裕層で暮らすことになりました。アメリカでの生活は富裕層に交じる、という生活…最寄りのセーフェーまで徒歩40分でした。隣の家?とおーい。子供が友達の家に遊びに行くにも、運転しないと遊びにも行けない

当然のように車がないと生活できないので、初めての運転免許は、あちらで取りました。まだ記念に持っています。実はソーシャルセキュリティーナンバー(アメリカ版マイナンバー)まで持ってる。

6歳、11歳の男の子のお世話役でしたが、アメリカでは驚くこと続きでした。まず食事が三食、シリアルでも平気です。ランチはピーナツバターとイチゴジャムのサンドイッチ。もしくはチーズのサンドイッチ。チーズの…って言っても、スライスチーズを挟んだだけのものです。こんなので子どもが育つはずがない!

行ってすぐ、免許を取るのに、筆記試験を受けて、自分で運転を教えてくれる人を募集して、40時間路上で運転し取りました。片言英語で、運転を教えてくれる人に、15ドル払います、と書いたら、最初に見た人が教えてくれた。自分でも行動力あるなーと思います。

結局、トーラスに乗ってフリーウェイをびゅんびゅん運転する生活でした…。当時のアメリカは不景気で、モールにも、だいぶ行きましたが、どこもスッカラカンでした。

その後は、片言英語から脱するのに3か月程度で生活には問題なくなり、恋人もすぐに出来ました。日本人女性はそれだけで大人気っぽかったです。勤勉なアルべニアの人でした。

オモデレ先生は、3年の任期を終えて、帰国されたところだったので、バークレーとベイエリアは近く、ときどき呼ばれてパーティなどに顔を出すと、私があっという間に英語を習得したので、ホントに喜んでくださりました。ついでにアデとアバ、という二人のお子さんが日本語をキープするのにも、日本人の教え子がたまに訪ねてくるのは、都合がよかったみたいでした。

ベイエリアのお金持ち世帯では、共働きが普通で、子供は一人で置いておけない法律なので、けっこうオペアが盛んで、私以外には、ヨーロッパ人が主体でした。男性も多かったです。かれらは、私より高給取りで、私の月給400ドルは不当に低いもののように思われました。たぶん、日本が西洋の仲間入りをしたい、という序列による価格設定だったのかな?と振り返って思いますが。

家事使用人的な地位の中では、オペアはかなり地位が高く(知的職業)、コロンビアなどの移民の人たちは、自国で高い地位にあった人たちも、ハウスクリーナーの仕事の方が多かったです。ハウスクリーナーだとオペアの倍くらいは稼げるというのがあるからかもしれませんが、私の住んでいた家に来ていたドローレスは、故国では弁護士なのにハウスクリーナーをやっていました。40代くらいの方でした。

■ ミッション地区でヒッピーライフ

1年後、私は一人でやっていける自信がついたので、サンフランスシコに一人住まいしたのですが、最初に住んだ家はミッション地区にある、ガンショップの二階でした。

日本人のオーナー所有で、店員は、アメリカ人と自衛隊上がりの日本人のお店でした。シューティングツアーで儲かっているようでした。お部屋の方は、大きなビクトリアンハウス(アメリカ版古民家)のシェアで、私の部屋はガンショップの二階で道路に面していましたが、雰囲気はいいけど…壁に試し打ちの銃創があいている(笑)というお部屋。

このお引越しでは、マリファナの洗礼を受けました。私は清潔度が日本人基準なのですが、共有部のキッチンやトイレが黴臭くて、猛烈に掃除したのですが… 匂い取れず。あとで、べつの部屋の日本人男子学生がやっているマリファナの匂いだと教えてもらいました。ガックシです。

その後、恋人ができたので、その人と同じシェアハウスに空部屋ができたので、そっちに引っ越しし、その後もトータル6回も引っ越しましたね…。サンフランシスコの、ありとあらゆる地区に住んでみたくて。アンティークショップ巡りが趣味でした。日本ではできない趣味です。

恋人のデイビッドは、アッパーミドルクラスの白人だったので、いくらヒッピー風情でも、私が暮らしていたミッションは有色人種の地区だったため、あまり安全とは言えませんでした。

通いのベビーシッターをして生計を立てていましたが、目的は英語の習得で会って、仕事をすることではなかったので、週に二日だけ働いて、あとは、ボランティア活動だの、英語の勉強だの、して過ごしました。老人の介護も経験があります。

後はアンセルアダムスセンターの会員になり、美術館に入り浸り、サンフランシスコシンフォニーも年会員で天井座敷で聞きまくり、バレエもマチネとイブニングの2連荘とか。バレエの方はレッスンも取っていました。 芸術の町を堪能。

当時はアート系人種で、アウトドア系に進化したのは、山梨以後です。

どうも、サンフランシスコは、マウンテンバイク発祥の地だそうです。ゴールデンゲイトパークは、しょっちゅう行っていました。ジャグラーが一杯。怪しげなニューエイジが盛んな土地柄です。通りがかる4人に一人はゲイ、という土地。

ボランティア中心というので、今やっている生活と似ていますが、アメリカのほうがボランティア活動はホントにボランティアというか、日本のボランティア活動って、年配の人の第二の人生の、自己承認欲求のはけ口になっているので、年齢層も偏っており、多様性もなく、結局、年功序列の会社のコピーで、めちゃやりにくい感じです。

海外のボランティア活動ってもっと自由でのびのびしていて、命令されてやる仕事って感じではないです。

グレースメモリアル教会での炊き出しや、スリフトショップでの商品整理、値札つけ、英会話学校での生徒役、英会話ソフト開発でのテスターなどのボランティア活動をしました。

当時もソフトウェア開発に関わっていたし、近所の大学SFSUで勝手にコンピュータルームに入って、普通にパソコン使っていました(笑)。授業に出ていても誰も何も言わないんですよね…それで。普通に学生に交じって違和感なく、学食使っていました(笑)。

そんなこんなで、結局、英語で生活し、2年ほど、日本人とはめったに会わないで暮らしました。

地味に貯金して帰国した時は、500ドルの貯金がありました。これでも、アメリカ基準ではお金持ちです(笑)。アメリカ人ってホント貯金しない人たちですよね。

行くときは2万円しか持っていなかったのに。それで、 差し引き300ドルの超過(笑)で、日本に帰国しました。なんか、達成感。

■ TOEIC楽勝

帰ってきてすぐ事前準備をせず、TOEICを受けたら、870点でした。当時の満点は、950点です。2度目は、925点だったので、もはや再受験する意欲を失いました。22歳の時です。

その後は、学生通訳で働きながら実績を貯め、日本ではロボットの開発部に仕事を得ました。

■ 海外は住み込みなどよくある

そんな感じで、海外では、家庭内で住み込みで働くとか、あまりごちゃごちゃ言うことはないですから…。みんな、もっと海外に出たらいいのに…と思います。

何なら、家事の代わりに食事代もって、とか交渉次第です。

バックパッカーで、ニュージーランドを旅したことがありますが…バッパーで掃除すると宿泊費がタダになるところは多いです。

メルボルンのゲストハウスにいたころは、キッチンを私がいつもきれいにするので、Wifi無料って、向こうから言ってきました。

善い行いは、結構すぐ報われるのが外国です。それだけ悪い人も多いからですよね。

節約旅行は簡単にできることが日本より多いです。日本って交渉の余地がそもそもないですよね?ルールですから、で以上終わり。

■ 海外で大人になった

そんなこんな冒険を20歳でやってきたので、日本で社会人デビューする前に、すっかり大人になっていたんですよね(笑)。バイトはじめも早いですし。

ただし、アメリカ流を日本でやると嫌われます。日本人は、男を立ててくれ、って文化ですが、日本人の男性で20歳で、これやれる人います?

現代のネットが発達した情報社会で、20代で見渡しても、めったにいないですよねぇ…なので、日本では、ほとんどの男性が、全部子供に見えてしまう(笑)。

それは私のせいなのか?っていうと、私のせいではないかも?

■ 相似形

同じ構造がクライミングで起こったことだと思います。

私がしっかりしているので、相対的に、しっかりせえよ、って状況に男性が陥るんだと思いますね、特に日向神。

木工ボンドでケミカルアンカーの真似事をしようとした開拓者とか紹介されても…。

一体、私にどうしろっていうのでしょう?と思いました。

 仲間のミスは仲間で拾うのが良いのでは?言いにくいことを部外者の私に言ってほしい、って、ズルでしょう… 

私はあなたのお母さんではありませんし…。お母さんにされそうになると拒絶します。