2023/01/28

質か量か?の二元思考 → バランス思考(にくい線を行く)

■ ある先輩の言葉

これは、違う分野の人のセリフですが、山より一歩先を行く過疎?限界集落化?したアウトドアスポーツの世界で、生き残っている人のセリフ。

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体力・知力・判断力といった「力」や、地図を見る目・地形を見る目・人を見る目といった「目」が必要な、本当に面白い、まさに『大人の遊び』だと思います。


判断する力を維持する為に、力は最小限に抑えたい・・・。と言ったような、自分の中での「力」の配分も必要になります。

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■ 第三の価値は、バランスでは?

登山の価値は、歴史的に見ると、(未知) → (困難)と進んだ。困難度の中では、(辺境)→(デカさ)→(技術的困難)と進んで、もう進化の極みで、停滞状態が長い。
 
停滞というのは、つまり二極化、ということで、ずーっとトップはトップで安定、平は平で安定、ということだ。
 
アルパインクライミングで総合的にトップクラスの登山はどのようなものか?とみると、エベレスト時代はとっくに終わって、長く続いたK2の時代もすっかり終わっており、両方とも大衆化され、現代のトップクライマーはK7でも、誰か片づけてくれな気分なようだ…。
 
というので、トップクラスの人材不足感も甚だしい。
 
クライミングと言っても、スポーツクライミングの方に目を移すと‥‥子供が世界チャンピオンで、オリンピックどころか、出場前の年齢の子どもの方が登れる、みたいな話になっている…なんせ14歳がクライマー人生のピークっていう現代…なので、大の男を含め、スポーツ愛好人口の大部分が面白くない…下り列車に乗る旅…なんだが…。
 
私はてっきり、仏教が教えるように、競争を捨てたらいいのではないか?と思っていた。
 
しかし、スマナサーラの長老の本を読んでいたら、慢は慢で制せ、と書いてあった(汗)。
 
どうも釈迦族は非常にプライドが高い一族だったらしいんですよね。そのプライドは、善に対するプライドだったようですが。
 
競技を離れる、競争を捨てる、というのは、大部分の人にとって、悟りを拓けないのと同じで、現実ばなれした解、らしいんだな。
 
言い方を変えれば、社会のシステムから外れる、ってこと。常識とか、体制とか…なんせ競争社会なんだから、既存の社会システムを離れる、っていうのが、究極的には、目的になるんではないか?と思っていたのだ。
 
しかし、出家ではなく凡夫では、戦い(体制、システム)を捨てるのは、かなり難しく、バガバッドギーターでは、戦いは、当然悪なのにアルジェナは戦士(笑)。お釈迦様みたいに悟りを拓けない人は、アルジェナ流に清濁併せ飲むしかない…。
 
が、既存のものさしである、競技で、一等賞が取れないなら、数…何個登りました、とかだろうか?量でNo1とか…の提案で、ガッカリだった。そんなの、退屈でしょう。ひねりが無くて。千日回峰行と同じで、誰だって時間さえあればできてしまう…
 
ひねりというのは、
 
 ・勝ちにつながる要素が多く、なおかつ、
 ・運にも左右されて容易に勝てない、
 
というのが、面白味という意味ではないだろうか?
 
■  大人の遊び
 
さっきの大人の遊び、を例に取ろう。
 
”力”の一分野をとっても、(体力)、(知力)、(判断力)と3つもパワーが必要で、”目”、という技術という分野をとっても、(地図を見る)、(地形を見る)、(人を見る)と3つもスキルがいる。 
 
 パワー ×3 = 体力、知力、判断力
 スキル ×3 = 地図を見る、地形を見る、人を見る
 
しかも、パワーロスを抑えたい=(自己理解)&(力の配分)=(経験による向上の要素)
 
で、経験によって向上するというとことは、スキル積み上げ型。
 
つまり、ポッと出のひよっこには勝てないということで、それは、経験の量的なものが強みになる。つまり、加齢で下がっていくものではない。
 
端的に言えば、
 
 にくい線
 
を行くトータル能力体系での勝利につながる、そのような大会設計をしている、という意味である。
 
現代のクライミングのコンペにはない設計ってわけ。現代のコンペなんて、大人はすぐに飽きて、全然、参加していない。コーチ職は、結果、自己犠牲の極みになってしまっている。
 
25歳以上の年齢、でワールドカップに出ている、という人って、アイスのクライマーだけではないだろうか?(実際、登っているのはドラツーだけどね)
 
■ にくい線
 
というのが、私の登山計画する力と似ているというか… 私は企画する、設計する、意図する、というところに面白さを感じるタイプなのだ…。そして、サイを投げて、結果がどう出るか見る。
 
例えば…女性初心者のテント泊入門なら… 女性=パワーない、虫嫌い、寒さに弱い= 遠いところダメ、下界のテントサイトダメ、風強いところOK、なら、春秋の海岸系のテント泊は大丈夫だろう…とか、山を選ぶにも、ピストンではなく、縦走系でアップダウンが緩やかなのを選ぼうとか…
 
あちらが立てばこちらが立たない、という価値の体系の中で、
 
秤にかけるように、バランスをとる、その判断をしていくのが大変面白い
 
 のです。
 
とくに、自然の中で。なぜなら、自然界では、誰も悪者がいないからです。
 
会社だとこうはいかない。あーあ、そういうことすると、どうせダメになるよ、と分かっているのにやらないといけないでしょう、会社では。
 
私は、山を、一回一回の企画が成功したか?という感じで登っているので、うまく行ったこと=勝利、は、単なるオマケです。
 
コンペで、順位などは、単なる情報、ってことになります。例えば、アイスでWI6がスイスイTRクリーンで登れる=岩根カップで5位ってことは、5段階評価で行けば、大体標準、3+くらいな実力らしいな、とか。
 
色々考えて、これまでパートナーシップで嫌な目にも合ってきたけど、情報、としてみると、このタイプの人はこうなんだなーという情報収集になって良かったです。
 
今日は自転車屋さんで色々聞いたら、誘惑に負けやすい、という資質が、反社会的行動に落ちる人には強かったそうです。
 
■ 一等賞じゃなくても平気になる=成熟
 
いつまでも、一つだけの物差しで測る世界で、一等賞を取りたい!って気持ちが手放せないと、5.15を70歳で登るのは、生物学的に無理だから、若いうちに著名なルートに行って名声を手に入れた後、することが無くなってしまいます。
 
それで、総量で競うことになる。ルートトータル数で一万行こう!とか。でも、一個一個の山の質が悪くなったら、山やっている意味がないですよね?
 
そこは、時代の制約というか、寅子先生ですら、オメガオイルの商品にホメガオイルという商品名をつけてオヤジギャグみたいなことになっているのですから、時代の制約っていうのから逃れられる人はいない。私の母の世代…団塊の世代…は、どうしても、何かで勝った!と思わないと気が済めない、済まない、という面があるのかもですが。
 
しかし、団塊2世の私の世代は、そんなの、確実にない上、陳腐化すらしていますからね。
 
人生は、椅子取りゲームっていう心理はなく、もう最初から、椅子ない(笑)。椅子は作るもの、でした。
 
座る椅子があるから、という契約で、その契約に合うように、”いい子にしなさい”、”早くしなさい”、”ちゃんとしなさい”と、サラリーマンサイボークになるように育てられたのに、成人したら、 ”あなたは何ができる人ですか?”って聞かれるわけで、契約大幅に反故にされました。何ができる?って何でもできるようにしつけられたんですけど(笑)?
 
私は学生のころ、国際会議の事務局やっていました。書類関係ですが、なんとバイトの私の方がその事務機局で一番能力ありました…(汗)。こんな調子なので、競争で勝っている、っていうのは、もう当たり前のことで、それを使って
 
 何を創造するか?どういう椅子を作るか?
 
ってことに興味が移動しているって話なんです。価値の創造、って話です。
 
自尊心病は、世代の縛り、世代の病であり、年配の上の人ほど根深いです。すでに豊かさが当然である時代に生まれた若い人が見たら、うんざりするでしょうね…。
 
70代、80代から、お願いだ、俺を尊敬してくれ…俺を祭り上げてくれ…という願いを感じさせられてしまうと、シラケます…。本来、その年齢では、そういうものは成熟の果てに乗り越えられているべきものだからです。10代が、競争にこだわっているのを見たら、ほほえましいですが、老人だと、お気の毒に…、って感じです。
 
仏教では、中道を薦めます。中道とは偏りがない、弦を張り過ぎない、という意味で使われますが、一歩進んで、
 
 にくい線となる仕組み作り… 
 
能力があるだけでは勝てず、才能があるだけでも勝てず、運だけでも勝てない…そういう競争の仕組みを作ることができれば、大人は飽きずに楽しめるのかもしれません。
 
クライミングの中では、アルパインの領域が、最も幅広くマウンテンアクティビティの中で、にくい線を行く山の価値を価値創造しやすいのかもしれません。
 
 
ロープのたるみに注目。リードより、トップロープで落ちる方が、落ちる距離も大きい。
 
 ロープたるんでいる=トップロープクリーン。
 
テンションレスを英語でこういう風に言うらしいです。
 
”テンション”って和製英語ですよね。外国人は言わない。”ロープ張って”、って意味じゃなく、”ビレイヤー緊張して”って意味になる(笑)。
 
海外で登ると、テンション、って可愛いね、と言われます(笑)。