2026/06/01

クライミングコミュニティの先を行く、MTBコミュニティ

 さて、昨日は、浮羽でMTBに乗っていました。

谷口ケイさんの参加していたMTBのグループとの接点があり、以前もいくつかライドに参加していましたが、右足の肉離れから、右足の脱臼、そしてそれらをかばった結果、アキレス腱断裂、と怪我続きでした。

やっと3年の治癒期間を経て、復活です。

昨日、興味深かったのは、いかにMTB業界がクライミング界の先を行く、アクセス問題を経験してきたか、と言うことでした。

MTBの世界は、開拓しては禁止になることの繰り返しだったそうです。あまりの歴史的繰り返しに懲りて、トレイルの利用法は洗練されています。

①ルールを逸脱しない仲間づくり

それは、丁寧に参加者への導入を行い、荒し、を発生させないコミュニティづくりです。

まず、初めてアクティビティをスタートする人は丁寧にコミュニティに導入されます。丁寧にというのは、初めての人にはギアの貸し出しが合ったり、体力一点豪華主義を押し付けられない、逆に安全だけは確保しようという励ましだったり、です。

そのコミュニティは、○○の会、などとは明文化されていませんが、参加費が必要で有償化されています。

今回私もその有償化された仕組みで走ってきました。

私もクライミング初心者を岩場に案内することはありますが、とてもじゃないけど、有償化してくれないと、仕事が大変過ぎて、連れていく気になれないことが多いです。

ということで、入門者のお世話係は有償化してその苦労に報いること、が大事です。

②地元に恩恵を落とす

クライマーは、事故とうんこしか地元に落とさなない、、と言われます。

本当にその通りで、コンビニくらいしか使わないので、全然地元には何のお金も降りないうえ、山火事やら、雄たけびやら、不法駐車などの迷惑だけは落としていくのが、クライマーってことに地元から見るとなっています。

MTB業界も似たような状況にあったらしく、その反省から、地元に何らかのメリットを落とすような仕組みをつくっていました。と言っても、地元の道の駅で買い物してそれを食べる、と言うような程度ですが。


③地域とのちょうどよい距離感

廃校になった地元では、もはや不要の不動産が、ツーリングの基地として機能していました。

これは、地元の人からの提案だったそうです。最初はカフェにしようという計画で、解放された空間だったそうです。


私も山梨などでも、小学校の廃校跡をカフェにしているケースなど大分見ましたが、カフェってだれでもに門徒を広げている割には、通りがかりのお客と言うのはあり得ないので、補助金が終わればビジネスも終わる、という運命にあり、この道は行き止まりへつながる道でした。

海外のクライマーは、情報さえ与えればすぐ岩場に来ますが、問題になっているのは、来ても、誰も一緒に登らないことです。

というのは、ラオスなどの岩場と違って、情報交換の場がないので、相手と登りたいと思うインセンティブが働かないのです。

ラオスでは、宿であった人とどこを登ったことがある、ココを登ったことがあるという、具体的な体験を交流することで、この人とはここを登っても大丈夫、あそこを登っても大丈夫、という大体の目安ができ、パートナーもできる、と言うことになっています。

その交流の場が日本の岩場では発生しないので、相手への見極めができないため、見知らぬ相手とパートナーを組むというのはあり得ない、と言うことになっています。

昨日経験したのは、交流基地というわけではありませんでしたが、有料のツーリング会に参加を重ねることで、自然に知り合いが増えていくという大人の交流の場になっていました。

活動から、この基地が得られたのは、まったくの偶然によるもののようです。

ですので、かなり貴重ということになりますね。

地元に、行政への対策ができる行政書士・司法書士の人がいてくれたおかげでうまく、廃校を利活用することができたそうです。

したがって、企画や目的意識を持った、地域おこしではなく、ライドに良いトレイルを探していたところ、相手方のニーズとこちらのニーズがマッチングした、と言うことになるようでした。

climbingも本来このような活動であるべきですね。




【臨床技術】セラピストとしての成功体験ーー体力一点豪華主義・グレード一点豪華主義こそがクライマーの挫折感の現況

今朝は、ある男性に対してメールセラピーを行いました。

どうも、登山界に増して、クライミング界は、自己愛の傷つきという心の傷を抱える、男性がかなり多いようです。


私の登山・クライミングを通じた、相手へのセラピーの提供の集大成のようなコミュニケーションができたので、皆様にご報告しておきたいと思います。

climbingも登山も、体力一点豪華主義が闊歩しているので、それで、心に傷を負ってしまうんでしょうね。

青年の時の追った心の傷が定年後の生き直し、でづいてしまった男性登山者は、極端な行動に走り、それで、阿弥陀北稜に一升瓶を担いでいってしまい、仲間3人を凍傷に陥れるのではないかと思います。

九州では、カットアンカーで作られたルートのボルト交換が進まず、だれかー!ということで、手ごろな誰かなら誰でも、だれかー!とやってしまうのでしょう。


1. 阿弥陀岳北稜の一升瓶:青年の傷と「老後の生き直し」の暴走

冬の八ヶ岳・阿弥陀岳北稜というシビアなバリエーションルートに一升瓶を担ぎ込み、仲間を凍傷に陥れるような極端な行動。これは、まさに「I'm NOT OK」の呪縛を抱えたまま、定年後の生き直しに失敗した中高年登山者の痛ましい心理ゲーム(『俺の凄さを見せてやる』)の破滅的な結末です。

  • 青年の時の心の傷(未完の課題): 若い頃に社会や他者から「お前は重要ではない」「成功するな」といったディスカウントを受け、内なる子供(C)が激しい劣等感を抱えたまま高齢になった男性。彼らにとって、定年後の登山は純粋な自然との対話ではなく、「かつて得られなかった承認を力ずくで奪い返すための戦い」に変質します。

  • 「体力・豪快さ」という歪んだ証明: 彼らが選ぶ証明の手段が、「冬山に一升瓶を担いでいく」というような、昭和の悪しき「豪快さ・体力自慢」の再現です。これは客観的なリスク管理(A)を完全に放棄した、肥大化したFCの暴走です。

  • 巻き添えという最悪のペイオフ(結末): このゲームの恐ろしいところは、本人が無意識に「破滅(遭難・凍傷)」という結末を求めている点です。仲間を巻き添えにすることで、「これほど過酷なドラマ(悲劇)を生き抜いた俺」という歪んだストローク(ラケット感情:自己憐憫と悲劇の英雄脚本)を完成させようとします。実力把握をしない登山者が行き着く、最悪のディザスター(災害)の構図です。

2. 九州のカットアンカー問題:「だれかー!」という依存の叫び

九州のクライミングエリアにおけるカットアンカー(経年劣化で強度が著しく低下する古いボルト)の交換が進まない現状と、そこで発生する「だれかー!」という周囲への呼びかけ。これもまた、コミュニティ全体が「AC(依存する子供)」に陥っている構造を鮮やかに切り取っています。

  • 「だれかー!」の心理(フランクな依存ゲーム): 古いボルトの危険性を認識していながら、自分たちで主体的に解決策を学び、動き出す(Aの自立)リスクを背負おうとしません。代わりに「だれかー!」と叫ぶことで、「誰か強い人、親切な人(NP:救済者)」がやってきて、自分たちの機嫌を取り、リスクを肩代わりしてくれることを期待しています。

  • 「手頃な誰かなら誰でもいい」という不誠実さ: 彼らが求めているのは、技術の質や安全基準の厳格さ(本物のA)ではなく、自分たちの甘えを容認し、なぁなぁで作業をやってくれる「都合の良い身代わり」です。そのため、「ボルトの仕様や規格を厳格に数値化して管理する」本物のプロフェッショナルが来ると、自分たちの「Aのなさ(無計画さ)」が露呈してしまうため、むしろ煙たがったり、扱いやすい「手頃な誰か」に流れていったりします。


体力豪華一点主義で、ダメ認定されて傷ついた青年→ペテラン化予備軍
グレード一点豪華主義で、ダメん認定されて傷ついた青年→同じくペテラン化予備軍

です。

したがって、登山教育、クライミング教育でもっとも行ってはならないのは、相手を

体力、グレードだけで切り捨て、無能者呼ばわりする行為

です。