2022/10/20

クライマーの死を死観瞑想する

■ ブッダの教え


自分に対する悪をなすなかれ
他者に対する悪をなすなかれ
 

なぜクライマーは自己破滅的な選択を取ってしまうのか…?

というのが、山を始めた時からの疑問だった。クライミングに至っては、さらにその問いは強くなりました。死につながる選択をいとも簡単にクライマーはしてしまう。

ヒロイズム、承認欲求が答えなんだが…、

自己破滅なら、当人だけのことだが、他者を破滅させる選択肢となると、人ごとではない。

わざと迷惑をかけることに対しても、クライマーは、中2並みの自己抑制力しか持ち合わせない。 

■ 大・小

大きくは、栗城さんの事例にあるように、現代は、嘘の上塗りが、何億というお金を使ってしまうまで可能…

そのお金で何が出来たか?どれだけの飢えた命が救えたか?を考えると…その業の大きさに恐れおののいてしまう… 今生活に困っているクライマーがいたとしたら、そう思わないだろうか?

浮かれていたのは、本人だけなのではない、その煩悩の火に油を注いだ人がいるわけだ。

小さくは、敗退ロープなし!とかで出かけてしまうマルチだ。(私は身につけさせてもらった技術で難を逃れたが…)

■ 意思(業)の結果

岩場の事故はなくならないというセリフは、なくならないのではなく、

 無くす気がない

という意味なのだろう…と思える。集合の意思が、事故を無くしたがっていない。

私は岩場の事故死をした人たちをインタビューする死観という瞑想をしたい。

生きていた頃、どのようなクライミングの喜びを味わい、そして、何を残して死んでいったのか?

別に反省でなくてもいい。まるでろうそくが吹き消されるかのように、軽く、いともなげに死んでいく人々… 

クライマーという人たちの命への扱いよう、そのあまりにも軽い軽さ…それをきれいに書き取れたらいい。

それがなされないから、死のありようを誰も知らず、

登山ならレスキューしている人くらいしか知らず、

命のはかなさ、尊さも全く感じられない、

ということなのだろう。

それ以前に岩場を開拓してどうなる?結局は、地元自治体の迷惑施設となるだけのことだ。 




2022/10/19

故意に自分の命を害す登り方をしない、故意に人の命を害す登り方をしない

■ お釈迦様風にまとめると…

故意に自分の命を害す登り方をしない

故意に他人の命を害す登り方をしない

 

絶対に間違えて行けない選択とは、間違えたら人が死んでしまう選択です。

 例: 

・敗退用ロープなしで、ルートに行くこと、

・セルフレスキューを学ばずセカンドであってもマルチに行くこと

■ 外岩パートナー募集サイトでの議論の行方

ほとんどの意見が、ゲレンデのマルチで落ちてかかとを骨折したヤツのどこが問題なのか?分からないという意見だった。

思うに日本人はお子様なんだろうな…

いつまでも、昔は良かったな、という過去の古き良き時代にしがみつきたいという… 

今は今、昔は昔、ですよ。

現代では、クライマーはジム出身。未組織登山者です。教育なしには、ちゃんと育ちません。 

してよいことと悪いことの判別が、本人はつかないのです。

例え、山梨で10年登っても、です。その証拠が白亜スラブです。

わざと危ないように登るのが、かっこいいと思っているんですから…。そこは価値観を教えないと治りません。

冬壁でかかとやったら、もう登れないです。なので、訓練中は、最小の怪我でも避けるように指導されます。アイスアックスをマイナス25度で素手で掴んだら、手の皮、持って行かれます。若い人はドライの真似して遊んだりしますが、そうやってじゃれているときに、ドライの時のように加えて、口の皮、持っていかれた人、見ました。

最初に教わる環境がシビアだと、些細なことにも反省するようになります。厳しい基準が自分の中の基準になる。そういう人にとっては、フリークライミングのゲレンデは、何が危険なの?って感じです。

しかし、今回分かったことは、つまり、みんなのリスク管理が甘々なのには、

 自分に堪えない

から。

バカは死なないと治らない、という文字通りのことが起こっています。

くまちゃんは私に大怪我させてバカを治しました。

みなさんは、人を殺す前にバカ治してください。

 

フリークライミングの世界は、どいつもこいつも、リスク認知が甘く、地域住民の迷惑どころか、自分の命の大事さすら、顧みない。

そんな奴らのために、自分の時間をささげて、岩場を開拓したうえ、ヒヤリハット・危険を指摘しても、指摘した人の方が責められるなんて、仲間じゃありません。

そんな損な役目を自分で好き好んでやるようなバカでは私はありません。

誰がどーみても、ババ抜きのババですよ、それ。

■ その他の考察記事

https://allnevery.blogspot.com/2020/03/blog-post_16.html

https://allnevery.blogspot.com/2020/03/vs.html


2022/10/18

試登=トップロープの事ですよ

■開拓者はオンサイトしていないんですよ?

さて、フリークライミングの世界であるが、少しであるが、私が学習したことをほかのクライマーのための書いておこう。

第一に、フリークライミングの開拓クライマーは、誰もその課題をオンサイトはしていない。そんな時代はとっくに過ぎたということだ。

フリークライミングでは、当然オンサイトが最高のスタイルなんだが、開拓においては、それは、めちゃくちゃ建前になっている。誰も、建前だと、声を大きく言わないから、私を含む、鈍い人たちが気が付かないだけなんだが…。それとも、喧嘩にならないように黙っているのかね?

ボルダーでもオンサイトはしていない。初登はしても、オンサイトはしない。っていうか、開拓していたら、オンサイトはできない。

■ 試登

なんせ、

   試登、

という都合の良い言葉があるのである。試登は、トップロープの事である。

つまり、 試登 なんかしちゃったら、オンサイトする機会がなくなるではないか!というのは、アルパインのクライマーのいうことであり、そんな野暮なことは、フリークライミングのクライマーは言わない。

(オンサイトしようと思ってグランドアップで取り付いても、登れなかったらエイドになってしまう、エイドになれば、残りはRPしかない)

最終的にフリーで登るために、最初はラッペルする=ロープにぶら下がって登ってみる、のが当然の流れになっているんである。

そして、記録から、ラッペルで試登したかどうか?は、慎重に省かれているのである。

この秘密を暴いたのが、アレックス・オノルド君の『Free solo』という映画で、彼の映画では、何回も試登という名のトライを重ねて、ムーブを自動化したことが分かるようになっている。いきなりフリーソロで取りつくわけがないですよね?

■ レッドポイント?

試登とレッドポイントは何が違うんでしょう? 同じですね。

試登では、何度も何度も登ってフリー化=レッドポイントしているハズで、レッドポイント以上にスタイルを向上させたい!と思ったら、もう2度目のオンサイトっていうのは、言葉の定義上はないのだから、フリーソロしかない。

というわけで、技術力向上し、スタイル向上を目指すとしたら、最終的にはフリーソロへ到達せざるを得ない。

■ 大昔のアルパインクライマーとフリーソロイストは同じ心境なのかも?

大昔のアルパインクライマーは、ロープをつけていたとしても、そのロープが三撚り麻ロープとかで、大変頼りなく、ほとんど保険にはならないようなものだったので、気持ちの上では、フリーソロと変わらない訳だから、結局のところ、

   どっちのクライマーもおなじ心境を目指している、ということになる。

この辺は映画『アイガー北壁』を見れば分かる。基本、命がけです。

■ フリークライミングの建前

フリークライミングは、それじゃ危ないからというので、建前上は、ロープに守られているわけですが、この建前から、命がけに戻したい、という本音への移行が、スタイル向上みたいになっています。

『ドーン・ウォール』のトニー・コードウェルは、フリー化(=レッドポイント)した後、その後はどうするんでしょうか?

というか、ドーンウォールをオンサイトするクライマーが出るのでしょうか?

というか、ドーンウォールをフリーソロするクライマーが出るのでしょうか?

いくらスポーツクライミングで鍛えたクライマーでも、試登ゼロで、挑戦させられることになったら気の毒ですよね…

■ トライ数が多いほうが下手

そんな気の毒さが一切ないのが、一般クライマー。

 落ちても落ちても登る、ということに美学がある

ので、何回落ちてRPしたか?の比較競争にしたらいいのでは?

 例:

 10回でRPした人 > 100回でRPした人

現状だと、逆さになっていて、100回やった人のほうがエライ、みたいになっていますが、本質的には、10回で登れる人の方が上手なはずですよね?色眼鏡で見ないとすると。

 本来 10回でRPした人 > 100回でRPした人

 現状 10回でRPした人 < 100回でRPした人 (下手なほうが評価されることになっている)  

すると、トニーのドーンウォール第2登なら、トニーより少ないトライ数で登れたらスタイル面で向上した=OKってことなのでは?

まぁ、2番目の人は、ほとんど報道されないので、気の毒ではありますが…。

第○○登の挑戦に携わっている人が、ごく少数なので、スタイルの向上、っていうことが一般クライマーには、知らされないのかもしれませんが。

■ 小川山レイバック

私は自分のフリークライミングの歴史を振り返っても、小川山レイバックを例にとると、努力型クライミングはしていません。


1)2014年6月30日 TR
2)2015年10月12・13日 カムエイドトライ  1年4か月後
3)2015年10月28日 TR 再登     
4)2016年 9月7日 ピンクポイント
5)2018年 7月10日 RP   4年後

2014年がスタートなので、足掛け4年。

登った回数は、トータル4回。5回目でリード。トライ数たった5回ですよ(笑)? 

練習3回しかしないでリードしろって、そっちのほうが危険ですよねぇ… 

たった五回って、ヘッドスタンドをマスターするくらいだって、もっと練習、要りますけど(笑)!

一日で5回練習すれば、登れちゃったのか?そうは思いませんが、私はこの課題では、一回もカムにぶら下がっていない。カムの知識が十分溜まり、カムのプレースメントが確実になるまで、落ちながら登る、なんてできないからです。

■ 落ちながら登れるためには、支点(カムプレースメント)のマスターが必要

そこをボルトルート専門の人は端折ってやってるわけです。

私には、ボルトルートでのクライミングは、支点の安全管理が、自分の管理下にないので、あまり技術が付いた、という実感がないためです。

私にとって技術とは? =自分の安全を自分の判断力で管理できる、ってこと。

でも、フリークライミングの場合は、とくにボルトルートの場合は、そこは重視されません。難しいのに、道具に頼らず登れるか?登れないか?が勝負どころなのです。

その価値観で切り分けた場合、支点を自前で設置する能力、ってのは、一般クライマーの場合、けっこうどうでもいいことなのです。(上級クライマーの場合は、支点構築能力は前提のようです)

支点があるところを登るのが、そもそもボルトルートだし、中間支点がないとしても、ラッペルで試登する(つまりTR)って話なので。どこにも命は掛からない(笑)。

最初から命は賭けず、努力の量、勝負ってのがフリークライミングなのではないか?と思うですが、その辺は色々聞いてみましたが、誰も教えてくれないので、分かりません。 

故・吉田和正さんなら、200回トライしろよ!と思っていたと思いますけどね。

■ なんでそのグレードで危険を感じる人をスタイルでイジメるんですかね? お前ら、いじめっ子の集団かい?

これは、ラオスで私が5.8にとりついているところです。

なんと梯子。

これ梯子使わなかったら、グレード上がるんですかね(笑)? 

スタイル向上させたかったら、次は、梯子使わず登ったらいいですね。

梯子使わなかったら、1ピン目、私、届かないですよね?

私だけでなくみんなも届かないかも?

それだけで、5.8ではなくなり(笑)、核心の1ピン目掛ける前だけのために、10がつき、他の部分はぜんぶ5.8程度の登攀だったりして(笑)。

しかも、

手が届いて、ピンかけれる人と、手が届かないで掛けれない人が、同じグレードって変ですよね?

なんせ、届かない人=リスクが大きい

ですよね?

リスクが大きい=より難しい

ですよね?

ん?なんか私、間違ってます?

フリークライミングでは、リスクが大きいことは、誰も評価しない、んでしたっけ?

命がけを楽しむクライミングではなく、努力の量を楽しむクライミングなんでしたっけ?

■ ラオスは現実主義

ま、ラオスでは、そんな細かいことにこだわらないで、現実的に対処することにしたようです(笑)。

なにせ、下の方がフリークライミングではリスクが大きいですよね?地面に近い=落ちたら怪我です。3mでも落ちたら、高衝撃事故です。

それで、5.8を登るような人でも道具を使うのはけしからん!とか、意地を通して、案の定、事故って、誰がなんの得をするのでしょう? 

クライマーのみんなが迷惑ってことだけは、確実ですが。

そもそも、フリークライミングって、危険の量の勝負事ではなく、努力の量の勝負事、だったのに… 危険の量の勝負を無理強いしている。

フリークライミングでは、道具を使っちゃいけなんだ!と言って梯子なしにして、事故多発して、誰の得になるんだ? 誰を?何を?守ろうとしているんですかね?

結局、守られているのは、誰なんですかね?

■ これは吉田さんですよ

アップ用ボルダー。

梯子使ってる(笑)。最初に印付けて登るんですよ。ここがホールドって分かるように。当然、後で消すんですよ。みんなそれやっていないけど。

印を付けたら消す、当然ですよね?うんちしたら拭く、並みの事でしょう。

フリークライミングの開拓の人は、道具に頼るのに、躊躇ないですよ。

なんせ、ノーロープはないレベルの困難度 のにチャレンジするって話なんですから。それは5.8辺りからです。

なんせ5が付く時点でロープが必要っていうのが、業界が、むかーしに下した判断なのですから。

だから、みんな5.8から安全にトップロープでスタートして、RPを重ね、安全に、どんどんスタイル向上させていけばいいっていう話みたいですよ?

そこで、5.9以下はクライマーじゃねえ!とか金玉の小さい事、言っているから、意地を張って、5.9くらいは、オンサイトしなくちゃなんねえ!といきなり取り付く人や、後輩に俺もこうしたんだから、同じにしろ、と無理強いする人が出て、事故が増えるんじゃないの?

そこをアルパインクライマー出身の人がアルパインの道徳観を持ち込んで、道具も使わず、オンサイトすることだけが価値だ!とフリークライミングの困難度で、こだわっていたら、そりゃ能力ないのに、丸腰で難しいのに取り組むわけですから、事故は増えまんがな…。

今エラソーにしているやつだって、名張でどこリードできるの?5.8一本だけって言ってましたよ? みんなそこからスタートなんですよ。だったら安全にスタートできた方がいいでしょう。

その上、トップロープ否定主義では、一生11から上は登れないかもしれないです。

落ちても落ちても練習できるって言う環境が、可能にしたのが5.13とか、の高グレードって意味なので。フリークライミングの教科書にもそう書いてあるし、なんせ知り合いの13クライマーは9割落ちているって言っていましたよ?

そういう人がたまにヌンチャクかけてくれますけど、当然よどみなくオンサイトで登ってしまいますが、おっしゃ5.9オンサイトしたぜ!と喜んでいません(笑)。登れて当然なんでしょう… 

■ ボルダーの開拓 建前と本音

建前

本音。小山田さん、すいません。

でも、こうして開拓しているってことなんですよ。

吉田さんも、フツーにぶら下がっていましたよ?

スタイル向上、

ということなんですよ、リスクはとらずに

スタイル向上。

5.9っていうグレードだって、背の低い人には、5.9ではなくなります。 ホールドに届かないんだから、当然でしょ。


 ■ 結論

だから、結局、ボルトルートのフリークライミングの岩場で、死亡事故があるっていうのは、不可避の事故ではない。避けられた事故です。

登っているクライマーの責任であるはずがないんですよ。なんせ、ビレイされている訳なんだから。ロープに守られているのが、フリークライミングなんだから。それで、落ちてグランドフォールしたらクライマーの責任ではなくて、ビレイヤーの責任です。

ランナウトで落ちてグランドフォールしたら、ボルトの配置の責任です。つまり、開拓者の責任です。

なんせフリーはロープに守られるクライミングってそもそもの定義ですよ?教科書にそう書いてある。50mに3ピンでもちゃんと守られている。グレードとマッチしているハズです。5.14だから、50mに3ピンで、5.9で50mに3ピンだったら、もはや5.9ではないですよねえ。

その証拠に、5.14で50m3ピンを登るクライマー何度も落ちて、RPですよね? トニーがドーンウォールで核心部、挑戦中に落ちて死ぬってないでしょう。同じことです。

ところが、5.9で50m3ピンみたいな課題になると、落ちたら死ぬことになっている。関西の斜陽がいい事例でしょう。

5.14と同じつくりにするべきでしょう。

蜂に襲われたのくらいでしょう、フリーの岩場で人的ミスでないのは。 著作権を主張するなら、義務も履修すべきです。

■ アルパインの論理をフリーに持ち込んで得するのは誰か?

一方、アルパインでは死亡事故はつきものです。ロープがあったって、足元の岩が崩れて落ちて文句が言えないのが、アルパインクライミングです。

私はアイスのクライマーですが、リードしているときにアイスを叩き壊したら、自己責任ですよ。だから、そうならないように叩かないで登りますよ?ウィル様のアイスクライミング動画を最近見ましたが、アイスの神様ウィル様も、ちゃんとテスティングして、つまり、アックスバチ効きになってから登っていましたよ? つまり、一歩一歩が落ちる可能性をかぎりなくゼロまで高めてから登っているってわけです。アイスではロープはあってもなくても結局フリーソロと同じです。ロープにはぶら下がらない約束なんで。私は、テンションだってもらったことないですよ。

その反対のフリーでは、ばんばんロープにぶら下がる約束って言ってもいいくらいですよ… そこから、スタート。だんだん、フリー化、していくもの、です。それがレッドポイントになる。

だから、フリークライミングの岩場での事故は、起こるはずがない事故を起こしているってこと。

人的ミスって意味です。

人的ミスなら防げるって意味です。 

事故は起きるものです、って、単に責任取りたくないって話なんじゃないですかね?

 

山vs登攀

■ 山vs登攀


私には登攀(クライミング)は、まぁ、手段に過ぎないな~と思う、今日この頃。

初めて行ったジョーゴ沢から硫黄岳を詰める山行では、ビーコンまで持たされて行ったのに、核心部の大滝では、登攀が簡単だと感じて、ロープを出さず、フリーソロで超えちゃって、後で師匠に

そんな山は教えていない! 

と、めっちゃ叱られたんだけど…。

それから順調にステップアップして、フリークライミングの世界へ来たが、ビックリ仰天の何でもあり!の世界である。

事例: 本気チョーク、ハングドッグ2時間、片手ビレイ、支点ビレイ、二人を一人がビレイ、ダラリンビレイ、ぱっつんビレイ、ロープスタック、アプローチもテキトー、地元の迷惑?何のこと… 落ちたら死ぬボルト配置は著作権、その著作権の根拠になる所有権はどこから来たのか?俺関係ねー、地元の迷惑?俺の知ったこっちゃねー、みたいなことになっており、

 フリークライミングの美学

がどこにあるのか?は、全然、語られない… まぁ行動を見て判断してねってことなのかもしれないが… それじゃ、にぶい人が分からなくたって当然である。偏差値74だった私だってわからないんだから。

フリークライミングは、実際のところ、手と足だけでロープに頼らず登るって意味なので、やってはいけないことだらけのクライミングなのではあるが、フリークライミング界の悲劇は、

 そんなクライミングは、フリーで登れたとは言わないんだぜ! 

と叱ってくれる人がいないことだろう…

 瑞牆でセカンド確保中のわたくし

2022/10/17

モラルハザード中の世界

今日の仏教説話は、地獄の三寸箸と天国の三寸箸の話でした。で、天国の箸を使っている人に、俺の当然の権利だと言ってお返しをしない人が出てきたら、それが、モラルハザード。

それが、九州に来て、私に起きたことです。

それまで、自分の周りでは、良い環境で登っていました…

事例。これは、6年前の記録です。 https://allnevery.blogspot.com/2016/10/blog-post_17.html

土日は小川山&瑞牆でした。

瑞牆では、初めてのクラックオンサイト!カムの設置も初めてなのでドキドキでした。頂上への階段5.8オンサイト。となりのプリンプリン5.9はTRノーテン。

気をよくして2Pのマルチの片葉足1P目5.7をリードしたら、カムが足りなくなり、大ランナウトして初心者であることを痛感しましたが…とりあえずオンサイトできたのが、うれしい!

土曜の小川山もオンサイト1本。クライミングは楽しいな~!という結果になりました。

あとは10Aのカメ岩クラックはフェイス部分出だし核心で落ちました。上は快適。

きちんとした反省だな~と自分でも思う。

登攀力だけがついても突破力ができるだけで、後は全然、なら、アルパインでは、行けるところの幅は全然広がらないし、フリーなら安全は高まらない。

したがって、ボルダーをやるしか選択肢がなくなる。

アルパインルートへ行く技量 (いわゆる総合力)

= 基礎となる登攀力 + 体力 + 時間通りに登るためのロープ裁き +  アルパインのリスク感性 + セルフレスキューに必要な基礎知識 + 遭難時の予備力

フリークライミングへ行く技量

= 基礎となる登攀力 + 基本的なロープワーク知識 

外ボルダーへ行く技量

= 突破力

 



2022/10/15

東洋インストール中 お金と登攀力はいる時、作ればいい

■【哲学】金を稼ぐよりも大切な話をします。これさえ知っていれば幸せに生きることができます。11:05~結論です。【山田玲司 // 切り抜き】 

■お金についての思い込み

前にお金について、思い込みがあると言われたんだけど…(お金をいやしいものとして忌み嫌っていると言われた)

お金がないと生きていけないという思い込みがあるのは、一般世間のほうで、私は、必要以上に欲しい人が、良く理解できないだけなんだけどなぁ…。

クライミングにおいては、通貨、お金=登攀力でしょう。

あればあったで、なければないで、欲しくなるのがお金と登攀力。

■ いるなら作ればいい

山岳総合センターのリーダー講習に、出たい!と思ったときは、行くのにお金が要るってことだったので、お金作りました…。(山小屋でバイト)

お金と登攀力は、いる時作ればいい、っていうのではダメなんですかね?

あればあったで、失う恐怖に縛られるのがお金だという風に、仏教では教えていますが…。
今のところ、したいことがそんなに多額のお金を要するもの、はないんだよなぁ… 

■ お金がないことに守られている

むしろ金で解決しない方がいい結果を生むことが多い、物事っていうのはある。

例えば、勉強…。学力は金で買う時代だ、と言われて久しいが、カネで買える学力と、実力は違って、実力は金で買えない…。金で買って塾通いをしていると、いつまでたっても真の実力はつかない。

登攀力も同じで、カネで解決=ジムに行く。福岡なんて、都会から30分で、無料の岩場が自然の中にはいっぱいあるのに、人はジムに行きたいものなのだ…。流行っているから、という理由で。

カネで買える何かいいもの…で、最近の身の回りの件で思いつくのは、


・横山ジャンボさんと佐藤ユースケさんが催行するユタのクライミングツアー 18万円 飛行機代別
・自然農野菜の個人宅配を摂る(どこかいい個人宅配知っていたら教えてください)


・仏教の瞑想クラスに出席するのに大分まで行く(募金せいだから無料と同じ)
 

・MTBのレイドに参加する
 

・ログハウス作りに参加する
 

あと、なんかあったっけ?って感じで、特に普段以上にお金を使わないと、できないようなことの希望というか、望みがないんだよぁ… 有り余るカネがないから、スケールの小さい望みしかない、と言われたら、ぐうの音も出ないが…。

何千万もかけて、7大陸最高峰制覇!とか、最高峰を踏むことが、もはや初登でもなんでもなくなり、お金の戦い=つまりスポンサー力の戦いとなり、その山をこなすのに、アルパインクライミングの技術すら要らず、時期さえ選べば誰でも登れる…と、分かっている人にはバレちゃっている時代に、お金をかけて、そんなのやって何も知らない人からスゴイスゴイと言われたって、何になるんだ?とか思ってしまう…人は多いだろうと思う。

■ 時は流れ、昔すごかったことはすごくはなくなる…

昔はヒマラヤは山やにとって大変な夢だったんだが、今では、一般の人だってトレッキングルートを歩く時代なので、ただヒマラヤって言うだけで意味を持つ人は少ない… 私の周りには一杯いるよ、ヒマラヤのトレッキング行ってきた人。

ので、同じ行くなら、私だったら、チベット僧のターパさんがやったみたいに、リトリートにでも行かないと、わざわざ行く意味が見いだせないな、と思ってしまう…。すでに賞味期限が切れた自慢話のネタ集めしても仕方ないって気持ちだ。

今の人は、海外には慣れていて、昔の人みたいな外国の山への憧れは、もはやないから、なんだが…。(オーストラリアの山とか、山やになる前にすでに登っています)

同じお金ならアメリカのシエラ山脈歩きましょう、みたいなのが好みだったりするかもしれない… 理由は?と言えば、若いころカリフォルニアに住んでいたので、思い出をかみしめてもいいかなぁ…みたいな気持ち。それは、人生で良い時間になるだろうという見込みがある。

でも、天から降ってわいたような登攀に出かけても仕方ないよなぁ。縁が感じられない。

そう思って、ジャック・ケルアックの、TheDarmaBumを読んでみたが、”だるまフーテン”と訳されているものを見た(笑)。なんか、寅さんかよ…(笑)。ムードでないなぁ…。

日本では、Bumをフーテンと訳すと、あまり良い印象を持つ語感はない。英語でBumは自由人という響きなんだがなぁ… と幻滅…。

話としてはカリフォルニアの若者が仏道を求めてさまよう話です。


気分転換…自分の認知を変える必要があるのだが、一番手っ取り早いのは、

忘れる、

なんじゃないかと…。

クライミングを忘れる。カネ稼ぎを忘れる。もっと他に楽しい事、目標になることを見つけて。そして、それをマネタイズする。

 

2022/10/14

フリークライミングらしいフリークライミングの岩場って

■ 適切な岩場の、”適切”の中身

1)5.9なり、5.11なり、そのグレードを登るクライマーのために、適切にボルトが配置されている。

2)岩場としての全体的なグランドデザインがある。

3)課題同士が2m以内に接しているなど、近すぎない。無理をして、課題数稼ぎをしていない。

4)登攀自体が楽しめる内容である。

5)リスクを上げることでの興奮だけを求めるというような本末転倒が起こっていない。

6)わざと事故を誘発するような作りになっていない。

7)やむを得ず、危険を甘受する場合は、R、Xなどの記号付与をフリークライミングの慣行に従って行い、クライマーに危険を明示的に知らせる。

8)必要もないところにボルトを打っていない 

9)現代的強度を満たすボルトが使用してある(25kN)

■ 美しい

一言で言えば、美しいってことですかね…?

日本の町並みは美しくないことが多いでしょう、特に戦後、五月雨式開発で作られた町は…。パリの町が美しいのは、グランドデザインがあるから…。


 


ダイナミック瞑想&ブッダの瞑想(マインドフルネス)

■ 衝撃のOSHO ダイナミックメディテーション
 
友達が教えてくれた。 
 
東京のイスコン教会でキルタンではなくて、適当に踊る会…名前忘れました…があるときがあるのですが、あれを初めて見たときの衝撃に近い。
 
誰でもフラストレーションを心に貯めている…それを発散する場が、健全だとスポーツでの闘争心、不健全だとアル中みたいな感じかなぁ…
 
スポーツで競争することでは、心のエネルギーを解放できない人向けにいいのかもしれません。なんせ、”競争”だからなぁ…スポーツは。容易に自己顕示欲の世界に陥ります。
 
昨日は、スマナサーラ長老のマインドフルネス動画を見て、
 
20年バレエをやった=20年マインドフルネス瞑想
 
って意味だと思いました。
 
■ マインドフルネス = 実況中継する
 
今まで聞いた瞑想アドバイスの中でベストアドバイス。
 
子どもの世話をしているときは、いつも何をしているか?実況中継しています。気持ちも実況中継。それで、これは嬉しいという気持なのだ、と子供にラベリングしています。痛いとか怖いとかも、子供は教えないと、自分で表現できるようにならない。
 
このブログも心境の実況中継ですが、実況中継にかなり似ているのが、バレエのレッスン。かかとから出す、など様式が指定されているので、実況中継力はかなり高まります。
 
また、英語を身に着ける場合のシャドーイングは、発話の実況中継です。英語を身に着けたい方は、英語で自動化を起こす、と考えたらよいと思います。クライミングは自動化勝負のスポーツで、私はアイスクライミングでは自動化すでにしています。
 
マインドフルネスは、バレエと同じで自動化を避ける。バレエでパの組み合わせが、毎回異なるのは、自動化を避けるためです。自動化=癖、ですので。
 
心の自動化=認知の過ち、ですね。
 
もし相方が白亜スラブでやったことは、私は”自己PRしたい!”ということだと認知したのですが、そうでなかったら、正確には何なのでしょう?  ジムで5.11登れるから北岳バットレス四尾根と同じことが具現したとしか思えないのですが。まぁ、身を守るだけのクライミング技術があって良かったなと思っています。
 
相方の、心の自動化=認知の誤りは、女は男の意思の言いなりにしてよい、という観念かもしれませんね。あるいは、母親への復習を代理を立ててやったとか。
 
コントロールを受けやすい傷の根源がどこかにあるはずで、それを探求中です。

2022/10/13

山とお金 お金があっても買えない価値

■ 栗城劇場

栗城劇場は、多額のお金をかけた”ビッグな夢を語る俺かっけー”登山劇場であった。欲望という煩悩の果てと仏教者には見えるだろう。

■ 私も、お金を稼ぎたかった時代もあった…

んだよなぁ… その昔。15年ほど前だが。その頃は、社会人ビジネススクールに自腹で参加したりしていた… それでMVPを貰ったりもした。

 んだが、別にお金のニーズが下がったというか…。

■ 山ヤに必要な能力は、カネで解決できない

山ヤに必要な能力って金で解決できない問題ばかりが、解決課題だったりするんだよなぁ…

例えば、体力。どんなに金を積んでも、トレーニング以外、体力問題を解決することは不可能。

クライミング技術…たしかにロープとか、クライミングシューズとか、高いんだが、それは一時的なこと。結局、ノットを勉強するだとか、ロープを素早くまとめるだとか、凍らないように登るたび手入れする、とか、全部、実践しないと身につかない。

実践のことを”コソ連”って言うんだが…。こそ連は大事だが、結局、本番に行かないとコソ連だけをしても、身にはつかない。

読図…山で失敗しながら学習するしかない。家で磁北線を書くとか当然です…という感じで、結局、あんまりお金の威力(金さえあれば何も努力しなくて良い)を発揮できないのが山なんだよなぁ…。

■エベレスト一山 700万円

そう言う風に言うと、700万円あれば、誰だってエベレストに登れる!と主張する人がいて、たしかにそれはそうなんだが…。

700万円さえあれば、だれでも登れる山に登って、自己肯定感だの、自信がつく…人って、結局700万円で自己肯定感を買うって意味。

山としては、歩くだけで、全然魅力がないというか…、おもしろさに欠けるというか… なんで面白くないことに700万円も払わなきゃならんのか?となる。

青ちゃんはデナリですら退屈だとおもったらしくて、BCで寝ていたそうだ…(笑)。

ただ歩くだけで到着する山って、クライミングをスタートしてしまった人には、価値が感じられなくなるらしいんだよなぁ… 

だよなぁ…と聞いて思った。

初心者のころ、あんなに憧れた前穂北尾根、一体なんで、あんなに憧れたのか?山の本を読みすぎたとしか、今となっては思えない…。

フリークライミングのレベルに来たら、6時間も歩いたのに、クライミングちょっぴりだなぁ…とか思ってしまう。(堕落ともいえるが)

 かといって今、フリークライミングのルートに行きたいか?というと、そうでもなく、瑞牆のマルチに登りたい、というのは、私の中の夢には全く入らない…。誰かほかの人の夢だなぁと思う。

世界中の岩場を登りまくりたいというのもなく、世界一周したい!とかって、なるほどザワールド世代の幻想なんじゃないの?それ、ホントに自分の夢なの?って思う。つまり、洗脳なんじゃないの?って感じだ。

ラオスには、おし!という感じで行ったが、自分の実力を伸ばす岩場だと確信があり、それがたまたまラオスだったから。しかも、ラオスに行ったら、登攀ではなく、世界観が気に入ったということで、作り出したいのはクライミングの世界ではなく、ラオス的世界のほう。(質素、テレビなし、Wifiなし、平等、ビールはドネーション、ということです)

台湾の岩場も、現在の実力とマッチしているので、誰か一緒に行ける人がいたら、行きたいが、行けなくても、まあ、いいかな~な感じ…。スコーミッシュはどうも楽しいらしい。

というので、特に何も困っていない。充足している、ともいえるんだが…、充足していることは感謝すべきことで、その逆ではない…。

 8年前の北穂池…初級者でアルパインで道がない山をしたい人にお勧め

クライミングは、私は、命を懸ける対象とは思えないし、大枚をはたく対象ともなぁ…まぁ30歳若かったら違うかもしれず、それでも遅いスタートではあるが、夢を追いたい!とか思うのかもしれないが、38歳のスタートなんで、最初から夢の賞味期限は切れているスタートなのである(笑)。当然でしょう。

そんな私が、ラオスや韓国、おまけに台湾までクライミングで行けるわけですから…

みなさん、これは、ある意味、お買い得って意味ですよ?なんでそう思わないのかなぁ…

私だったらチャンス!と見て飛びついちゃいますね。

さてと私は、せっせと仏教勉強することにします。なんせ、アメリカ式仏教、私のドストライクゾーンっぽいです。

 


2022/10/12

栗城劇場は、俺ってかっけーのなれの果て、です。自分の実力を客観視しましょう

■自業苦とは?

ある老子にお侍が言いました。「老子よ、地獄とはあるのですか?」

老子 「お前は侍の癖にそんなこともわからんのか」

侍 「…。(悔しい…)そこを何とか教えてくださいませんか?」

老子 「武士のくせに情けないのう… 武士は武士でも、かつお節か」

侍 「なにお~!もう許せん!斬ってやる!」

老子 「まだ分からんのか?その心が地獄じゃ!」

■ クライマーバージョン

クライマーAがいいました。「おれ、5.12登れる。お前、今何登れるの?」

クライマーB 「5.9をやっているところよ」

クライマーA 「け、そんなのしか登れないの?」 

ある時、クライマーCが、クライマーAに言いました…

クライマーC 「え、お前、まだ5.12やってんの」

クライマーA 「…。(悔しい~)」(この人がやってるのは、承認欲求地獄)

■ 栗城劇場という自業苦

昨日は、栗城さんの解説動画を見て、そういう話だったのか、と納得した。

栗城さんは、
 

 現代の、無知な、未組織登山者

代表という感じで、一般にきちんとしたクライマーのネットワークには、つながっていない人たちが支持層だ。ぜんぜん本格的にやっている人たちからは評価を受けていない。

ので、私も、思考を与える価値すらないと、まったくスルーしていた。この種の人に、おなじく南谷真鈴さんなどがいる…。余談だが、残念なのは、最近では、登山教育の不在が積年の果てであり、山岳会連盟の会長などの要職に就いているですら、きちんとした登山者の姿を捉えられない人が多い。つまり、南谷さんと加藤保男を切り分けられないということ)

さて栗城劇場だが…

 実力を伴わない、”俺ってかっけー!”を山でやり続けた結果がどうなるか?

を衆人にみせてくれた劇場、ということだろうなぁ…。

男性のクライマーは、結局、山が好きというよりは、

”山にかけてる俺ってかっけー!”

を、やりたがっている人が多い。

私の知っている人では、ガイドをしている人ですらそうで、体力やトレーニングというコツコツした努力なしに


  俺だってカネさえあれば佐藤ユースケ

と思っている人が多いってことだ。初心者ではなく、ガイドをするようなレベルの知識の人ですら、そうなのだ。

■ コツコツした努力がないという傍証 

ベテランが、もはやコツコツした努力をしないのはいい。すでに落穂ひろいの山に入っている時期だからだ。

しかし、登れました自慢をするのに、その基盤となる努力をしないのは、片手落ちだ。私ですら、一番登っていたころは、歩荷トレしている。

適性な歩荷量の研究

■虚言癖

虚言癖というか、自分を大きく宣伝し勝ちなのも、栗城さんだけでなく、多くのクライマーに直結する共通の性質だ。

大体のクライマーはみな、「俺、5.12が登れる」という。

実際、大体の男性クライマーの平均的な落ち着き先はそこだ。あまり努力を要せず、必要な時間さえ費やせば、落ち着く先が12だということだ。女性なら、11が落ち着き先だろう。なにしろ、41歳スタートの私が、11登れる段階に2年前で来ていたからだ。男性12、女性11でプラトーに入り、そこから上は努力がいる。

5.12登れるという男性クライマーに、そうか、ということで、例えば、OBGの5.9なところへ連れだって行ったとする。すると、フリーでは登れず、スカイフック出して、2時間半もかかって登る…。確かにフリークライミングの岩場ではなく、アルパインっぽい、つまり、汚くボルトも少ないんだが…だとしても10c。え~、12登れるんじゃなかったの?となる。現代クライマーの5.12は、そういう程度の話なんだな…、と推して図るべし。

あるいは、カムとロープが噛んでロープが流れないとか、長ヌンの使い方を知らないでロープが流れない上、落ちても、全くビレイヤーに衝撃が伝わらない、とか。グレードで実力は判定できないと言うが、余りにも基本的なこと…そのままだと登れなくなる…というようなことすら知らない。それって教えること、教わることというより、普通に経験していれば分かるようなことだと思うんだが…知らないものは知らないのだから、教えるしかない。

私が九州で出会ったクライマーは、みんなそんな人達ばかりだった。

こういう人たちは、まだ”まし”で、有段者なのに、「終了点にはロープ直がけが九州ルールなんですよ」とかです。

こうした現象が起こるのは、実力と知識がマッチしていないというよりも、そもそも何がステキなクライミングなのか?クライミングの価値観を教わり損ねているのではないか?と思う。ゲームのルールを、勘違いしているってことだ。だから、グロバッツのニンジャを登るのに、赤チョークになってしまい、それじゃニンジャを登った意味ないね、となる。

■ 私の自業苦 

私の自業苦は、弟を早くに無くしていることだ。24歳で弟は死んだ。死ぬ前8年ほど会っていない。

山岳総合センターの仲間が、涸沢岳西尾根で墜落死した。親しくしていた山屋が、劔で落石により圧死した。

釘をさしておくが、私はクライミングメッカの山梨時代ですら、クライミング寄りの活動はしていない。出来るところをできるように登る、という身の丈の山を積み上げて、結実したのがラオスであり、台湾だ。

私が不必要に、亡くなった弟を彼らに重ねて親切にしてしまうので、ある種の人たちが、抜け道発見!とばかりに私を利用しようとしてしまう訳なんだが、私がしたいのは、引退後のグレードを追いかけないフリークライミングです。

なにしろ、私はアルパインクライミングは、自分の力で追える限りのルートを、すでに追ったのち充足してから、九州に来たので、九州でやりたいのは、

実力を誇示する山 ではなく、

引退後の、のんびりクライム、であり、

グレードを追いかける山はやる気がありません。

■ 無知もいいところ、自分の力が客観視できない

例えば、こんなボルダラー版栗城さんに会いました。

例1:

今、3級しか登れないのに、2段をノーマットで登るとか言って、クラッシュパッド買わない奴…。2段をノーマットで登るには、4段とか5段をノーマットで登れる実力がいるんだが?そして、その実力は、落ちて落ちて落ちまくる、を繰り返さないと、つかないことは、日を見るより明らかですよね?

例2:

根子岳を登りたいって言うアルパインクライミングの、お上りさんクライマーは許すことにした。ジャンダルムを登りたい!という登山”客”レベルの人が、初歩のクライミング入門すると、大体は、皆が通る道であることは分かった…。私だって明神主稜とか行ってるし、その前は北穂池だの、前穂北尾根だの行っているので、その人の通った道を通っていないわけではない。ただし、私は、そこを登るのに十分と思われるトレーニングを積み、講習を受けたのちに行ったわけだが

無雪期のアルパインルート(リッジ、岩稜)をロープをつけて行きたい人は、都岳連の岩講習を受けていくべきと思います。

しかし、俺が白亜スラブ楽勝で登れるという自己PRのために、敗退のロープを想定せず、マルチに行くというのは…。そんな恥ずかしい山をやったことはなかったのに、なぜそのようなことに手を貸してしまったのだろう?と思うと、自分が恥ずかしくなる。

それだけパートナーの欠乏が深刻だったということにしたいが、それだけで済ませられる失態ではない。気が付かずに栗城劇場を応援する羽目になっていたのだ…。

自分を殺すだけであれば、自分の命であるので、勝手にすれば?だが、それに巻き込まれるっていう話であれば、かなり業が深い。栗城劇場で死んだスタッフたちと同類ということだ。

というので…栗木劇場は、現代のアルパインを夢見てフリークライミング入門したクライマーたちに、

 俺ってかっけーだけのクライミングの慣れの果て

を戒めるために、その業がどのような苦を結ぶのか?を具体的に見せているもの、でした。

すべてのクライマーは、栗城劇場を他山の石としましょう。

それは、自分を善意で応援してくれる人を殺しかねない山 です。

■ そもそもの因

すべてのクライミング分野で、スタイル(つまり、クライミングの道徳、倫理、あり方)ということです…の教育が欠如しています。

ので、よっぽど独学できる頭の良い人しか、まともなクライミングができないことに陥っています。

事例:

・アルパインクライミングでの教育欠如の結果 = ラッセル泥棒を恥ずかしいと分からない

入門コースである阿弥陀北稜に行くには、どのような訓練が必要なのか?理解できない。読図、山の概念図の把握、コンパスウォークの習得、雪崩危険の回避術、その山固有の天候リスクの回避術…生活技術、確実なアイゼンウォーク、多少のラッセル

・フリークライミングでの教育欠如の結果 = 閉じている終了点を使いこなせない

懸垂で降りて登るシークリフの岩場での登り返しができない、ロープの始末が分からない、スタイルの差による困難度が分からない、正しいビレイが分からない

・ボルダリングによる教育の欠如 = ランディング練習が先に必要と分からない、マントル練習が必要と分からない、降りることのほうが登るより高リスクだと分からない

結局、一般登山の、登山客の知識のまま、行く場所をどんどん高度にしている、という問題があります。

ガイド登山がそれを後押ししています。

行く前に、山岳総合センターなり、○○クライミングガイドの講習なりを受けないといけないのに、間違った相互助け合い、で、無知をカバーしあっているので、無知な人は、ずっと無知なまま、置かれてしまうということです。

知識を自ら求めない人には永遠に与えられない、ということです。

■ 動画"栗城史多"とは一体なんだったのか?悲劇の登山人生を世界一詳しく解説【ゆっくり解説】

2022/10/10

独標ニアイコール根子岳

九州の人がわからずやっぽいので、掲載

〇×がついていても危険なのに、ついていないのをうろ覚えの年配の人に連れて行ってもらって自分はセカンドでリスクをとらずに行こうというのですから…。

 

ーーーー以下 FBより引用ーーーーーーーーーーーー

< 本当に危険なんです!! >
今日は独標まで登山道整備とマーキングをしに行ってきました。
独標が渋滞しているときに、ルート以外の場所を歩いてしまう人がいるのですが、ルートから外れると不安定な岩が落す可能性があり、凄く危険です。
つい先日、ルートから外れて歩いた人が大きな岩を落し、もう少しで下を歩いていた女性を直撃するところでした。
岩を崩してしまった付近が大変危険な状態になってしまったため、落石事故を防ぐため、不安定な岩は除去し、通らないように×印をつけました。
また、独標の東端にある大きな岩は、一昨年の群発地震の影響で、いつ崩れ落ちてもおかしくない状態になっています。
立入禁止の看板を設置し、ロープを張ってあるのですが、その中に入って休む人が後を絶ちません。
中には落ちそうな岩の上に乗って写真を撮り、自慢げにSNSにアップしている人までいる始末です。
今日は恐る恐る岩に近付き、ペンキで岩に直接危険を知らせる注意書きをしてきました。
あの巨大な岩が崩れ落ちたら、その近くにいる人まで巻き込む可能性もあります。
本当に危険なんです!!
( 粟 澤 )

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2022/10/09

NINJYA 5.14Aの記録から トポへ反映したらよいラベリング情報を抽出

 https://www.karrimor.jp/ambassador/k-1.html

より、NINJYAを事例に、トポで課題の価値を伝えるときに、何を伝えると良いのか?を考察。

前提: 課題には、ほかよりも意味がある良い課題、と ふつーの課題がある。味噌くそで保存活動するのは、ナンセンス。 

■ 抽出

1)1年間を費やして自分のフリークライミングの限界にチャレンジ

→ 一つのルートを登るだけに、一年間かかる (長時間の法則) 

2)一般フリークライミングの楽しみ方 との差 (こだわり強度の法則)

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これまで1つのルートの為にトレーニングをしたり、何日も通ったりなどはしてきませんでした。簡単なルートでも純粋にクライミングを楽しみたかったし、同じルートをずっとやるよりも色々なルートを沢山登ってみたかったから

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Ninjyaが特殊であるという意味

3)あるルート → 特定のルートへの愛着 (愛着の量=感動の量の法則)

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あるルートに出会い、限界に挑戦することの素晴らしさや登れたときの感動の大きさ

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4)最初に失敗する → 楽でない (簡単な壁ではない法則)

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最初のトライをしました。結果は惨敗。分かってはいたことですが、圧倒的に実力が足りていませんでした。

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5)実力が足りない → 楽でない (自覚の法則)

引用箇所 同上

6)諦めてしまうところを通う → 執着心(不屈の法則)

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いつもならこれで辞めてしまうところですが、どうしてもこのルートを登りたかったので、それからも休みの日は毎回このルートに通いました。

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7)「コスモス」は手段  (ほかのルートは手段の法則) 

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暑くてトライも出来なくなったので、トレーニングとして、夏の間はマルチピッチクライミングをしていました。この写真はお隣の瑞牆山というところにある「コスモス」というルートです。

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8)ほかの活動は手段の法則

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筋力を落とさない為にボルダリング

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9)ちょっと前進 → 自己観察と自己向上の法則

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夏のトレーニングのお陰かちょっとずつ前進し、あと少しで登れそうな惜しいトライを何回もしていました。

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10)このグレードを登るのにかけた日数は → (トライ量の法則)

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今回は、この14というグレードを登るのに費やした日数は12日間、

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■ まとめ

1)長期トライの法則   ★

2)一般フリークライミングの楽しみ方との差(ルートの特殊度) ★

3)特定のルートへの愛着度  ★

4)簡単な取り組み課題ではない法則 ★

5)自分の現在の実力の自覚の法則 

6)不屈の法則 

7)ほかのルートは手段として努力する法則 ★

8)ほかの活動を手段として努力する法則 

9)自己観察による自己向上の実感の法則

10)トライ量によるスタイル向上の自己計測の法則 ★

★がついているものは、開拓者がトポを工夫することで、取り組むクライマーにスタイルへの認知をもたらせそうだと予想できるポイントだ。

■  トポへの反映方法 7法

1)長期トライの法則   

「この課題はじっくり通ってもらいたい課題だ」「〇〇氏が〇日かかった」「季節が夏だった」「夏から秋になってしまった」等

2)一般フリークライミングの課題と楽しみ方との差(ルートの特殊度) 

「○○を登ろうとする人の入門に丁度よい」「中級者の実力試しに丁度よい」「熟達者にこそ味わってみてもらいたい好ルートだ」「雨の日に良い」「これが登れるようになれば一人前」等

いきなりジャック豆に行かず、小川山レイバック、カサブランカの後みたいな。

3)特定のルートへの愛着・思い入れ度  

「開拓中に○○を落としたという思い出のルート」「このルートのために〇〇した」「○○のために何度も登った思い入れのあるルート」「一目ぼれしたルート」等

4)簡単な取り組み課題ではない法則 

「開拓に○○日もかかった難ルート」「コケがひどく○○日」「指皮がなくなり血まみれになって登ったルート」等

5)ほかのルートは手段として努力する法則 ルートの関係性 

「このルートは〇〇へのステップアップに良い」「このルートを登る前にプロテクションを確実にしてほしい」「この課題には正確な立込み技術が必要だ」「○○が終わっていない人には、このルートはまだ早い」「○○が楽勝で登れたら、これを登ってみてもらいたい」等

6)ほかの活動を手段として努力する法則 

「器械体操出身には簡単に感じられる可能性がある」「体幹を鍛えてからトライして欲しい」「指力が非常に必要になる」「特殊なバランス感覚が必要」等

7)トライ量によるスタイル向上の自己計測の法則 

「開拓には〇〇日を要した」「初登には試登を含め、〇〇日を要した」「初登はピンクポイントでリハーサルされ、のちレッドポイントされた」「合計100トライでやっと登れた〇〇な課題」「あまりの難しさに○○が根を上げた」等

■ 感想

これはNinjyaを例にとってみたのですが、ステファン・グロバッツの初登時の記録と比べると、当時のグロバッツと自己の差がより鮮明になって、

 クライミング史に残る偉大な課題を登った

という感動がよりひとしおなのかもしれません。 

■ 余禄

      非常に用心深く登っている事例 これができる前に怠惰でカムを飛ばす人が多い ただの怠惰なのに、勇気があるという正のフィードバックを受けてしまう。ボロが出たときに死に直結することがある。怪我や死亡につながる悪い因果を積み上げてはいけない。