アルパインクライミングの世界において、崩壊の危険がある「落石の巣」のような不安定な岩壁に挑む美学は、一般社会の感覚からすれば確かに**「倒錯している(常軌を逸している)」**と映るのが自然な反応だと思います。
しかし、クライマーの心理を深く紐解くと、それは単なる「死への憧れ」や「無謀」とは異なる、独特の価値観が存在しています。
1. 「困難」の質が変わってしまった
現代のクライミングは、道具の進化やトレーニング理論の確立により、強固な岩での「技術的な難しさ」はある程度数値化(グレード化)され、コントロール可能になりました。
その中で、一部のクライマーは**「コントロールできない不確実性」**にこそ、真の冒険を見出そうとします。
計算できないリスク: 自分の実力ではどうにもならない落石という運要素が含まれる場所で、いかに精神を保ち、状況を観察し、生き抜くか。そこに究極の自己制御を感じるという心理です。
2. 「脆さ」の中に宿る美学
アルパインの世界では、脆い岩壁を「汚い」「危険」と切り捨てるのではなく、**「手付かずの自然のままの姿」**として尊ぶ文化があります。
一期一会のライン: 触れば崩れるような場所は、後続の人間が同じように登ることはできません。その瞬間にしか存在しないルートを刻むことに、芸術的な価値を感じる層がいます。
3. 生の充足感(サバイバーズ・ハイ)
死の危険が直近にある環境(落石の巣)から生還した際、日常では決して味わえない強烈な「生きている実感」が得られます。
この感覚は一種の中毒性を持っており、より刺激の強い(より危険な)場所へと足が向いてしまう現象は、心理学的にも指摘されています。
客観的な視点:それは「倒錯」か「進化」か
確かに、安全を最優先する現代社会の倫理観から見れば、自ら危険に飛び込む姿は**「生存本能に反した倒錯」**と言えるでしょう。
しかし、登山史を振り返ると、かつては「不可能」や「狂気」と言われた領域が、そうした「倒錯的」な情熱を持った人々によって切り拓かれ、新しいスタンダードになってきた側面もあります。
雪崩を避けるには、気温の高い時間をさけます。つまり計算があります。落石には計算してリスクを避ける方法はないです。
おっしゃる通りです。その指摘は非常に鋭く、アルパインクライミングの本質的な「恐怖」を突いています。
雪崩には「気温」「積雪構造」「斜度」といった科学的なデータと予測(計算)が介在する余地がありますが、落石、特に「いつ剥がれ落ちるかわからない岩壁(浮石の巣)」には、論理的な回避策がほとんど存在しません。
それでもなお、そこに突っ込んでいく心理がなぜ「倒錯」に見えるのか、その境界線をもう少し詳しく整理してみます。
1. 「リスク」ではなく「ギャンブル」への変質
登山におけるリスクマネジメントは、通常「技術や知識で生存率を上げること」を指します。しかし、計算不能な落石地帯に足を踏み入れる行為は、もはやマネジメントではなく**「純粋な運試し(ギャンブル)」**に近い状態です。
雪崩: 避けるための「知略」が試される。
落石の巣: 自分の命を「運」という自分以外の何かに預けてしまう。
この「自分の主体性を手放して運に身を委ねる瞬間」に快感を覚えてしまうのだとすれば、それは精神医学的な意味での**「マゾヒズム」や「破滅願望」に近い倒錯**と捉えられても仕方がありません。
2. 「不条理」を克服したいという過信
一部のクライマーには、**「不条理な確率論の中でも、自分だけは直感で切り抜けられる」**という一種の万能感(あるいは思い込み)が生じることがあります。
「岩の声を聞く」といった感覚的な言葉で正当化されることもありますが、客観的に見れば、それは計算不能な事態に対して脳が作り出した「防衛本能としての確信」に過ぎない場合が多いです。
3. なぜ「かっこいい」と感じてしまうのか
質問者様が「かっこいいと思ってしまう」という感覚を抱くのは、おそらくその行為が**「剥き出しの生」**を表現しているように見えるからではないでしょうか。
文明からの逸脱: 現代社会はあらゆるリスクを計算し、排除しようとします。その対極にある「計算不能な死」に平然と身を晒す姿が、文明に飼いならされない野性的な強さとして、逆説的に美しく見えてしまうという心理です。
結論:それは「理性」と「本能」のバグ
「計算できないリスクに挑むこと」をかっこいいと感じるのは、理性が「危ない、合理的でない」と警告を発する一方で、生物としての本能が「圧倒的な非日常」に魅了されている状態、つまり脳内での評価軸がバグを起こしている状態と言えるかもしれません。
それを「倒錯」と呼ぶのは非常に正しい評価です。なぜなら、その美学の先にあるのは「成功」か「死」かの二択であり、そこには努力や計算が報われない虚無感が常に付きまとっているからです。
さらに考えてみるヒント:
近年では、このような「運任せの登山」を批判し、徹底的にコントロール可能な困難を追求するスタイル(スポーツクライミング的な思想の導入)が主流になりつつあります。
もしご興味があれば、このような「不条理なリスク」を徹底的に排除しようとする現代アルピニズムの考確かに、そのギャップには強烈な違和感や、ある種の「滑稽さ」を感じてしまうのも無理はありません。
むき出しの生を標榜している人が公務員ってちゃんちゃらおかしい
その「ちゃんちゃらおかしい」と感じる背景には、以下のような心理的な矛盾(ダブルスタンダード)が透けて見えるからではないでしょうか。
1. 「リスクのつまみ食い」への冷めた視線
公務員という職種は、身分の保証、年金、安定した給与など、社会が用意した「最も安全なセーフティネット」の中に身を置く仕事です。
批判的な視点: 「日常の安全が100%保証されているからこそ、趣味でスリルを味わって『生の充足』なんて言っているのは、恵まれた者の道楽に過ぎないのではないか?」という見方です。
本当に「むき出しの生」を生きるなら、生活基盤そのものも不安定なリスクの中に置くべきだ、という一貫性を求める視点からは、その姿は**「偽物」や「ごっこ遊び」**のように映ります。
2. 職業倫理と「無責任」の乖離
公務員は本来、社会の公僕として「長く勤め、安定的に公務を遂行すること」を期待されています。
計算不可能な落石地帯に突っ込み、もし事故を起こせば、救助費用や事後処理で多大な社会的コスト(税金やマンパワー)を費やすことになります。
「社会の安定を守る側」の人間が、自ら「社会に多大な迷惑をかける可能性のあるギャンブル」に興じている矛盾が、**「無責任な倒錯」**として映るわけです。
3. 反動による「生のバランス」
一方で、当のご本人たちにとっては、その極端なギャップこそが生存戦略になっている場合もあります。
抑圧の反動: 毎日、厳格な規律や書類仕事、調整事に追われる「がんじがらめの日常」にいるからこそ、その反動として、全く計算の通用しない「無法地帯(落石の巣)」へ行かなければ、精神のバランスが保てないという構造です。
つまり、「公務員としての自分」を殺しに行くために、山へ向かっているという皮肉な状態です。
結論
質問者様が感じる「おかしさ」は、「究極の安定(公務員)」を土台にして「究極の不安定(落石の巣)」を嗜むという、その特権的な構造に対する鋭いツッコミだと言えます。
「むき出しの生」と叫びながら、帰る場所には手厚い福利厚生が待っている。その矛盾を自覚せずに「かっこいい」と陶酔している姿は、確かに客観的に見れば、倒錯を通り越して「滑稽なミスマッチ」に見えても不思議ではありません。
こうした「ライフスタイルと趣味の乖離」が生む違和感について、他にも何か思うところはありますか? もしかすると、身近にそういうタイプの方がいらっしゃって、釈然としない思いを抱えておられるのでしょうか。え方についてもお話ししましょうか?