2022/10/20

クライマーの死を死観瞑想する

■ ブッダの教え


自分に対する悪をなすなかれ
他者に対する悪をなすなかれ
 

なぜクライマーは自己破滅的な選択を取ってしまうのか…?

というのが、山を始めた時からの疑問だった。クライミングに至っては、さらにその問いは強くなりました。死につながる選択をいとも簡単にクライマーはしてしまう。

ヒロイズム、承認欲求が答えなんだが…、

自己破滅なら、当人だけのことだが、他者を破滅させる選択肢となると、人ごとではない。

わざと迷惑をかけることに対しても、クライマーは、中2並みの自己抑制力しか持ち合わせない。 

■ 大・小

大きくは、栗城さんの事例にあるように、現代は、嘘の上塗りが、何億というお金を使ってしまうまで可能…

そのお金で何が出来たか?どれだけの飢えた命が救えたか?を考えると…その業の大きさに恐れおののいてしまう… 今生活に困っているクライマーがいたとしたら、そう思わないだろうか?

浮かれていたのは、本人だけなのではない、その煩悩の火に油を注いだ人がいるわけだ。

小さくは、敗退ロープなし!とかで出かけてしまうマルチだ。(私は身につけさせてもらった技術で難を逃れたが…)

■ 意思(業)の結果

岩場の事故はなくならないというセリフは、なくならないのではなく、

 無くす気がない

という意味なのだろう…と思える。集合の意思が、事故を無くしたがっていない。

私は岩場の事故死をした人たちをインタビューする死観という瞑想をしたい。

生きていた頃、どのようなクライミングの喜びを味わい、そして、何を残して死んでいったのか?

別に反省でなくてもいい。まるでろうそくが吹き消されるかのように、軽く、いともなげに死んでいく人々… 

クライマーという人たちの命への扱いよう、そのあまりにも軽い軽さ…それをきれいに書き取れたらいい。

それがなされないから、死のありようを誰も知らず、

登山ならレスキューしている人くらいしか知らず、

命のはかなさ、尊さも全く感じられない、

ということなのだろう。

それ以前に岩場を開拓してどうなる?結局は、地元自治体の迷惑施設となるだけのことだ。