■ ブッダの教え
自分に対する悪をなすなかれ
他者に対する悪をなすなかれ
なぜクライマーは自己破滅的な選択を取ってしまうのか…?
というのが、山を始めた時からの疑問だった。クライミングに至っては、さらにその問いは強くなりました。死につながる選択をいとも簡単にクライマーはしてしまう。
ヒロイズム、承認欲求が答えなんだが…、
自己破滅なら、当人だけのことだが、他者を破滅させる選択肢となると、人ごとではない。
わざと迷惑をかけることに対しても、クライマーは、中2並みの自己抑制力しか持ち合わせない。
■ 大・小
大きくは、栗城さんの事例にあるように、現代は、嘘の上塗りが、何億というお金を使ってしまうまで可能…
そのお金で何が出来たか?どれだけの飢えた命が救えたか?を考えると…その業の大きさに恐れおののいてしまう… 今生活に困っているクライマーがいたとしたら、そう思わないだろうか?
浮かれていたのは、本人だけなのではない、その煩悩の火に油を注いだ人がいるわけだ。
小さくは、敗退ロープなし!とかで出かけてしまうマルチだ。(私は身につけさせてもらった技術で難を逃れたが…)
■ 意思(業)の結果
岩場の事故はなくならないというセリフは、なくならないのではなく、
無くす気がない
という意味なのだろう…と思える。集合の意思が、事故を無くしたがっていない。
私は岩場の事故死をした人たちをインタビューする死観という瞑想をしたい。
生きていた頃、どのようなクライミングの喜びを味わい、そして、何を残して死んでいったのか?
別に反省でなくてもいい。まるでろうそくが吹き消されるかのように、軽く、いともなげに死んでいく人々…
クライマーという人たちの命への扱いよう、そのあまりにも軽い軽さ…それをきれいに書き取れたらいい。
それがなされないから、死のありようを誰も知らず、
登山ならレスキューしている人くらいしか知らず、
命のはかなさ、尊さも全く感じられない、
ということなのだろう。
それ以前に岩場を開拓してどうなる?結局は、地元自治体の迷惑施設となるだけのことだ。