2022/10/12

栗城劇場は、俺ってかっけーのなれの果て、です。自分の実力を客観視しましょう

■自業苦とは?

ある老子にお侍が言いました。「老子よ、地獄とはあるのですか?」

老子 「お前は侍の癖にそんなこともわからんのか」

侍 「…。(悔しい…)そこを何とか教えてくださいませんか?」

老子 「武士のくせに情けないのう… 武士は武士でも、かつお節か」

侍 「なにお~!もう許せん!斬ってやる!」

老子 「まだ分からんのか?その心が地獄じゃ!」

■ クライマーバージョン

クライマーAがいいました。「おれ、5.12登れる。お前、今何登れるの?」

クライマーB 「5.9をやっているところよ」

クライマーA 「け、そんなのしか登れないの?」 

ある時、クライマーCが、クライマーAに言いました…

クライマーC 「え、お前、まだ5.12やってんの」

クライマーA 「…。(悔しい~)」(この人がやってるのは、承認欲求地獄)

■ 栗城劇場という自業苦

昨日は、栗城さんの解説動画を見て、そういう話だったのか、と納得した。

栗城さんは、
 

 現代の、無知な、未組織登山者

代表という感じで、一般にきちんとしたクライマーのネットワークには、つながっていない人たちが支持層だ。ぜんぜん本格的にやっている人たちからは評価を受けていない。

ので、私も、思考を与える価値すらないと、まったくスルーしていた。この種の人に、おなじく南谷真鈴さんなどがいる…。余談だが、残念なのは、最近では、登山教育の不在が積年の果てであり、山岳会連盟の会長などの要職に就いているですら、きちんとした登山者の姿を捉えられない人が多い。つまり、南谷さんと加藤保男を切り分けられないということ)

さて栗城劇場だが…

 実力を伴わない、”俺ってかっけー!”を山でやり続けた結果がどうなるか?

を衆人にみせてくれた劇場、ということだろうなぁ…。

男性のクライマーは、結局、山が好きというよりは、

”山にかけてる俺ってかっけー!”

を、やりたがっている人が多い。

私の知っている人では、ガイドをしている人ですらそうで、体力やトレーニングというコツコツした努力なしに


  俺だってカネさえあれば佐藤ユースケ

と思っている人が多いってことだ。初心者ではなく、ガイドをするようなレベルの知識の人ですら、そうなのだ。

■ コツコツした努力がないという傍証 

ベテランが、もはやコツコツした努力をしないのはいい。すでに落穂ひろいの山に入っている時期だからだ。

しかし、登れました自慢をするのに、その基盤となる努力をしないのは、片手落ちだ。私ですら、一番登っていたころは、歩荷トレしている。

適性な歩荷量の研究

■虚言癖

虚言癖というか、自分を大きく宣伝し勝ちなのも、栗城さんだけでなく、多くのクライマーに直結する共通の性質だ。

大体のクライマーはみな、「俺、5.12が登れる」という。

実際、大体の男性クライマーの平均的な落ち着き先はそこだ。あまり努力を要せず、必要な時間さえ費やせば、落ち着く先が12だということだ。女性なら、11が落ち着き先だろう。なにしろ、41歳スタートの私が、11登れる段階に2年前で来ていたからだ。男性12、女性11でプラトーに入り、そこから上は努力がいる。

5.12登れるという男性クライマーに、そうか、ということで、例えば、OBGの5.9なところへ連れだって行ったとする。すると、フリーでは登れず、スカイフック出して、2時間半もかかって登る…。確かにフリークライミングの岩場ではなく、アルパインっぽい、つまり、汚くボルトも少ないんだが…だとしても10c。え~、12登れるんじゃなかったの?となる。現代クライマーの5.12は、そういう程度の話なんだな…、と推して図るべし。

あるいは、カムとロープが噛んでロープが流れないとか、長ヌンの使い方を知らないでロープが流れない上、落ちても、全くビレイヤーに衝撃が伝わらない、とか。グレードで実力は判定できないと言うが、余りにも基本的なこと…そのままだと登れなくなる…というようなことすら知らない。それって教えること、教わることというより、普通に経験していれば分かるようなことだと思うんだが…知らないものは知らないのだから、教えるしかない。

私が九州で出会ったクライマーは、みんなそんな人達ばかりだった。

こういう人たちは、まだ”まし”で、有段者なのに、「終了点にはロープ直がけが九州ルールなんですよ」とかです。

こうした現象が起こるのは、実力と知識がマッチしていないというよりも、そもそも何がステキなクライミングなのか?クライミングの価値観を教わり損ねているのではないか?と思う。ゲームのルールを、勘違いしているってことだ。だから、グロバッツのニンジャを登るのに、赤チョークになってしまい、それじゃニンジャを登った意味ないね、となる。

■ 私の自業苦 

私の自業苦は、弟を早くに無くしていることだ。24歳で弟は死んだ。死ぬ前8年ほど会っていない。

山岳総合センターの仲間が、涸沢岳西尾根で墜落死した。親しくしていた山屋が、劔で落石により圧死した。

釘をさしておくが、私はクライミングメッカの山梨時代ですら、クライミング寄りの活動はしていない。出来るところをできるように登る、という身の丈の山を積み上げて、結実したのがラオスであり、台湾だ。

私が不必要に、亡くなった弟を彼らに重ねて親切にしてしまうので、ある種の人たちが、抜け道発見!とばかりに私を利用しようとしてしまう訳なんだが、私がしたいのは、引退後のグレードを追いかけないフリークライミングです。

なにしろ、私はアルパインクライミングは、自分の力で追える限りのルートを、すでに追ったのち充足してから、九州に来たので、九州でやりたいのは、

実力を誇示する山 ではなく、

引退後の、のんびりクライム、であり、

グレードを追いかける山はやる気がありません。

■ 無知もいいところ、自分の力が客観視できない

例えば、こんなボルダラー版栗城さんに会いました。

例1:

今、3級しか登れないのに、2段をノーマットで登るとか言って、クラッシュパッド買わない奴…。2段をノーマットで登るには、4段とか5段をノーマットで登れる実力がいるんだが?そして、その実力は、落ちて落ちて落ちまくる、を繰り返さないと、つかないことは、日を見るより明らかですよね?

例2:

根子岳を登りたいって言うアルパインクライミングの、お上りさんクライマーは許すことにした。ジャンダルムを登りたい!という登山”客”レベルの人が、初歩のクライミング入門すると、大体は、皆が通る道であることは分かった…。私だって明神主稜とか行ってるし、その前は北穂池だの、前穂北尾根だの行っているので、その人の通った道を通っていないわけではない。ただし、私は、そこを登るのに十分と思われるトレーニングを積み、講習を受けたのちに行ったわけだが

無雪期のアルパインルート(リッジ、岩稜)をロープをつけて行きたい人は、都岳連の岩講習を受けていくべきと思います。

しかし、俺が白亜スラブ楽勝で登れるという自己PRのために、敗退のロープを想定せず、マルチに行くというのは…。そんな恥ずかしい山をやったことはなかったのに、なぜそのようなことに手を貸してしまったのだろう?と思うと、自分が恥ずかしくなる。

それだけパートナーの欠乏が深刻だったということにしたいが、それだけで済ませられる失態ではない。気が付かずに栗城劇場を応援する羽目になっていたのだ…。

自分を殺すだけであれば、自分の命であるので、勝手にすれば?だが、それに巻き込まれるっていう話であれば、かなり業が深い。栗城劇場で死んだスタッフたちと同類ということだ。

というので…栗木劇場は、現代のアルパインを夢見てフリークライミング入門したクライマーたちに、

 俺ってかっけーだけのクライミングの慣れの果て

を戒めるために、その業がどのような苦を結ぶのか?を具体的に見せているもの、でした。

すべてのクライマーは、栗城劇場を他山の石としましょう。

それは、自分を善意で応援してくれる人を殺しかねない山 です。

■ そもそもの因

すべてのクライミング分野で、スタイル(つまり、クライミングの道徳、倫理、あり方)ということです…の教育が欠如しています。

ので、よっぽど独学できる頭の良い人しか、まともなクライミングができないことに陥っています。

事例:

・アルパインクライミングでの教育欠如の結果 = ラッセル泥棒を恥ずかしいと分からない

入門コースである阿弥陀北稜に行くには、どのような訓練が必要なのか?理解できない。読図、山の概念図の把握、コンパスウォークの習得、雪崩危険の回避術、その山固有の天候リスクの回避術…生活技術、確実なアイゼンウォーク、多少のラッセル

・フリークライミングでの教育欠如の結果 = 閉じている終了点を使いこなせない

懸垂で降りて登るシークリフの岩場での登り返しができない、ロープの始末が分からない、スタイルの差による困難度が分からない、正しいビレイが分からない

・ボルダリングによる教育の欠如 = ランディング練習が先に必要と分からない、マントル練習が必要と分からない、降りることのほうが登るより高リスクだと分からない

結局、一般登山の、登山客の知識のまま、行く場所をどんどん高度にしている、という問題があります。

ガイド登山がそれを後押ししています。

行く前に、山岳総合センターなり、○○クライミングガイドの講習なりを受けないといけないのに、間違った相互助け合い、で、無知をカバーしあっているので、無知な人は、ずっと無知なまま、置かれてしまうということです。

知識を自ら求めない人には永遠に与えられない、ということです。

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