「啓蒙の坂(Slope of Enlightenment)」とは、心理学的な現象である**「ダニング=クルーガー効果」を表すグラフにおいて、「自分の無知を自覚した後に、正しい知識や技術を地道に習得していく過程」**を指す言葉です。
登山やあらゆるスキルの習得において、人が通る「成長のステップ」としてよく使われます。
ダニング=クルーガー効果の4つのフェーズ
グラフの動きに合わせて、以下のようなプロセスをたどります。
馬鹿の山(Peak of "Mount Stupid")
少し知識を得ただけで「自分はすべてを理解した」と思い込んでしまう段階。
状態: 自信は最大だが、能力は最低。
絶望の谷(Valley of Despair)
本物のプロや厳しい現実に直面し、「自分は何も分かっていなかった」と打ちのめされる段階。
状態: 自信が急落し、自分の無力さに気づく。
啓蒙の坂(Slope of Enlightenment) ★
自分の実力を正しく認識し、謙虚な姿勢で「真の学び」を始める段階。
状態: 自信はまだ低いが、実際の能力が着実に上がり始める。
持続性の台地(Plateau of Sustainability)
長年の経験を経て、深い知識と高い能力を兼ね備えた「真の専門家」になる段階。
登山における「啓蒙の坂」
先ほどの動画の文脈で言えば、以下のように当てはまります。
馬鹿の山: 「ガイドに連れられてエベレストに登れた!自分は最強のクライマーだ」と誤認している状態。
絶望の谷: 「実は自分はロープワークすらできない、ただの『荷物』だったんだ」と気づき、虚無感に襲われる状態。
啓蒙の坂: **「もう一度、近所の低山やジムで基礎からやり直そう。自分の力で登れるようになろう」**と、一歩ずつ技術を積み上げている現在の状態。
まとめ
「啓蒙の坂」を上っている状態とは、「自分はまだ未熟である」という謙虚さを持ちつつ、他人の承認(SNSのいいねや肩書き)のためではなく、自分の本当の成長のために努力できている状態を指します。
あなたが仰った「自己満足の山」を楽しむクライマーこそが、まさにこの「啓蒙の坂」を一段ずつ、確実にかみしめながら歩んでいる人たちだと言えます。
白亜スラブ啓蒙の坂バージョン
それは、まさに「馬鹿の山」の絶頂から「絶望の谷」へ真っ逆さまに落ちるべき、九死に一生の瞬間でしたね。想像するだけで背筋が凍ります。
「40年物のボルト1点」に、ロープの残量を無視して突っ込んだ相方と、しりぬぐいをしたあなたが2人でぶら下がっている図は、もはや「登山」ではなく「ロシアンルーレット」です。
その「相方」が、今回の事件を経て本当に**啓蒙の坂(Slope of Enlightenment)**を上り始めると、以下のような変化が起こるはずです。
1. 「想像力」という最強のギアを手に入れる
啓蒙の坂にいる人間は、**「もし、ここでボルトが抜けたら?」**という最悪のシナリオを常にシミュレーションします。
以前: 「行けるっしょ!」という根拠のない自信。
坂の上: 「ロープが足りなくなる」「支点が腐っている」というリスクを予見し、50mロープで60m(35m+25m)のラインは引かない、あるいは途中でピッチを切り直す判断ができるようになります。
2. 「記号」ではなく「実体」で山を見る
40年物のボルトを「支点」という記号で見るのではなく、**「錆びて破断寸前の金属片」**という実体で見るようになります。
坂の上: 「1点に2人」という状況の異常さに鳥肌が立ち、バックアップ(補強)が取れない場所を終了点に選んだ自分の未熟さを、一生の恥として刻み込みます。
3. 「しりぬぐい」をさせる自分を許せなくなる
啓蒙の坂を上る者は、自立したクライマーを目指します。
以前: 相方がなんとかしてくれるだろうという甘え。
坂の上: 自分のミスが「パートナーを殺しかけた」という事実に戦慄し、技術の習得(ロープマネジメントや支点構築)を「承認欲求」のためではなく、「生きて帰るための義務」として猛勉強し始めます。
4. 「撤退」が誇らしい選択肢になる
馬鹿の山にいる時は「登頂」だけが成功ですが、啓蒙の坂では**「危ないから止める」「ピッチを切る」という判断**こそが、知性の証明であると理解します。
結論:啓蒙の坂を上るとは
相方さんが啓蒙の坂を上り始めるということは、次にあなたの前に現れる時、彼は**「饒舌に武勇伝を語る男」ではなく、「無言で支点の強度を確認し、ロープの残量を何度も確認する、少し慎重すぎるくらいの臆病な男」**に変わっているということです。
「優れたクライマーは、臆病なクライマーである」
この格言を彼が骨の髄まで理解したとき、ようやく2人のロープは「信頼」という重みを持つようになるのだと思います。
「命を預け合う」のがクライミングの本質ですが、その前提となるのは、お互いの技術への信頼ではなく、まず「リスクに対する共通の認識」があるかどうかです。
35m+25mという物理的な計算すら放棄し、老朽化した支点1点に二人でぶら下がるような状況を招いた相手は、もはや「パートナー」ではなく「自分を危険に巻き込む障害」でしかありません。
「啓蒙の坂」は、本人が自らの未熟さに打ちのめされ、心から「変わりたい」と願わない限り、上り始めることはできません。誰かに強制されて上るものではないのです。
山は逃げません。次は、同じ「啓蒙の坂」を一段ずつ真摯に上っているような、信頼できるパートナーと、清々しい「自己満足の山」を楽しめることを切に願っています。