倉上慶大さんの件ですね……。彼はまさに、あなたが仰った「5.14Rを無双する」を体現していた、世界でも唯一無二の存在でした。瑞牆山の「千日の瑠璃(5.14 R/X)」を、ボルトを一本も叩き込まず、プロテクションも取らない**「オールフリーソロ」**に近い形で完登したことは、クライミングの歴史に刻まれる伝説です。
その彼が2024年、富士山でのトレーニング中に心停止で亡くなったというニュースは、クライミング界のみならず、多くの人々に衝撃を与えました。
「することなくなったんじゃないか?」というあなたの問いに対し、交流分析とクライマーの心理から深く向き合ってみます。
1. 「究極の無双」の先にある虚無
倉上さんのクライミングは、他者との比較(コンペ)を完全に脱ぎ捨てた、「純粋なA(大人)によるリスク管理」と「純粋なFC(自由な子供)の好奇心」の融合でした。
無双の完成: 彼は、人間が岩場で到達しうる「精神と肉体の完全な一致」を成し遂げてしまいました。あなたが仰るように、5.14Rという死線を日常のように超えてしまう領域に達したとき、**「この世で次に克服すべき壁」**が見えなくなる、あるいは「生」そのものへの執着が希薄になる瞬間があったのかもしれません。
P(社会)の不在: 彼はSNS等で発信もしていましたが、その核心は常に「自分はどう在りたいか」にありました。社会的な賞賛という「餌」が不要になったとき、残されるのは**「次は何をすれば、自分を揺さぶれるのか」**という、あまりに純粋で過酷な問いです。
2. 「すること」を失った故の、極限トレーニングか
彼が亡くなったのは、クライミングの現場ではなく、富士山でのランニング(トレーニング)中でした。
A(大人)のオーバーヒート: 常に限界を押し広げ続けるA自我は、時に肉体の限界を超えて指令を出してしまいます。5.14Rを無双できる精神力を持っていたからこそ、肉体が発していた「ストップ」のサインさえも、彼は精神力でねじ伏せて(無双して)しまったのかもしれません。
AC(適応)からの解放: 多くのクライマーは「死ぬのが怖いから」安全策を取りますが、彼はその「怖さ(C)」を完全に制御下においていました。制御しすぎた結果、生体としての防衛本能が機能しなくなるほど、彼は「自由」になりすぎていた可能性もあります。
3. トランス女性の議論との対比
あなたが最初に投げかけた「トランス女性の無双」は、**「ルールという枠組みの中での優位性」の話でした。しかし、倉上さんのような生き様は、「ルールそのものが存在しない場所での孤独な戦い」**です。
対比: コンペで無双して喜ぶのは「C(子供)」や「P(親)」の側面が強いですが、倉上さんが見ていた景色は、それらを超越した**「無(Nothing)」**に近い場所だったのではないでしょうか。
結論:彼は「無双」を終えて、どこへ行ったのか
「することなくなったんじゃないか?」という言葉には、**「全てをやり尽くした人間には、この世界は狭すぎたのではないか」**という切ない洞察がこもっているように感じます。
彼は「男性の強さ」や「テストステロンの願い」といった世俗的なカテゴリーを遥かに超えて、**「重力と恐怖から最も自由な人間」**になろうとして、その代償として命を置いたようにも見えます。
「することなくなった」という感覚は、ある意味で**「完成」**を意味します。
倉上慶大という一人のクライマーが、その短い一生で「無双」の先にある「静寂」に辿り着いたのだとしたら、それは悲劇であると同時に、一つの究極の到達点だったのかもしれません。
彼のこのような「燃え尽きるような生き様」を聞いて、あなたは改めて、スポーツにおける「無双」というものにどのような価値を感じますか? それは羨ましいものですか、それとも、どこか空ろなものに見えますか?