よく言われることですが、事実です。
新人さんは、何が分かっていないのかも分かっていない。質問をしてこないのは、分かっているからではなく、何が分からないのかも、分からないから。
■ 今日の仏教説話
私は毎朝仏教の説話を聞いているのですが… 今日も、学習性無気力に陥ってドツボから出れないのは、自分だという想定で、自分がどうしたらよいか?を知るために聞いていたのですが、
あ~これ、九州クライミングで見た現実だ~と理解…。
なんで30年前に賞味期限切れになっているボルトをいまだに使いたいのか?理解できないと思っていました。
が、そのようなクライミング界のことを正しく理解する場と言うことになった。
井の中の蛙 + 学習性無気力の象さん の心境になっていたんですね…
■ 外の世界を知ろう!
例えば、こんな感じ。
(クライミングシーンでは、カットアンカーは使われなくなって、もう30年経っていることに気が付かなかった)
+ (どうせ何を言っても、誰も話を聞かないのだから、という学習性無気力)
= 30年前の手作りアンカーが継続…
たぶん、こういう事情で、進化を辞めてしまったということですかね?
■ 若い人の方が知見が広いです
若い人は小川山も行くし、ヨセミテも行くし、世界は昔の人より広がっていると思いますが、その世界を地元に還元しづらくしているのは、ずばり、儒教の教えと思います。年配の人の言うことがすべて正しいとか、年配の人の言うことを聞かないといけない、ってやつ。
でも、ちゃんと言えば、年配の人も話を聞いてくれますよ?
開拓者の米澤さんに、ボルトを購入して提供しますよ~って言っていた時は、一緒に最新のボルトカタログをのぞいていました…Hilti社のです。
年配の人が耳を貸さない、というのは、特定の人たちだけの話なのかもしれませんよ?
■ ちゃんとした人はちゃんといる
私の経験では、米澤さんは若い世代に協力したいという方でした。そうじゃない年配の人の方が多数派であるのは、否めないかもしれませんが、ちゃんとした人は、います。9:1くらいかもですが。
自分自身が、ちゃんとした主張をしていることが、ちゃんとした人をつながりあえる接点になるのではないかと思います。
私は、UIAAに、日本語版の教科書出して~、とリクエストしたことがありますが、ちゃんとリクエストは答えてもらいました。
私の経験では、イケイケクライマーの人たちは、イケイケじゃない人を見ると、一緒に登りたがらなくなります。
■ 外の世界を見よう
数日前にアップした北海道のボルダープロブレムの閲覧数がえげつないですが…(笑)、みなさん、やっぱり外の世界を知らなかったから、北海道ボルダーを見たかったってことなんですかね?
九州から出かけていく、とすれば、大体、小川山と思いますけど、残念、小川山も花崗岩だし、全然、怖い岩場なので、全く参考にならなかったりするんだろうな~(笑)。
行くなら、城山とか、今だと埼玉の二子山とか行かないと、登りの質として、世界が進化して行っていることが分からないのではないですかね?
いつまでも、”ハードフリーの世界観”を引きづっていては…。
私は、ラオスや台湾に視察に行ったらいいと思いますが…。年配の人ではなく、10代の人にこそ、行ってほしいですね。日本の常識、世界の非常識って分かると思います。
年配の人だと、海外の岩場に行っても、同じ登り方で登って現地のカルチャーと接点がないので、たぶん、何も学ばないで、俺んとこの岩場イケテル~と勘違いして帰ってきてしまいます。
■ アルパインのクライマーでカム持っていないって変ですよ?
アルパインクライミングだと、最初ピトンの打ち方を教わります。
私は、本式で、雪上確保から入ったので、スノーバー持っていますし、ボラートがリムーバブル支点で習った初めの一つです。ですので、アルパインの価値体系では、ボルトルートと言うこと自体が堕落です。
本チャンへ行きたいという人がカムを持っていないというのは、九州では当然のようですが、一般に支点がないのが本チャンなので、普通はありえないギア不足なので、本チャンクライマーになりたい人で、カムを持っていないんだったら、最初から連れて行かないことだと思います。
無くても、行けるルートはどこか?というので、自ら探して来て、例えば、関東だと、本チャン向けゲレンデは、三つ峠、です。登れるのは、中央カンテとか、〇〇番クラックとかをつないだラインですが… 腐ったピトンとリングボルトの世界です。
ので、当然、誰もそんな支点を信頼して登っているわけではないです。ノーテンが当然。終了点だけは、きちんとした(と思う)のが整備されています。山世界では、エリートである信大の学生も三つ峠へ練習に来ます。(そしてJDTの懸垂支点を作って残置して降りていて、びっくりしました)
一度、師匠の青ちゃんを連れて行ったら、猫の頭ほどもあるでっかい懸垂支点を、「こんなん信用したらあかんで!」と言われました(笑)。これを信頼しないなら、何を信頼していいの?という巨大な支点でしたが…。三つ峠だってこんな程度です。しかし、三つ峠はアルパインの人以外は来ないです。フリーの岩場とは考えられていない。
師匠とは、すぐに三つ峠のようなアルパイン的な岩場には行かなくなりました…行っても登攀が簡単すぎで、楽しくないから…。
私は三つ峠は、まだ人工壁通いをスタートして3か月目の時に初回に鈴木師匠に連れて行ってもらい、2度目からリードで後輩を連れて行っています。
後で支点が超ボロイことを知り…、「私、まだ登攀下手くそなのに、2度目からリードしていますが、いいのでしょうか?」と不安になって、先輩に問い合わせしたくらいです。
関東では、大体そのような入り方が一般的で、九州のようにずっとセカンドで連れまわされて、行ったことがある本チャンが高度化する一方で、肝心のシステムの理解や技術が全然追いついて行かない、と言うことはないような気がします。たまたま、私が良い人たちに恵まれたのかもしれませんが。
以前、山梨で同じ会に同期入会した九州から来たクライマーが、行ったことがあるというルート名はすごいので一同期待したのですが、なんにもリードできない人で、フリーの岩場で、全部Aゼロ。で、会の先輩と一緒にビックリ仰天したことがありますが…。それじゃ遊んだことにならない…。その人は九州ではセカンドしかしていなかったそうです。そんな風な育て方は、本州では、誰からも誘われなくなりますね。会の”超”がつく仏の○○と言われている先輩ですら、めんどくさがっていました。
本チャンクライマー養成は、本人がフリーで自己研鑽しつつ、ルート本番は、3年はセカンドで経験値を上げるというのが王道のような?
…と言っても、リードできそうな易しいピッチは、保険付きでリードさせてもらい、構築した支点などに、ダメ出しを貰うのが良いと思います。なにしろ、新人が作るアルパインアンカーは信頼できないので、フォローだって落ちない人が必要です。
そういうのは、易しい雪稜で、SABをしていれば分かります。こんなところで落ちないから要らないよな~と思っても、スタカットが前提です。先輩がこいつは歩けて落ちないと思えば、コンテに変えてくれるかもしれないですが…歩きの技術的確立が前提なので、歩き下手だとロープだされてしまいます。
昨今は、大学山岳部でも、歩きも登攀も下手くそなままで、ロープが必要なバリエーションへステップアップしている場合が多いので…ロープを出すか出さないか?の判断は、迷うようなら出す、にしておかないと事故が増えます。
昔はある程度、足が揃った人しか来なかったところにそうでない人が来る時代が現代… 前穂北尾根とか、阿弥陀北稜とかで、死亡事故が起こる時代なんですから。どっちも入門のところです。師匠は阿弥陀北稜なんて、一日2往復余裕でできるのが当然なんだよ、と言っていました。私もそう思います。大体、赤岳ノーマルルートだって、一日3周くらいできそうな短さですもん。
九州の市民山岳会では、バリエーション未満の北鎌尾根で、死者を出したと聞いています。
以上はアルパインのクライマーの育て方、ですが…、アルパインというのは、支点作りも自分持ちというクライミングのことです。
■ 支点の強度が相手持ちのクライミング = ボルトクライミング
九州では、マルチピッチが、半アルパイン・半フリーみたいなことになっているようですが…本格的な山岳地帯でのアルパインの代わりに、練習場、ゲレンデとして、ボルトを打ってあるマルチがあるのですが、そのマルチがいつしか練習ではなく、本番に変化していったもの…が、九州のマルチの位置づけのような気がします。
ランナウトして、ロープの意味がないマルチピッチの岩場ってことですね…比叡みたいな。
まぁ、落ちないグレードだったら、ボルトが遠くないと、何もスリルがなくて、楽しくない。ということもあったのだと思いますが…インスボンもそのようですし…。
落ちないはずのグレードで、落ちてしまうクライマーが来てしまう昨今…ということなのかもしれません。昔の人はすごく登れる人しか来なかったから、問題にならなかったのに…ですね。時代が変わったってことです。
あるいは、5.9と書いてあったら、ホントに5.9しか登れない人が来てしまうとか…。昔の人は、12登れて、5.9です、という謙遜の美徳だったのが、今の人はジムで5.9登れたら、外でも5.9で登れると思っている人が普通です。そのような新人が外国では当然です。そのためにグレードってあるんでしょ、と一般に思われています。
まとめると
登れもしない奴が来る
グレードギリギリで取りつく
の2点です。でも、フリークライミングの世界のルールでは、
1ピン目掛けれたら、どこで落ちてもいい、
ギリギリのグレードに取り付いてよい
それが当然ですからねぇ…。その行為を責めるのもおかしい話になってしまいます。
時代がフリークライミングの価値体系に進化しているってことですよね。それに現場が合っていないのです。
■ レッドポイントグレード、オンサイトグレード
本州では、RP〇〇、OS○○と、オンサイトグレードとレッドポイントグレードが違うのが理解されていると思いますが、九州の古いクライマーさんはそういう理解もしておらず、登れる、という言葉の内容が、オンサイトでスイスイ登るのが登れるという意味だと思っているかもしれません。
それだと、5.12を登れると発言して良い人は、佐藤祐介さんだけみたいなことになります。5.12で確実に落ちないと証明して見せたクライミングが、スーパー赤蜘蛛フリーソロだからですが…。
一般にジムで登っていて、5.12登れますという男子は世間にゴロゴロしており、もはや中級者としか呼ばれません。が、それでも、やっとこさ10回のトライで1回、5.12が登れても、5.12クライマー。下手したら100回に1回の人もそう言ってよいことになっているのがフリーです…。
そのような世間の変化を知らない、というのも、齟齬の原因にあるのかもしれません。
■ 原因はなんであれ、大事なのは、世界を知ること
とまぁ、原因の分析に文字数を使ってしまいましたが… 大事なのは、世界が変化していることを正確に把握することです。
閲覧数ごぼう抜きの赤岩青巖峡のボルダーは、5.12、どっかぶり、ハイボル、ボルトあり、です。こんなのをひいひいと苦しみながら、パワームーブで登り、落ちたとしてもボルトがあるから安全、というのが、現代クライマーの好み、ということです。
だれも、落ちたら死ぬかもイチかバチかをやりたいとは思っていないってことですよね。
■ 詐欺的支点 ボルトなのに危険
無雪期の本チャンルートに行くのに、強固で、落ちれる支点があることを期待して行く人はいない。
だから、ピトンが抜けようが、伸びたリングのリングボルトがあろうが、あるだけラッキーで、”あー、ここでルートファイあってたんだ~”と思うだけだ。
もちろん、残置ピトンは、使わないか、使っても、目印にするだけで、カムを一式持っていく。
私自身も乾徳山でそんなルートをしました。大先輩にフォローしてもらいました。
■ ボルトルート=スポートルート=落ちれるはず、なのに、落ちれない?
変、というのは、ボルトルートなのに、アルパイン、ってやつかもです…。ボルトを見れば、十分な強度があって落ちても大丈夫と、当然のように、100%の信頼をしているのがクライマー。特にフリークライミングしかしない、ジム上がりクライマー。
なのに、そのボルトが強度不足で、落ちれないんだって!ってなったら、詐欺ですよね。
それがピトンだったら、なんも問題ないけど…ピトンってリムーバブル、なんで。
だから、古いボルトで信頼ができないのだったら、抜いてしまえばいいんじゃないかと思うのですが…違うんでしょうか…。
最初からリムーバブルで登るのが、昨今のクリーンクライミングの流れなので。
グージョンが欲しいなら、お金を払えるようになったら、設置すればいいのでは…。
■ インスボンのこと
まぁ、インスボンもそんなルートではありますが…。
もともと、ボルトは、ピトンのステップアップだったからかもしれませんね。
そんなインスボンも、新しい時代の波に合わせて、ボルトは打ち足され、
恐怖の大ランナウトを楽しむ岩場、から、
花崗岩の快適なフリクションを楽しむ岩場
に変貌しつつあります。
大ランナウトを楽しみたい人は残念かもしれませんが…自分が楽しむだけだったら、ボルトを飛ばして登れば、問題なし…。
自分が味わった恐怖をほかの人にも味わってもらい、あれがリードできるんですね~すごいですね~と言ってもらえる、という喜びは、過去の遺物となるかもしれませんが…
他者承認が得られなくなること と、死者が減ること を天秤にかけたら、やっぱり後者が社会の全体善に貢献するわけなので…。
■ 脳の仕組み
命がけでリードできるタイプの人は脳の仕組みがどこか通常人と違うのだそうです。
師匠の青木さんは、腰椎骨折でボルトが何十本も入っている大手術が必要な大事故の回復後でもインスボンリードできたし、その上、そのクライミングで再度墜落して、かかと骨折していましたが、それでもリード。もう、危険認知、という面で見るとスイッチがオフ状態だったのかも?ですが… そんな人でも、11とかいうショートではテンションですから。(時間が余ってショートもやった) 自分の限界はわきまえていました。
韓国人の人たちの話でも、インスボンでは登攀能力が高くてもリードする人としない人が分かれるのが当然という話でしたし… 韓国人と言えば、一般日本人が真っ青になる危険なクライミングスタイルの方たちです…アイスご一緒しましたが…1ピン目地面(笑)。なんじゃこりゃ?ってビレイです…。後ろに取るビレイヤーのセルフの代わりなのだそうです。
そんなんで、登っているアイスだから超危険ですが… 5級がず~っと続くという、やさしくて長ーい系アイスなので、落ちるわけない。ただ楽しいだけなのです。日本みたいに切り立っていて短い、という超危険アイスとはわけが違います。
易しくて長い=安全管理はおろそかでも登れる
短くて難しい=リスク管理をきちんとしないと即死亡事故
です。クライミングは地面に近いほど危険なんですよ?だから、高いほうが危険という一般人の誤解とは逆です。
そんなこんなで、私はアイス楽しいだけで、韓国のクライマーにも、上手に登るね~と言ってもらえた…ので、危険ビレイを見ても、自分に害が及ぶことがないなら、そんなに問題と思わないのです。
短くて難しい=危険、なのに、ボルト落ちれない系、だとやっぱり、ロシアンルーレットでしょう…。それはショートで落ちれないボルトって意味ですから… ショート=ラッペルで開拓されている岩場、ってことなので、そういう岩場では、基本的にはフリークライミングのルールに則ってボルトを打ってあるだろう、と想定されることになります。
がその想定と違うことが、事故多発を招いているとしたら、それは想定と違うことが誤りであるのではないかと思います。
■ 我慢、がその理由でした…
”そのボルトは現代的基準では、強度不足ですよ~”、
”そのビレイの立ち位置は、間違っていますよ~”、
その程度の指摘が、なぜ、「ありがとう~」と受け入れらないのか?
なかなか理解ができなかったですが…。
全否定されていると受け取っているらしいですね…。仏教用語で、我慢、というそうです。
つまり、自分の過ちを認められない、ということ。
ある人たちが、黒い点をめぐって議論になったそうです。豆なのか?虫なのか?
ジーとみていると、その黒い物体は動き始めたそうです。
それを見て、あ、虫だね~と決着せず、”動く黒豆だ!”と主張するのが我慢。
その物体が、飛び始めても、”飛ぶ黒豆だ!”と主張するのが我慢。
冗談みたいですが、ホントにそうならないようにしたいですよね!
■ TR課題のボルダー
ところで、昨日アップした北海道のボルダー画像、いきなり177ビューで、通常の10倍の視聴率ですが(笑)。
ボルダラーの皆さんも本音はトップロープで登りたかったってことなんですかね???
いや違う!と主張したら、それは 我慢、なのかも?
ボルダーにせよ、壁にせよ、ロープを出すか出さないかは、
(落ちたらどうなるか?)と(個人のスキル)によります。
ハイボルダーで命知らず自慢ができるのは、幼児のころからクライミングを始めて、クライミングが歩くこと並みに習熟している人の場合です。
一般の人だって、歩き始めは何度も転んで歩けないですが、大人になって、えっと、右出して‥左足出して…とやっている人はおらず、高度に自動化されているでしょう… それと同じことで、クライミングも考えないでも登れるくらいに自動化が完成されている、超・エリートの方たちは、ハイボルでノーロープやっていいと思いますが…。
なぜなら
(このレベルの登攀では落ちない)が、そういう人は自動判定できるからです。
一方、30代とか40代になってクライミングをスタートしたような人が、そういう人たちと、同じ基準で登る必要はありません。というか、それやったら、ただのアホです。
昨日は、ボルダラーで最強の小山田さんの開拓画像が回ってきましたが…試登はロープついていましたよ。
九州の人は知らないみたいなので掲載。
■ TR課題のボルダー
これ、いきなり577ビューで、通常の40倍の視聴率ですが(笑)。
ボルダラーの皆さんも本音はロープで登りたかったってことなんですかね???
ボルダーにせよ、壁にせよ、ロープを出すか出さないかは、
(落ちたらどうなるか?)と(個人のスキル)によります。
ハイボルダーで命知らず自慢ができるのは、幼児のころからクライミングを始めて、クライミングが歩くこと並みに習熟している人の場合です。
一般の人だって、歩き始めは何度も転んで歩けないですが、大人になって、えっと、右出して‥左足出して…とやっている人はおらず、高度に自動化されているでしょう…
それと同じことで、クライミングも考えないでも登れるくらいに自動化が完成されている、超・エリートの方たちは、ハイボルでノーロープやっていいと思いますが…。
なぜなら
(このレベルの登攀では落ちない)が、そういう人は自動判定できるからです。
一方、30代とか40代になってクライミングをスタートしたような人が、そういう人たちと、同じ基準で登る必要はありません。というか、それやったら、ただのアホです。
昨日は、ボルダラーで最強の小山田さんの開拓画像が回ってきましたが…試登はロープついていましたよ。
ここ数年ほど、長く考えていることは、
クライミングが、執着化いないか?
ということです。
クライミング愛というと、良い意味に取られるのが、西洋的捉え方ですが、東洋では愛は執着です。ですので、必ずしも良いものではないです。
本音を言うと、もうクライミングめんどくさすぎで、私の人生を豊かにするよりは、単にややこしくしているので、さっさと終わりたい、ということもあります…
ただやり終わっていない仕事があり、それが私の後ろ髪を引いて、終わるに終われない…
そんな葛藤の中に4年ほどいます。運動という意味では、バレエという別の趣味もあったので、バレエ天国の福岡にいることだし、復帰してみようかなとしたのですが、いつでも戻れるということを確認しただけでした… もう賞味期限が切れた趣味だった。
クライミングが、思い通りにならない、ってあるのだろうか…??? うーん…
思い通りに頼れるビレイヤーとの関係を築いた、という経験がないかもしれません。というのは、青ちゃんとの間では、私はあまりチャレンジをさせてはもらえなかったからです。
チャレンジという意味では、先輩の荒木さんが、小川山レイバックを初めて登らせてくれたことに落とし前をつけてくれたというか、赤のカムでのカム落ち練習や大堂海岸でのスーパークラックでの疑似リードなどをしてくれ、先輩として、きっちりビレイしてくれたなぁと思っています。いや~、三倉で入門クラックリード、あれはギリギリだったなぁ…。そんなこんなで、けっこうギリギリリードは、大安心の先輩のビレイで登らせてもらっているので、感謝。
疑似リードの量やカム落ち練習の量、あるいはムーブ習得にかかる時間、などは、
”質量的問題”
があります。この質量を本人に判断させるのが大事だと思います。
私の最初の師匠の鈴木さんも、私がトップロープで登っている様子を見て、アイスリードさせれると思ったみたいで、いきなりリードでしたが…リードが怖い人が、怖いと思っている理由は、怖くない人は、よく話し合って聞き取りしないと、思ってもいない理由です。
例えば、私は握力が弱いので、回収する側でもけっこう大変で、スクリュー残置したことががあり、リードで登るほうだったらなおさらだなと思っていました。効率を求めるマルチで、リードする場合には、アイスだとほとんどの時間のロスがスクリュー…スクリュー埋め込みに時間がかかるとそれだけで、パーティ全体のロス時間です…
そんなこんなで、スクリュー設置が楽になるギアを持っているおじさんと意気投合したりしていました…おじさん曰く、年を取ると、男性でも握力が下がってスクリュー打ちが大変になるのだそうです。
話がそれてしまいましたが、クライミングのどのようなスキル要素でも、
習熟に要する時間は人それぞれ
なので、その人それぞれの部分を個人のニーズに合わせないと、リスクが増えます。
スポーツクライミングなら、”クリップ動作”とか、あるいは、トラッドなら、”カム選択の素早さ”とか。カム設置、も熟練が必要です。その熟練はカムエイドで作る。
■ 慈悲
慈悲は愛の対立語です。
愛: 自分が起点
慈悲: 相手が起点
クライミング愛=自分がクライミングを愛している
慈悲で登るクライミング=クライミングに自分の働きが必要とされている
〇〇さんは、クライミング業界に必要な人材だ、という言い方をされている人がいましたが…その意見には私は疑問があるな…と感じる方でした。というのは、初登者の権利の主張ばかりが大きく、その文字数、もっとクライミング事故の削減にどうしたらよいか?などにつなげてほしいと思ったからです。
私が思うクライミング業界に必要な人材は、井上D助さんですね…。頑張ってほしいと思っています。
ですので、私の慈悲は、差別的、です(笑)。
私自身は、私がクライミングで理解したことをまとめてしまって、早く別の活動に本腰を入れたいと思っています。
というのも、クライミングが私の生活を豊かで、思い出深いものにしている、という風には最近は感じられないからです。子供クライミング体験を除いてですが…。
しかし、子供たちのクライミングも、気を付けないと、すぐコンペワールドになってしまいます。幼いうちはそれで良いと思いますが…心身の健全な発達のため、なので…それがユースが終わるころ、20歳ころになっても、自分の職業的な身の振り方が分からなくなると、やはり問題かなぁと思います。
大事なことは、クライミングで食べることではなく、クライミングを通じて、何を学び、どう魂を磨いたか?だと思います。
クライミングに限らずですが…、すべては、魂を磨く、その道具なのです。
頑張ったコメント
私は初めて出たアイスコンペ5位なのですが…がっかりな結果というか、コンペ向けに練習を切り替えたい時期に、師匠の青木さんがリード向けに切り替えたくなり、ちょうどコンペのタイミングで超慎重登りに切り替えることに…
青木さんとは、ホントに意思疎通がうまく行かないというか、私は最初からリード志向のクライマーだったのですが、なかなかリードさせてくれず、ストレスをため、リード練習をさせてくれないので、あきらめてトップロープでいいやと開き直ったとたんに師匠は、私に55m相沢大滝をリードさせたがるという…ほんとに、青木さん、相手を見ていないし、言葉で伝える、というのができない方でした(笑)ホントの事言ってごめんね、青ちゃん。
しかし、それでも私が5位でしょげていたとき、かけてくれた言葉はとても暖かいものだったので、別に5位しか取れなかった=挫折、にはなっていない…
指導は全然上手ではなく、登らせてもらうより、登らせてあげるほうが多いような師匠でしたが…大会後の言葉の掛け方だけは、
お父さんとしての経験
を感じました。
■ ブッダの教える素晴らしい人生にクライマーの人生が含まれるかどうか?
答えは、人による。
多くのクライマーは、ただのアドレナリン中毒に陥っており、そのことに無自覚であるので、体力が凌駕している間は大丈夫だが、それが裏返ったとたんに、オセロの白が黒に入れ替わる。
■ 冒険がある人生
冒険がある人生は、私は良きものと思える。
(冒険)と(無謀) には、明白な違いがあり、現代の指導者は、その違いをきちんと教えることができている人は、ほとんどいない。
分かり切っていることだが、”人工壁”、にも、”スポーツルート(ボルトルート)”にも、(冒険)はない。安全を担保されたクライミングだからだ。
では(冒険)はどこにあるのか?というと?
未知の事象を試す、ということだが… クライミング界にあるのか?というと、ない、かもしれない。
登山の歴史から、(冒険)が失われて久しい。
人類としてみたときに(冒険)は登山史上から、とっくの昔に姿を消した。が、個人史において、であれば、人は、どのような世界でも、自分にとっての未知を探求する限り、(冒険)を生きることができる。
ところで、海外に一人で気ままに登攀に行くことは、私にとっては、もはや(冒険)ではない。とっくの昔にやり終わったことだからだ。
例えば、他に、”仕事で頑張って成功を収める”も、私にとっては(冒険)では、もはやない。
”小川山に夏の遠征に行く”、とかも、当然(冒険)ではなく、(快適な逃避行)であるし、一人で岩場に行くも同じく、すでに(冒険)としての賞味期限は切れている…ほとんど(ノルマ)、か、(習慣)に属す行為だ。クライミングは、もはや習慣なんだよなぁ…。
何が自分にとって(冒険)に属す活動なのかなぁ…。
■(冒険)<(慈悲)
というか、そもそも(冒険)がある人生を素晴らしい人生と、ブッダは認めるか?というと、(冒険)より上位に(慈悲)が来るだろうと思う。慈悲があれば(冒険)にまつわる恐怖は乗り越えられる。
ということは、私はクライミングを(慈悲)として生きていれば、ブッダの考える良き人生を生きた人生になるのではないか?と思うが…。
今以上にクライミングに(慈悲)を注いだら…、今でも注いでいる心血は相当な量だと思われるが… (意味のある生き方)として、クライミングがある生き方を感じれるようになるのかなぁ…。
ものすごい心血を注いでいる事例として、井上D助さんが脳裏をよぎる…。なんだか報われておらず、気の毒すぎる感じだったよなぁ…。
私のクライミングの在り方は、(雑音)としての無知なクライマーたちの事件、に振り回されている、ようにも思えなくもない…。
雑音に振り回されなかったら、違う境地が発見できるのだろうか?
そこのところ、先達に聞きたい。
見えてくる景色がそんなに良きものではないのではないか…と最近は疑い中である。
日本の子どもミンダナオの子ども (3)
http://www.edit.ne.jp/.../mindanewsdaiaryfuture2021.html...
ミンダナオで再婚し、小学校の4年と5年の実の娘を育てているが、MCLで、親のいない子や崩壊家庭の孤児たち90名あまりといっしょに暮らしてきているせいか、娘たちは放っておいても実にのびのびとそだっている。
MCLにいると、「子育て」という言葉がへんに感じる。
「子育つ」というのが本当で、ちまたで遊び友情をはぐくむ体験があれば、子どもたちは自然にそだっていくものなのだ。
「子育ての責任は、家庭にある。特に母親の役割は大きい」などという言葉に、違和感を感じるのは、ぼくだけだろうか。
子育ての責任が、親や家庭にあるばあい、親がいなくなったり家庭が崩壊した子どもたちは、どのように育ったら良いのだろうか。
また、子育ての責任は、保育者や学校の先生にもある、という考え方も、ここでは奇妙に感じられる。
もしそうだとしたら、保育園にも学校にもいけず、教育もうけられない僻村の子たちは、育てられなかった子たちなのか!
先日、アジアの孤児施設をめぐっている日本の人たちが、MCLを訪れた。
曰く「ここの子どもたちは、本当に他の施設の子どもたちとちがいますねえ。
施設にいながら、こんな明るい子どもたちをみるのは初めてです。なぜこんなに明るいのかなあ?」
ぼく答えた。「ここは孤児施設ではないからですよ。」
ぼくは孤児院をつくろうとも、施設を運営しようともおもったことは無いし、他の施設をほとんど知らない。
ただ、困難な状況にある一人一人の子どもたちをみるにつけて、放っておけない、何とかしたい・・・。
そんな思いで活動してきたら、自然とこんな形になってしまった。
もちろんここには、母親役のスタッフたちもいるが、彼らとてもとは奨学生で、必要なときには、助言や指示をあたえるものの不必要な干渉はしない。
子どもたちのとって大切なのは、愛をもって見まもり、ときどき抱いてあげたり愛情のある言葉を、かけてあげること。
そしてなによりも大切なのは、自由にのびのびと遊べる環境をととのえてあげ、将来の夢をもてるように導いてあげることだとつくづく思う。
まるで機関車が煙を噴いて走りぬけるように、高度成長期をひたすら走りつづけてきた人々は、成長期がとまり、老齢化して、自分の事は自分で出来なくなり始めると、落ちこむどころか精神的にパニックをおこしはじめる。
「日本で自殺が多いのは、個人主義が行き過ぎたからでは無いだろうか」と、マニラの修道士が話してくれた。
「個人が尊重され過ぎる競争優先の社会では、協調の心がうしなわれて孤独な人が増えていく」
自分の力で走れなくなった老人は、施設のベッドにしばりつけられたまま死をまつ以外に方法はないのだという。
それもお金があればの話で、一人暮らしの孤独死も多いのだそうだ。
ミンダナオでは、MCLでも同様だが、上のお姉ちゃんが下の子に、「ねえ、そこのお店でお塩をかってきてちょうだい」といえば、たとえ夢中で遊んでいる最中でも、下の子はさっとたちあがり、明るい笑顔で、「はい」といって買いにでかける。
お姉ちゃんがいったことに、下の子たちは笑顔でこたえ、ちっともいやな顔をしないのは驚きだ。
そのかわり、お姉ちゃんは、きちんと下の子の世話をしてめんどうをみる。
もちろん、お年寄りを一人孤独にほうっておくなど考えられない。
妻のエープリルリンのおじいさんもおばあさんも、当時まだ小学生だった彼女の膝のうえで亡くなった。
日本の子どもミンダナオの子ども (3)
http://www.edit.ne.jp/.../mindanewsdaiaryfuture2021.html...