2021/05/28

ブッダの教える素晴らしい人生

■ ブッダの教える素晴らしい人生にクライマーの人生が含まれるかどうか?

答えは、人による。

多くのクライマーは、ただのアドレナリン中毒に陥っており、そのことに無自覚であるので、体力が凌駕している間は大丈夫だが、それが裏返ったとたんに、オセロの白が黒に入れ替わる。

■ 冒険がある人生

冒険がある人生は、私は良きものと思える。

(冒険)と(無謀) には、明白な違いがあり、現代の指導者は、その違いをきちんと教えることができている人は、ほとんどいない。

分かり切っていることだが、”人工壁”、にも、”スポーツルート(ボルトルート)”にも、(冒険)はない。安全を担保されたクライミングだからだ。

では(冒険)はどこにあるのか?というと? 

未知の事象を試す、ということだが… クライミング界にあるのか?というと、ない、かもしれない。

登山の歴史から、(冒険)が失われて久しい。

人類としてみたときに(冒険)は登山史上から、とっくの昔に姿を消した。が、個人史において、であれば、人は、どのような世界でも、自分にとっての未知を探求する限り、(冒険)を生きることができる。

ところで、海外に一人で気ままに登攀に行くことは、私にとっては、もはや(冒険)ではない。とっくの昔にやり終わったことだからだ。

例えば、他に、”仕事で頑張って成功を収める”も、私にとっては(冒険)では、もはやない。

”小川山に夏の遠征に行く”、とかも、当然(冒険)ではなく、(快適な逃避行)であるし、一人で岩場に行くも同じく、すでに(冒険)としての賞味期限は切れている…ほとんど(ノルマ)、か、(習慣)に属す行為だ。クライミングは、もはや習慣なんだよなぁ…。

何が自分にとって(冒険)に属す活動なのかなぁ…。

■(冒険)<(慈悲)

というか、そもそも(冒険)がある人生を素晴らしい人生と、ブッダは認めるか?というと、(冒険)より上位に(慈悲)が来るだろうと思う。慈悲があれば(冒険)にまつわる恐怖は乗り越えられる。

ということは、私はクライミングを(慈悲)として生きていれば、ブッダの考える良き人生を生きた人生になるのではないか?と思うが…。

今以上にクライミングに(慈悲)を注いだら…、今でも注いでいる心血は相当な量だと思われるが… (意味のある生き方)として、クライミングがある生き方を感じれるようになるのかなぁ…。 

ものすごい心血を注いでいる事例として、井上D助さんが脳裏をよぎる…。なんだか報われておらず、気の毒すぎる感じだったよなぁ…。

私のクライミングの在り方は、(雑音)としての無知なクライマーたちの事件、に振り回されている、ようにも思えなくもない…。

雑音に振り回されなかったら、違う境地が発見できるのだろうか?

そこのところ、先達に聞きたい。

見えてくる景色がそんなに良きものではないのではないか…と最近は疑い中である。