日本の子どもミンダナオの子ども (3)
http://www.edit.ne.jp/.../mindanewsdaiaryfuture2021.html...
ミンダナオで再婚し、小学校の4年と5年の実の娘を育てているが、MCLで、親のいない子や崩壊家庭の孤児たち90名あまりといっしょに暮らしてきているせいか、娘たちは放っておいても実にのびのびとそだっている。
MCLにいると、「子育て」という言葉がへんに感じる。
「子育つ」というのが本当で、ちまたで遊び友情をはぐくむ体験があれば、子どもたちは自然にそだっていくものなのだ。
「子育ての責任は、家庭にある。特に母親の役割は大きい」などという言葉に、違和感を感じるのは、ぼくだけだろうか。
子育ての責任が、親や家庭にあるばあい、親がいなくなったり家庭が崩壊した子どもたちは、どのように育ったら良いのだろうか。
また、子育ての責任は、保育者や学校の先生にもある、という考え方も、ここでは奇妙に感じられる。
もしそうだとしたら、保育園にも学校にもいけず、教育もうけられない僻村の子たちは、育てられなかった子たちなのか!
先日、アジアの孤児施設をめぐっている日本の人たちが、MCLを訪れた。
曰く「ここの子どもたちは、本当に他の施設の子どもたちとちがいますねえ。
施設にいながら、こんな明るい子どもたちをみるのは初めてです。なぜこんなに明るいのかなあ?」
ぼく答えた。「ここは孤児施設ではないからですよ。」
ぼくは孤児院をつくろうとも、施設を運営しようともおもったことは無いし、他の施設をほとんど知らない。
ただ、困難な状況にある一人一人の子どもたちをみるにつけて、放っておけない、何とかしたい・・・。
そんな思いで活動してきたら、自然とこんな形になってしまった。
もちろんここには、母親役のスタッフたちもいるが、彼らとてもとは奨学生で、必要なときには、助言や指示をあたえるものの不必要な干渉はしない。
子どもたちのとって大切なのは、愛をもって見まもり、ときどき抱いてあげたり愛情のある言葉を、かけてあげること。
そしてなによりも大切なのは、自由にのびのびと遊べる環境をととのえてあげ、将来の夢をもてるように導いてあげることだとつくづく思う。
まるで機関車が煙を噴いて走りぬけるように、高度成長期をひたすら走りつづけてきた人々は、成長期がとまり、老齢化して、自分の事は自分で出来なくなり始めると、落ちこむどころか精神的にパニックをおこしはじめる。
「日本で自殺が多いのは、個人主義が行き過ぎたからでは無いだろうか」と、マニラの修道士が話してくれた。
「個人が尊重され過ぎる競争優先の社会では、協調の心がうしなわれて孤独な人が増えていく」
自分の力で走れなくなった老人は、施設のベッドにしばりつけられたまま死をまつ以外に方法はないのだという。
それもお金があればの話で、一人暮らしの孤独死も多いのだそうだ。
ミンダナオでは、MCLでも同様だが、上のお姉ちゃんが下の子に、「ねえ、そこのお店でお塩をかってきてちょうだい」といえば、たとえ夢中で遊んでいる最中でも、下の子はさっとたちあがり、明るい笑顔で、「はい」といって買いにでかける。
お姉ちゃんがいったことに、下の子たちは笑顔でこたえ、ちっともいやな顔をしないのは驚きだ。
そのかわり、お姉ちゃんは、きちんと下の子の世話をしてめんどうをみる。
もちろん、お年寄りを一人孤独にほうっておくなど考えられない。
妻のエープリルリンのおじいさんもおばあさんも、当時まだ小学生だった彼女の膝のうえで亡くなった。
日本の子どもミンダナオの子ども (3)
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