ここ数年ほど、長く考えていることは、
クライミングが、執着化いないか?
ということです。
クライミング愛というと、良い意味に取られるのが、西洋的捉え方ですが、東洋では愛は執着です。ですので、必ずしも良いものではないです。
本音を言うと、もうクライミングめんどくさすぎで、私の人生を豊かにするよりは、単にややこしくしているので、さっさと終わりたい、ということもあります…
ただやり終わっていない仕事があり、それが私の後ろ髪を引いて、終わるに終われない…
そんな葛藤の中に4年ほどいます。運動という意味では、バレエという別の趣味もあったので、バレエ天国の福岡にいることだし、復帰してみようかなとしたのですが、いつでも戻れるということを確認しただけでした… もう賞味期限が切れた趣味だった。
クライミングが、思い通りにならない、ってあるのだろうか…??? うーん…
思い通りに頼れるビレイヤーとの関係を築いた、という経験がないかもしれません。というのは、青ちゃんとの間では、私はあまりチャレンジをさせてはもらえなかったからです。
チャレンジという意味では、先輩の荒木さんが、小川山レイバックを初めて登らせてくれたことに落とし前をつけてくれたというか、赤のカムでのカム落ち練習や大堂海岸でのスーパークラックでの疑似リードなどをしてくれ、先輩として、きっちりビレイしてくれたなぁと思っています。いや~、三倉で入門クラックリード、あれはギリギリだったなぁ…。そんなこんなで、けっこうギリギリリードは、大安心の先輩のビレイで登らせてもらっているので、感謝。
疑似リードの量やカム落ち練習の量、あるいはムーブ習得にかかる時間、などは、
”質量的問題”
があります。この質量を本人に判断させるのが大事だと思います。
私の最初の師匠の鈴木さんも、私がトップロープで登っている様子を見て、アイスリードさせれると思ったみたいで、いきなりリードでしたが…リードが怖い人が、怖いと思っている理由は、怖くない人は、よく話し合って聞き取りしないと、思ってもいない理由です。
例えば、私は握力が弱いので、回収する側でもけっこう大変で、スクリュー残置したことががあり、リードで登るほうだったらなおさらだなと思っていました。効率を求めるマルチで、リードする場合には、アイスだとほとんどの時間のロスがスクリュー…スクリュー埋め込みに時間がかかるとそれだけで、パーティ全体のロス時間です…
そんなこんなで、スクリュー設置が楽になるギアを持っているおじさんと意気投合したりしていました…おじさん曰く、年を取ると、男性でも握力が下がってスクリュー打ちが大変になるのだそうです。
話がそれてしまいましたが、クライミングのどのようなスキル要素でも、
習熟に要する時間は人それぞれ
なので、その人それぞれの部分を個人のニーズに合わせないと、リスクが増えます。
スポーツクライミングなら、”クリップ動作”とか、あるいは、トラッドなら、”カム選択の素早さ”とか。カム設置、も熟練が必要です。その熟練はカムエイドで作る。
■ 慈悲
慈悲は愛の対立語です。
愛: 自分が起点
慈悲: 相手が起点
クライミング愛=自分がクライミングを愛している
慈悲で登るクライミング=クライミングに自分の働きが必要とされている
〇〇さんは、クライミング業界に必要な人材だ、という言い方をされている人がいましたが…その意見には私は疑問があるな…と感じる方でした。というのは、初登者の権利の主張ばかりが大きく、その文字数、もっとクライミング事故の削減にどうしたらよいか?などにつなげてほしいと思ったからです。
私が思うクライミング業界に必要な人材は、井上D助さんですね…。頑張ってほしいと思っています。
ですので、私の慈悲は、差別的、です(笑)。
私自身は、私がクライミングで理解したことをまとめてしまって、早く別の活動に本腰を入れたいと思っています。
というのも、クライミングが私の生活を豊かで、思い出深いものにしている、という風には最近は感じられないからです。子供クライミング体験を除いてですが…。
しかし、子供たちのクライミングも、気を付けないと、すぐコンペワールドになってしまいます。幼いうちはそれで良いと思いますが…心身の健全な発達のため、なので…それがユースが終わるころ、20歳ころになっても、自分の職業的な身の振り方が分からなくなると、やはり問題かなぁと思います。
大事なことは、クライミングで食べることではなく、クライミングを通じて、何を学び、どう魂を磨いたか?だと思います。
クライミングに限らずですが…、すべては、魂を磨く、その道具なのです。