2022/04/11

希死念慮、恐怖による副腎疲労、トラウマの再発の三重苦

 ■ 最近、やっと自分に起こったことが正しく評価できるようになってきました

これは今日の仏教説話です。


この7つの習慣ならぬ、8つの習慣に倣えば、クライミングといういばらの道も安全に進んでいけるかもしれません。

■ パートナーに殺される可能性

一つの可能性は、当然ですが、ビレイで落とされる、というものです。

別の可能性は、したくないリードを強いられ、したくない墜落をさせられ、落ち方が不味くて、怪我、もしくは事故になる、というものです。

さらに別の可能性は、マルチに行って行動不能となるということ…。事例としては、ロープアップされない。敗退不能。敗退を想定しない、まずい山行計画によるもの。

そのどれも全部が、起きたのでした。

頼りにしている経験豊富なクライマー=一番頼りにならない、という図、でした。

そのプロセスを用心していると思っている中でも、踏まねばならず、しかも、コントロール可能だと思っていたことがコントロール不可能だったので…

■ 恐怖の長期化=副腎疲労=希死念慮

おそらく私は、長年の恐怖による副腎疲労に陥って行ったのだと思います…何しろ、希死念慮が起こるようになっていました。

これはおかしい…と気が付き、どれほど、精神的負担にクライミングがなっていたのか…気が付きました。

というのは、クライミングをしない、行かない、ということに決めたら、かなりスッキリしてきたからです。

膝の怪我が良くならない…ということは、栄養学的な理由以外にも、ありそうでしたが、私の本音としては、本当に、怪我している体で、限界をプッシュする登りを強要されなくなってホッとしたというか…。

■ 子ども時代の再演

誰かの見栄のために、”登れるヤツ”にならないといけないなんて…、親のメンツのために、”成績優秀な子供”を演じさせられて疲れた子供時代の再演、です…。”自分のための人生”なのですから、それだけは避けたい。…のに、コントロールを受ける側に立っていました。まさに再演。

断っておきますが、強要、というのは、言葉で明示されなくても可能です。子供時代も、”良い子にならないと愛さない”と言葉にする親は稀です。そういうことをしなくても、自分の登りたいと言っていないルートを当然のようにロープを渡されるとか、隣のクライマーと比べられて、テンションを入れたら、ため息つかれるとか、はあ?と言われるとか、そういうことが、すべて、強要、なのです。

ただし、そう他者に対してする人は、されてきた人ですから…。相手も気の毒で、これは連鎖なのです。ですので、相手の恐れていることは、意気地なしであるとけなされることです。

■ 弟のこと…見捨てられない

しかも、その構造からもがいても、もがいても、脱出できない…というのは、弟のことがあったからです。

私は若い時に弟を亡くし、弟を守り切れなかったという後悔が残っています…。見捨ててはいけない…みたいな感じ。

さらにその上に、男尊女卑の思想の強固さへの衝撃的な目撃事件が重なりました…どうも、こちらでは、男性は女性が自分の欲求のために人生を捧げることを当然視しているようなのです…。

私自身はどう考えても、夫の食事を作ることが妻の幸せとは思えないし、夫の定年まで自分のしたいことができない人生が妻としての女性としての当然の生き方とは思えないのです。

残念ながら…。というわけなので、クライミングを捨てる以外は、この自己犠牲の道から逃れる方法がないような感じでした。

死をもってして相手に間違いを示すまで、誰も愚かさに気が付かないどころか、たぶん、死をもってしても、気が付かない、そこまでクライマーの死は軽くなっていそうでした。

最近、この構造がすっかり理解できたので、段々と心も軽くなってきました…。いや~恐怖体験でした…誰も私が恐怖で悲鳴を上げているのに、それが分からないどころか、それを笑ってみているのです…。

■ トラウマ

それは… 父親のにやにやした顔です。

3歳のころ父親に”子供は教えなくても泳ぎ方を知っている”という理由で、プールに突き落とされ、溺死しかけた私を見ている父親の顔です… わざと私を瀕死の危機に着き徒としているのに、助けるどころか、にやにやしながら見ているのです…。

まさにこのトラウマの再演が、私の九州クライミングで起きたことです。