■発達障碍者支援について
クライミングの師匠がADHDだったり、私の次のパートナーも多動だったりし、また私を落としたクライマーも発達障害っぽい人だったりしたので、発達障害×クライマーの問題は深刻そうだと思って学習しています。
どうも、「俺は支援されて当然だ」という感じが強かった…のは、周囲に合わせてもらう時間が長かったのでしょうか…。私は子供のころから、めちゃ定型発達というか…クラスの遅れている子をカバーする立場だった…ので、この人と一緒なら大丈夫、という匂いというか、そういうのがあったような気がします。頼られるということです。
現代の発達障害の支援は、
定型発達の側が、発達障害の困り感をどれだけ理解し支援できるか?
という対策に尽きる感じがあります。人間同士の”共感”というのは、同質性 に起因するそうです。
つまり男性は男性に共感し、女性は女性に共感するって感じ。おおざっぱに言えば。
発達障害の人は、人口の1%程度だとすると、共感されにくいです。クライミングの中では女性は5%程度だと思いますが、女性の立場からみた客観的な事実は、いくら事実であっても、
俺はそうは思わない
の一言で却下されてしまいます。そりゃそうです。自分は手が届くでしょう…
例えば、リーチがないためにホールドに届かないというような、そのような明らかに客観的な事実であっても…です。
■ クライミング界は、過去の数の普通ではなく、多くの人を迎え入れる方に動いている
つまり、現在起っていることは、数の暴力、ということです。マジョリティは困っていないという根拠で問題が改善されない。
しかし、世界では、子供たちが5.13を登り始め、リーチの問題やボルト間隔が不適切である問題は認知されています。
■ 田舎との類似性
そして、マジョリティの数による暴力で正当性を得てきたのが日本の田舎の思想。
間違ったことでもみんながやっているとやめられない… たとえば、田んぼの害虫ウンカに対する防除は、日本に来る頃には薬剤耐性をつけて飛来しているので、やっても無駄、って専門家が言っても、言っても、となりもやるから、うちも…という精神構造を辞められないです。
まったく客観的事実に基づかない、非科学的な態度で、物事を受け入れてしまっているっていう結果になるのですが、それに対して、みなが
そういうもんだ、仕方がない
とあきらめるというのが、なんとも言えない無力感というか、脱力感です。
九州は特にそれが顕著で、まぁ山梨でも同様の点は散見したのでしたが…それでもそうでない移住組の世界もありました。九州では移住者は肩身が狭いようで、なんだか、私のうんざり感を募らせます。
合理的客観的事実に基づく判断こそ、仏教が説いているものです。
これは、なぜ科学的根拠がないことも右へ倣えこんなことになるのかな?という疑問に対してのある人の答えです。 私がこうかもしれないと思うだけでなく、誰でもそう思うかもしれません…