2022/12/30

山での死を仏教的に理解する

■ もう頑張ってる

クライミングで、頑張れ、と言われるのが嫌でした。

なぜなら、すでに120%、頑張っており、これ以上、頑張れば、死に至るのではないか、特に、わざと危険なことを冒して粋がって見せるのがクライミングだと考えている人たちの同調圧力に負けて、40年もののカットアンカーでバンバン落ちながら登るのは、死へ至る近道である、と私の知性がいうから。

しまいには、過去のトラウマまでフラッシュバックしてきていました… 父にプールに突き落とされた3歳児の記憶が突然よみがえっていました…

50歳になれば、もう、誰からも頑張れ!と言われないと思って(笑)、ホントにやっとゴール!と思って、ホッとしたんだが…、マウンテンバイクのほうで、あらー、積み上げた体力貯金がなくなっているね~!ということで、ちょっと残念です。

■ 期待に沿っても反発しても影響

周囲の期待(=同調圧力)に振り回されていたんだな~と振り返る。

自分を変えさせられることによって関係を維持しなくてはならないくらいなら、その関係は、Toxicである、と思う。

私は十分、母や先生の承認欲求のために子供時代をささげたので、もはや、誰かの承認欲求のために生きていたくはなく、自分に由って生きていきたい。

自分に由ることを自由という。自分に由ること、自分のせいであることを自己責任、という。

甲府時代は、アンダーエスティメイト(君には出来ない)で自由を阻害され、福岡時代はオーバーエスティメイト(こんなこともできないのか)で自由を阻害されている。

クライミング界では、自己責任でしょ、の言葉を、自分勝手におれはしていい、けが人を放置していい、ビレイを交代しなくてもいい、破談寸前のボルトだと相手に知らせずに、相手を登らせてもいい、という意味に使っていたりします。

それ、無責任って意味ですよね?むしろ…


■ 他者との同調=教育の日本社会

他人によって生きることを是、とされ、それができることを”大人”とされることを、スマナサーラ長老は、ロボット化、と言う。つまり、教育。

教育は、ロボットのプログラムをプリインストールしようとしている、と言う。特に日本の教育はそうでないか?と思う。胎教なんて最悪のようですね。

■ 深い共感が癒しをもたらす

今日は、長老に深く共感されたことがどんなに大きな癒しだったか、ということがしみじみと感じられた。

そして、弟が死んだということが、なんだか自分の喪失、として初めて感じられた…

■ いい加減なリスク管理での死について

クライミングや山でも、

 いい加減な考え

のために、人はポロポロ死んでいるんだが、

 その人たちの命の価値が軽いのが切ない、

教えてやらねば!と思っていたが、それは

 私の仕事ではない

ことが分かった。

そう考えてしまったこと自体が、事故↓だったんだということだ…



そのような業を背負って生まれてきた人たちなのだ…ということが、仏教を聞くようになって分かるようになり、またどうせすぐ転生するんだろうな~と思うようになった。

互いを思いやるような関係性をクライミングで築き上げなかった人たちや、自分の今世の課題を前に進めなかった人は、たぶん、何万回も生まれ変わる業を積み上げているので、逆に言えば、永遠の命があるのと一緒のことになる。
 

ので、山での死については、そこまで悲しむ必要はないようです。彼らは、山で死にたい(それがカッコイイ)とすら思っているかもしれませんね。

それよりも、永遠にそれを繰り返して転生するのだろう…と見える

 山好きという業の、力強さ

にすごくびっくりしています。山に登ることを、まるで100%良いことのように肯定するのが世間の見方ですが、それは正確ではありませんね。山で不幸になっている人もいます。

アドレナリンジャンキーだったり、家庭が壊れたり、辞められない止められない状態の方とか…

一般に山が好き!というのは、非常にポジティブに受け取られていると思いますが、仏教的には、それは、単なる

 渇愛

です。それも、異常な方に入る。現在は山ブームで、異常渇愛、もよく中身を見れば、ただ

 みんなと同じことをしたいという同調圧力への降参つまり、ミーハー

あるいは

 名誉欲

ってことが多いです。幸福とバランスよく生活に取り入れましょう。

■ 参考 仏教における死

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 コラム|智慧の扉「死を想うことは精進の原動力」(2021年1月号)
 みな人生の計画を立てますが、誰の計画にもひとつだけ「死」という確実な予定は含まれていません。生きていることが暗黙の前提で人生の計画を立てているのです。しかし、実際にはどこを見ても死が見えます。物事が壊れていく(変化する)ことは、毎日・秒ごとに見えています。それなのに、人間は死について、あり得ないことだと思っています。私たちが築いてきた社会・知識・政治などすべては、死という現実が存在してはいけないものであるかのように振る舞っているのです。日常的に死と隣り合わせの医学でさえ、死を避けるための知識体系になっているのです。医学は人を生かすための学問であって、死は最大の仮想敵になっています。
 仏教では、このアベコベな人類の生き方を転換するために、「死は確実な現実である」とくりかえし確認することを推奨するのです。そのためにお釈迦様が提案しているのは、死をシミュレーションすることです。具体的には、「死ぬとき私の心はどうなっているだろうか?」と考えるのです。そうすると、まだ貪瞋痴が残っていることを発見できます。貪瞋痴の心で死んでしまうと最悪です。そこで「いつ死ぬかわからないのだから、とにかく心の汚れを落とさなくてはいけない」と修行に励む原動力とするのです。

ですから、「死」という確実な現実を認めることが、超越した心に成長するため欠かせない原動力となると憶えておいてください。死を想うことは、心に安穏をもたらし、人生を成功に導く秘訣なのです

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