■ 今世の課題
仏教的には、今世は、肉体という制限を得て、その制限の枠の中で何ができるか?ということを確認しているのが人間界の在り方なので、失敗しても次ちゃんとできればいいか…と捉えて、命に執着していないことは、非常に仏教的なことのような気がしますね。クライミングで阿羅漢になったのかなぁ…山野井さん。
私は、男子の粋がり、とか、クライミングについての無知、とか、こちらの親切心に付け込んだ俺さえよければパートナーはどうでもいい、というような低レベルの感情で、私の命が絶たれる羽目になるのは、今世の命の無駄遣い、だと思いました。命への冒涜、です。
そんな無駄遣いをしたら、仏教徒の場合は、次は人間界には生まれないかもしれないです。 例えば、初めて三つ峠に行って、いや簡単だというので、ロープ出すのを端折って、落ちて死んだ、という若者とか、人間界に生まれないかもしれません。一方的に喰われるだけのもの…動物…に生まれ変わる可能性が強い気がしますね。
阿弥陀北稜に大学山岳部で行って遭難して死んだとか…は、次の生では、執念深く記録的登山に向う人に生まれるかもしれませんが…。死んだときの気持ち次第ですかね…。業、カルマというのは、量子力学的なエネルギーで、念と言ってもいいかもですが、人が持って生まれるものです。
ジョン・ロスケニーさんは、こちら。 https://en.wikipedia.org/wiki/John_Roskelley
■ 喜びが半減
単独行について、誰かと行くと喜びが半分になるとおっしゃっていましたが、私の台湾単独クライミングとかはそうですね…。大体の人が海外岩場に連れて行っても、こちらが世話を焼く側になるので、自分の山の喜びが削減されちゃうので、誰かと行きたくないって感じなのです。
最初は連れてってもらっってホントに良かったなって思ったインスボンも、なぜか最後は引率のお母さんみたいな感じでした…(涙)。アダルトチルドレンであることで自己責任率200%になってしまうのは、私の精神的な欠落かなと思っていましたが、山野井さんも同じような半減するのが嫌だという気持ちになることがあるそうなので、人間力で劣る私がそう考えても、仕方ないよねと思いました。
シルヴィア・ヴィダルさんはこちら。https://youtu.be/5SHphKS2ILs
沢登りでルートファインディング力をつけるというのは、あっているみたいですね。
■ 質問力があるインタビュアーがいない
Q)若い人を応援したい気持ちはあるか? → A)応援しなくていいんだと思います、やりたいクライマーは突き進むんです。
無理やり登らせなくていいんで、応援っていうのも、どうしたもんかと思いますよね…。
”大体、登りたいです、教えてください”とか言ってくるクライミング歴2年で5.12登れますっていう新人クライマーが、トポも見ていないって、どういうことなんでしょうかね? ほんとに登りたいのか!?って感じだよ。
この動画では、せっかく偉大なクライマーに質問ができるのに、なかなか的確な質問ができる人がいないってことが分かりました。
■ リスクに敏感=集中力
偉大なクライマーが偉大たる理由は山の様子(リスク)に気を配るのが、ものすごく得意だから、ということでした。
私も同じで、このまま歩くと夜になるとか、おかしいなホントは左から沢の音がしないといけないのに、なんで右からするんだろう?とか、みんなより早く気が付いてしまいます。
山野井さんは集中力と言っていましたが、私も一人で歩くのが好きなのは、そういうリスクに集中を途切れさせないで、気を配っていれるからで、おしゃべり登山者とかと行くと、おしゃべりに付き合わされるので、アブナイ… 道を踏み外す。
オジサンと行くと一方的に聞き役しながら、あ、こっちですよ、とか言わないといけなくなるので、これもなんだか…というので、一人で歩くのが好きです。体重の重たいおじさんが私の後ろで転ぶと私は突き飛ばされる可能性があるので、男性は登りは私の前で、下りは私より先行でお願いしたいです。
ともあれ、集中力があるという言い方をすると、ポジティブに受け取ってもらえそうですね(笑) 。
■ 山野井さんらしい山 = バフィンアイランド
またバフィンアイランドのほうが山野井さんにとっては、かなり重要な冒険だったことがうかがえました。
ピオレドール賞を受けても、フランスへ招かれて行っても、なんかインタビューに答えないといけないというのが、ノルマちっくで、ちょっとお気の毒な感じもしました。