考えられる理由のリスト。
1)知識が豊富すぎ、未来が予見できるため、興味関心がもはや薄い
2)もはや、それが実現したいことではない
3)実現できたとして、それが価値あることとは、もはや感じられない
4)自分にとって良い出来事なのか?不明
5)夢を実現させたが、幸福にならなかった経験がある
である。
どれも、自分の心に問うようなことであり、そうであれば、やって見なければ分からない、というのが実際のところだ。
以下、心が疲れていることの解析。
■ 愛着の対象をコロコロ変える?ことにお疲れ中?
長引く転勤で、いらだったのは、愛着の対象…壮年期の女性の場合、それは、
家庭づくり
だと思うが…を、毎回、作り上げた、その愛着対象を取り上げられるので、いらっちスイッチが入っているということは確かなことだろう。しかも、自分が十分満足した、というタイミングではなく、え?やっと作り上げたのに?みたいなタイミングで取り上げられる。
その喪失感から、毎回、回復しなくてはならないのだ。
私にとっては、家庭を作る、家族をスタートする、ということが、最初の希望だったわけだが、それらは、2度の流産で失脚?した。
その後、山梨でのヨガでの生徒さんたちが、その地位にあった。私の、作り上げたもの、ということだ。良い雰囲気のクラスだった。
さて、それを喪失させられ、ここ最近、6年はクライミングによる地域おこし、が入ってきた、というのは、否めない。
このブログでも度重なる思考を重ねている。
■ 女性の愛着の対象
愛着の対象が、家庭や家族、なのが女性なのである。これは、ヨガ講師時代にアーユルヴェーダで学んだ。
最近、メンタルだいぶ調子よいが…その理由は、自分の愛着の対象が、大阪の家になって、結局、”今のところ感”がなくなってきたからだ。
福岡の賃貸の家に住んでいても、バカ高い賃料を取られるだけで、何もいいことがない。家もう一個ローン組めるくらいの高額家賃を払って、自分の家はもぬけの殻とは…。
それはただの愚痴であろうが、さりとて、経済的に、非搾取的な立場を度外視しても、転勤生活は落ち着かない。
今か、今かと、いつその地を離れるか、という気分で暮らすことになる。
そもそも、そこに居たいから、居るのではない、というのも、重要な点だ。
■ アメリカは行きたいから行った
私の青春は、間違いなく、アメリカにいた2年である。で、居たいから居た。
生活は、かつかつで大変だったんだが、それは、私が英語が話せるようになることを優先して、週に2日しか働かないという選択肢を取っていたせいだ。人のせいではない。自分自身の選択の結果。5日は、ずっとカフェで本を読んで、周りのおじさんに英語を手伝ってもらう生活をした。
先日、伊藤貫さんの話を聞いていたら、高校生あたりから、私と全く同じような生活をしていらしたらしくて、驚いた。
というのも、学校の勉強、退屈だったんですよね。母校熊本高校はトップスクールなので、放任で、授業自体も2年生の夏ごろには教科書終わってしまい、あとは自分たちで受験に必要な勉強しなさい、みたいな感じなので、学校には行かないでも済んでしまった…ので、大体、図書館で自習するために、学校は存在する、みたいな感じだった。
その後の生活も、学校の図書館や自習室が、カフェに置き換わっただけで暮らしている。
きちんと専門書が読めれば、それで私は幸せなようなのだ。
現在の生活も、同じようなもので、どうやって勉強するか?みたいなところが、私の生活の中心だ。
結局、身体技法系の知識というのは、ヨガの知識や整形外科の知識、栄養学の知識だが…、ずっと同じ姿勢で勉強していたら、体がこわばるから、みたいなところが実際だ。
というので、本来、私はクライミングよりも、勉強しているのが好きなのらしい…。だが、ずっと勉強し続けるにも、ヨガマットや山での散策は必要だ。
■ 行動リスト
1)しばらく引っ越してみる
2)2週間の瑞牆くらし
意外に癒される。カラードカーネーション。やっぱり活けるセンス次第なのだ。