2024/04/21

【クライマーの自立教育】一人の”聖人”に永遠にたかり続ける戦法の日本社会

 

■ 瑞浪

朝一発目に入ったFBの話題が瑞浪だった。

いや~、トイレ問題、超・大変そうでした。気の毒で見ておれません。

グランドフォールの事件の処理(搬送・経緯)も書かかれており、まるで管理人みたいになっている新聞記事にもある、伊藤さんは、本当に大変そう…

この記事を読んで、九州人が私に押し付けようとした役割はこれだ…と思いました。

■ 責任転嫁、持ち上げているけど、実際は嫌なことを全部一人に背負わせているだけ

私は、伊藤さん役をやりたくもないのに押し付けられそうになっていた…と思う。

そのことに途中で気が付いた。

なぜなら、私には、日向神は遠く、地元でも、何でもないのに、管理者の紹介があったからだ。ただのビジターであるのに。

例えば、見晴らし岩、油山川の岩場の話なら、分からないでもない。開拓者の米澤さんと私は懇意にしていたからだ…

しかし、日向神は…。

その岩場で何一つ、楽しんでもいないし、何のつながり…絆を感じられるような良い出来事もない。ただ脅されて、こんなのも登れねーのか?みたいな挑発的な扱いを受けただけだ。

さらに言えば、問題の火元になっている開拓者を紹介され…Yさん、なに?私が彼のメンタルトイレなわけ?という感じだった。

しかも、そのYさんは別の開拓者のHさんは犬猿の仲でいがみ合っており、その渦中に放り込まれそうな気配があった。いや~ほんと、リスクを察知した。私は利用されそうになっていたと思う。

というか、実際、利用されたと思う。問題の開拓者に進められて登った大蛇山が、直後にリボルトになった件だ。リボルト対象になる課題をクライマーに登るように薦めるなど、おかしい。

なぜ、トイレ問題解決係、レスキュー係、苦情処理係を、外部から来た人に求めようと日向神勢はしたのだろうか?

そこんとこが、超謎。の出来事だったよなぁ…

私はうまく被害者にならずに済んだわけであろう…

子供時代、私の家事労働力にフリーライドして、生活した家族たち…それをお断りし、各自自立をお願いすると、私をわがままと誹謗中傷した家族たち…を思い出した。

自分で自分の食事を作るのは、自己責任である。

自分で自分の洗濯物を洗うのは、自己責任である。

自分で自分の栄養管理するのも、自己責任である。

仮に、私が家族への家事労働奉仕のために、進学できなくなったら?それは私の自己責任になってしまうのである。

いくら、家族が「やって~」とピーピー泣いても、彼らは彼らの自己責任を全うしないといけない。

それは私の仕事ではない。

いくら”儒教”が、”家族でしょ!”が、私を苦しめても、それに屈するわけにはいかない。

同様に

クライマーが自分のうんこを処理するのは、自己責任である。

クライマーが事故を起こさないカムセット能力を身に着けるのも、自己責任である。

クライマーが地域に歓迎されるクライマーになる、登攀禁止に岩場をしないためには何が必要か?自分で考えるのは、自己責任である。

私が望んでいるのは、この記事クリップのような”家族クライミング時代”の出現であって、エンドレスに続く、うんこ紙処理、2個もカムが外れるような稚拙な登り方をしてのグランドフォール、理不尽な地域のドンとの交渉役、ではない。

なぜなら、それらは全く問題の根本原因をたたいたことにならないからだ。

日本では、

 一人の犠牲者に問題のすべてを背負ってもらう

という伝統が長い。それは子供時代に十分やった。

級長を10年。生徒会を3~4年。生徒会連盟は1年。

票を集め、世直しもやった。

その間、何が起ったか?

級長の私、姉の私に依存してばかりの人々は、成長しなかったのである。

家族の者は、ピーピー泣くばかりで自立せず、しまいには自己破産し、あるいは自殺未遂し、

クラスメートたちは、私がお受験勝者になっていくのをただ指をくわえて眺め、

私の弟や妹は、私の労働にフリーライドして、ただ遊んで暮らしていたのである。

命名、”ザ・人を自立させない、日本というシステム”、

という感じだった。

つまり、これは、依存する側に都合が良い共依存システム、なのである。

もちろん、このことは、この新聞記事にある伊藤さんの努力や功績、人物を貶める目的でない。

ただ私はその立場に立つのが嫌だ!ということだ。なぜなら、すでに子供時代にそれはやって、十分私は自分の能力を世の中に提供してきたからだ。

当時の私の気分は、これだった。

アトラス。

しかも、地球を背負ったまま、オリンポスの山を登っては、降り、登っては降り、ということを永遠に繰り返させられているのである

彼は。

まさに永遠のうんこ苦情処理、事故処理、陳情…。

私は子供のころに生存の要求から、仕方なく登った山を再度登るつもりはない。

■ 私が望むもの

私が望んでいるのは

1)そもそも、うんこ紙が岩場で散乱しないで済む、うんこ処理能力を身に着けたクライマーを育成する、うんこ処理教育

⇒ うんこロジーの方が講演活動している。 https://nogusophia.com/profile

2)正確なカムセットを身に着けるプロテクション教育

落ちても普通はカムが効いていれば、グランドフォールにはならない。

3)ビレイ教育

ビレイも、正しく行えば事故にならない。

特にフリークライミングでのビレイミスは、単なる人的ミスで、アルパインクライミングのような致し方ない事故とは判定されない。

4)クライマーコミュニティの自立

理不尽な地域のドンに、頭を下げ続けてお情けで、”許可”をもらいつづけるのではなく、クライマーに来てくれてありがたいと言ってもらえる産業としてクライミングが成長する必要がある。

以上のほうだ。

しかも、これらは別に難しいことではない。やる気があれば済むことだ。

なぜなら、根本原因の解決にならないから。

いつまで、クライマーたちは大人にならず、寄生し続ける気なのだろうか?

人の善意…伊藤さんの善意、地域のお情け、にすがって寄生するだけの、存在に成り下がっている気なのだろう???

伊藤さん役をやってくれる人がいなくなったら、どうする気なのだろうか?

次の”伊藤さん”を作り出し、またその人にすべての負の面を背負ってもらうつもりだろうか?

”一人の人”の善意に、全員がぶら下がる日本と言う悪しきシステム…その”一人の人”、つまるところ救世主と言う体の犠牲者、になることに、同意を感じる人間ばかりではない。

私は、伝統的日本人の在り方を良いと思ったことは一度もない。

一部の超有能な人が、多数の無能者と共依存関係を築く関係性だからだ。


“I do my thing and you do your thing.

I am not in this world to live up to your expectations,

And you are not in this world to live up to mine.

You are you, and I am I, and if by chance we find each other, it’s beautiful. If not, it can’t be helped.”

「私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。

私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。

そして、あなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。

もしも、縁があって、私たちが出会えたのなら、それは素晴らしいこと。

出会えなくても、それもまた素晴らしいこと。」

                       ゲシュタルトの祈り


トップクライマーは、自己犠牲してトップクライマーになったのではない、彼らは楽しんで登り、いつの間にかトップクライマーになったのだ。

誰もが、自分がトップクライマーと同様の在り方で登れる道を選ぶべきだ。

そして、それは私には、岩場の管理人、ではない。

立候補したことは一度もない。

ただ押し付けられそうになったことがあるだけだ。

究極に押し付けられた人たち…