なかなか面白いポッドキャストだった…。
私は、最近来たクライマーなので、へぇ~。
変なところにある課題… 。混みこみぎゅうぎゅうの岩場ができる機序と同じだった。
倉上さんの千日の瑠璃
■ クライマー的思考を身に着ける
奥村さんのポッドキャストの中で、印象的だったのは、クライマー的思考です。そんなの、やるのが当然だと思っていたんだが…例えば、ここで落ちるとどうなるか?ということを常に意識しつつ、自分の登攀能力と落ちた場合のリスクを天秤にかけて、リスクのほうを取ったりすることもあります。
投資で言えば、リスク・リワードレシオがプラスなら、リスクを取ることもあります。
例えば、私の阿弥陀北稜は楽勝になってから行ったので、リスクは自分ではほとんど感じませんでした。ただのでっかい簡単な冬季ボルダーって感じでした。ところが、ここ、天候リスクがあります。また下山時の道迷いリスクも高い。どんなに晴れても、逆に晴れで安全であればあるほど、寒冷リスクは高くなります。それでリスクをマスクしないで行くと、やっぱり凍傷になったり、下山路を間違えて、阿弥陀南稜側に降りてしまったり…遭難が起こります。私の場合は、寒冷リスクに対応する方法は、数年かけて学んでから行きました。
フリークライミングも同じで、このルートをどう登るか?という場合に、落ちたらどうなるか?最悪何が起りそうか?というリスクを考えて、それをマスクできるようになっていくのが楽しい、という感じです。リスクは隠れていて、思わぬリスクが出てきます。
その考え方は思考回路的に、正解を求める、という考え方ではだめです。
一個の正解があるという前提のもとの、狭い正解を辿る戦法…お受験で常套手段になっている戦法…ではだめで、
今あるリスクは何か?
と考えて、そのリスクさえ、回避で来ていれば、まぁOKなわけです。例えば、命がけのギリギリルートであれば、敗退が確保されている。ゲレンデのフリークライミングであれば、ビレイが安心。
私は最終的に、私の個人的なフリークライマーとしてのリスクが、指導者やパートナーから全く理解されていないことが分かりました。
例えば、「これ、5.9だぜ、これくらい登れよ」です。
第一に、日本の5.9は、全く意味がない…男性の平均身長の人にとってすら、5.9ではないことが多いです。
第二に、そもそも、小さいクライマーにとっては、グレード意味ないです。なんせ平均的な人が頑張れば登れる奴に5.9とか、5.12をつけていたんですよ。間は全部適当な主観です。
開拓した○○さんにとって、10bに感じた、ということで、客観的指標ではないので、再登した人が、意義を申し立てて、これは5.11では?と本来はグレードがフィードバックされて決定されなければならないのです。
九州では、このフィードバックが起こっておらず、激辛ルートは放置されているので、まるで詐欺みたいなことが起こっており、ちゃんとまじめにビレイしてまじめに登っても、事故が防げないことになっている。
本来、5.10bを登れる多くの人が登れないんだったら、それは5.10bではないです。
そのフィードバック機能が停止して、俺の課題は辛いんだ!俺は強いんだ!という個人のエゴの声を表現するコミュニケーションツールになっている。
それって、私の目には、なんだか、弱い犬ほど吠えるみたいな、劣等感の塊の人が見え隠れしています。「長所をPRしているつもりで欠点をPRしている状況」に思えるんです。
それは、奥村さんがこのポッドキャストで語っているような、クライマー的思考回路、今は落ちれないなぁ…しかし、プロテクションも取れないので、頑張るしかない…という岩との駆け引き…そして、それを残したルートとは意味が全く違うと思います。
たまたま背のたかーい人が、ある一つのフットスタンスに載って、そこで手が届く一番遠くのギリギリのところにボルトを打ちました、すると、それはロープの伸びがある場合はランナウトになりました、というだけの、あとからよく見たら、もう少し下にボルトを打つべきだった…でも、もう打ってしまったから、打ちなおすのもなぁ…という成り行き任せの結果できた、危険なルートを放置しているだけ、ではないですかね?
しかも、そこで初登者権利論などが出てきてしまったので、皆が遠慮して、「このボルト位置、変っすよね?」も言えない…という。
これは、例えば、ジャンボさんが、アメリカでは残すべきルートは打ち換えられて残されている、そこに美学を感じた、という話とは、まったくレベル感が違う話だと思います。
なんせ美学、そもそもそこに無いですよね。
私はクラックも登るので、時にランナウトに耐えて登っています。したがって、ただランナウトを避けるのが良いと思っているボルトクライマーではありません。
アメリカ人や西洋人のクライマーは、8割は、絶対にリスクを取らないスポートルート限定クライマーです。
でも、そういう人たちは、市民クライマー、であって、エリートクライマーでもトップクライマーでもないです。
そんな命がけの活動は、トップの人々が率先してクライミング文化として広めていけばいいんじゃないですか?
クライマー全員に命を懸けろ、って、それ、ちょっと市民クライマーに求めすぎ…。
そもそも、そんなことをしなくても、すでに命がかかってしまう面がクライミングにはあります。
それにこう言っては何ですが、現実の元・アルパインクライマーの方々は、私のように、40代からクライミングしているおばちゃんクライマーが取れるリスクですら、もはや取れなくなっている。
例えば、私が寒冷リスクと単独リスクを取って、登って帰ってこれる阿弥陀北稜に、団体で挑んで凍傷になって帰ってくる…あれって、まるで徒党を組むことで、むしろ墓穴を掘っている。もしくは、いかに墓穴を掘っているかをPRするのが目的なのか?そんな感じでしたが…。
アルパインではなく、フリークライミングでは、白亜スラブで起った登攀スタイルにも同じものを感じました… 俺はこんなにダメなんだよ…だから俺を男にしてくれよ…みたいなの。つまり女性に育ててもらいたがっているのかな?って感じでした。つまり、女性なら、メンツを立てつつ、俺の欠点を俺が受け入れやすい形で指摘してくれ、リスクを彼女が回避してくれることで、俺もリスク回避になるってことです。
例えば、男性同士なら、意地を張っちゃうところ、「女性がいるから○○できない(しない)」と言えばメンツが立つ、みたいなことかな?
そこには男性の甘えというか、本音は、”俺も怖い”だったり、”俺も分かっていないから誰かに頼りたい”だったり、”俺を守ってほしい”だったりするのをカッコ悪いから言えないから、女性がいればいいな、みたいな感じかな?
女性や新人は、”出し”にされている、そのリスクがある、ということです。
でも、いくら誰かを”だし”にしても、”そもそも存在しない実力”は、出ない。
そこが私はリスクとして見落としていたのでした…つまり、最初から、25+35をつないだら、50mシングルロープでは、どう考えても途中でロープは足りなくなります。その計算ができるかできないか?が、ビレイヤーが勘案しなくてはならないリスクに含まれる、とは、まさか思っていなかったのです。
これで、いかにあの登攀が、日本のクライマーの総体としてのレベル低下を示すインデックスとなっているか?ということが分かりますかね?
なんせ彼は別に僻地だったりクライミング文化的に儒教の影響か、一かばちかスラブクライミングが主体の九州育ちではない。ちゃんと山梨で登ってきたはずでした。
だから一般現代クライマーを表現しているに近いはずです。
現代のクライマーって、10年クライミングしても、そのレベルにとどまる…あるいは、とどまらざるを得ない、メタ認知レベルってことなんですよ。
もしかしたら、これは世界的現象かもしれませんが…。
世界的現象かどうか?を確かめに自分の身を危険にさらす気にはなれませんが…。