■ 読了『死に至る病』
人間の愛着について語った、『死に至る病』という本を、今回の旅の中で読んだ。
というのは、アクセス問題は、愛着に問題がある問題児の行動…例えば、小学生がお母さんの愛欲しさに、わざと問題行動を起こして見せて、親の注目を引く…のと同じだと思われるからだ。
俺を見て!
これは、クライマー界ではかなり根強い欲求で、男性クライマーは、ほとんどの人がこの欲求で登っているんじゃないだろうか…?ちなみに登山のほうも同じで、主たる登る動機が自己顕示欲…。
その動機は、思春期だとか、人生の早期には役に立つし、人間発達のプログラム進行の中で役立つものだと思えるが…、40歳、50歳、60歳、ましてや70歳でそれをやるとなると…。もう少し円熟を期待したいのが人情だろう。
なぜこんなにも、子供時代に満たされてしかるべき欲求が満たされていない大人が、その欲求の矛先に山やクライミングをあてがわざるを得ないようになったのか?
そこが疑問だった。
■ 愛着が健全でないと人は死んでしまう
実験動物のサルに愛着を与えないと、そのサルは死んでしまう。
つまり、人間の自殺も愛着の障害と考えることができるし、依存も愛着についての問題なので、根深い。
いわゆる、”ライナスの安心毛布”の対象に、依存先がなる、ということで、依存先は、アルコールとは限らない。
酒・薬物・セックス・過食、は、分かりやすい自己破滅的な依存対象だが、勉強、スポーツ、仕事、子育て、などが依存の対象となることもある。
クライマーは、クライミングに依存している、ということは言えるし、仕事に中毒症状を起こす人も珍しくない。
そうしたバランスを欠いた執着心は、愛着が子供時代に形成されそこねた…1歳半までの親とのかかわりで、十分乳児としての欲求が満たされなかったためだと思われるのだ。
日本で愛着に問題を抱える人が増えたのは、戦後で、女性の社会進出が進み、子供に十分なケアを掛けれなくなり、あるいは、子育てが女の仕事、とさげすまれるようになり、金銭を稼ぐこと以外の労働が、重要視されなくなったためのようである。
このことをクライミングに置き換えると、クライミングから、絆や友情、が奪われ、岩場への従属感覚や仲間意識が奪われ、グレードだけがクライマーの価値とされる。
すると?
クライマーはデスウィッシング(命知らずアピール)になって、わざと自分を損なうようなことをしてまで、注意を引こう!としてしまうのである。
それもこれも、愛着が充足されないからである。
■ 愛着こそ生きる喜び
愛着は、生きる喜びの源泉で、これを絶たれると人間は死んでしまう。
太宰治や三島由紀夫の人生も、これで説明がなされている。
1歳半未満の時に、母親に愛されなかったこと、それはその後の人生を大きく変えるのだ。
クライミングになぞらえても同じではないだろうか?
クライマーは、最初の数年は、何がクライミングなのか?分かっていない。
そこで、先輩後輩の絆で、深く、先輩や師匠から愛される必要がある…それにも関わらず、愛してもらえない、つまりルートに連れ出してもらえない…となると、
「俺だって、こんなに登れる!」という必死の自己PRが始まるのである…
俺を見て!ほら、俺だって!というので、ビレイヤー(親)を求めるのである。
振り返ってみると、私は師匠の青ちゃんとの関係性では、常に(親)をやってきた。
私がリードを取れないのは、リードできないのではなく、青ちゃんが私の心の安全基地として、つまりビレイヤーとして頼りにならないからだった。
オンサイトを中心に私が登らざるを得ないのも、結局のところ、リスクへチャレンジするのに十分な心の安全基地…ボルトの信頼性に加えて、ビレイヤーの安全性、クライミング理解に対する安心…を安全基地として、クライマーの私に提供されないからだった。
その証拠に、見ず知らずのクライマーとロープを結んで、ラオスや台湾ではマルチピッチまで登れているのである。
一方、何年も投資して、日本では白亜スラブのような程度の低いクライミングパートナーしか得れていない…
私が日本のクライミングに失望をするのも仕方がないことだろう…。
多くが愛着に問題を抱えており、自分のグレード自慢に終始して、肝心のビレイがお留守、というクライマーばかりあてがわれたのでは…
それで、ちゃんと登るほうがおかしい、くらいなレベル感である。
それで死に至ることなく、今生き延びれているのが、奇跡、ということなんである。