「自己責任」という名のなすりつけ
――クライミングで再演された、私の“家庭の役割”
こんにちは。セルフCBT中のKinnyです。
私はこれまで、自腹で講習に通い、独学で技術を学び、誰よりも慎重に安全確認をしながらクライミングをしてきました。
それでもあるとき、私のせいにされるという出来事が起こりました。
「それ、あなたが選んだビレイヤーでしょ?」「落ちなければビレイヤーはいらない」「ついて行ったんだよね?」「このボルト、自己責任でしょ?」
この言葉の裏にあるものは、**自己責任ではなく、“他者の無責任のなすりつけ”**だったのです。
🧱 努力しても評価されない。むしろ責められる
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ひとりで雪の山に登り
その経歴を持って行って、山岳総合センターに通い、技術を学び、
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自分で文献『八ヶ岳研究』『イラストクライミング』『アイスクライミング』『古い岳人』を調べて独学し、
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都岳連岩講習にも出て、日赤救急救命講習に出て、
人工壁に週2半年で通って、地道にビレイ技術を積み重ね、
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登山計画書を作って、何重にも確認して、ルートに向かった――
それでも、「あなたが行ったんでしょ?」とすべての責任をかぶせられる。
しかも、それは経験も知識もない人間が、何の準備もせず無責任に行動した結果を、私にかぶせるという構造だった。
これは、まさに**“努力する人ほど損をする”社会の縮図**です。
🧠 これは「再演」だった
私はハッとしました。
この構造、私の原家族と同じだったと。
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責任感の強い長女に家族のバランスが押しつけられる
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大人の不備を「お前が気を利かせて動けばよかった」と言われる
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弟や親のトラブルを、なぜか自分が謝る羽目になる
家族では「長女だから」
クライミングでは「できるから」
できる人に押しつけられる、“他人の無責任”。
🎭 「自己責任」という言葉のすり替え
本来の意味:
自分の選択に、自分で責任を持つという自律的な態度
現実の使われ方:
他人の過失や構造上の欠陥まで、“お前の判断ミス”として処理する
この言葉は、社会的には“成熟した自立”を意味しているように見せかけて、
実際には、責任転嫁のためのマジックワードとして使われていることがある。
💥 なぜ、私が「いつも責任を背負う役」になるのか?
それは、私が「ちゃんとしているから」ではない。
“ちゃんとしてくれるだろう”と勝手に期待される、
そして何より、“黙って背負ってしまう自分がいた”からだ。
これは、AC(アダルトチルドレン)の「ケアギバー役割」に深く根差している。
家庭でも、職場でも、山でも――
“何とかしなきゃ”と動く前に、“誰か助けて”と叫べなかった私がいた。
🌱 でも、今度はちゃんと怒れた
この「なすりつけ」に、私は怒った。
はじめて、怒ることができた。
それは、ただの“八つ当たり”ではなく、
**「私は、もうこの役を引き受けない」**という、私自身の境界線の宣言だった。
✍️ まとめにかえて
「自己責任」という言葉は、
自分の自由と選択のためにあるべきものだ。
でも、実際には
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無知を放置したリーダーの怠慢
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不備を見て見ぬふりした組織文化
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「できる人がやればいい」という甘え
こうした構造的な無責任を隠すために使われることがある。
私は、これを再演として生きたけれど、
今はそこから、ようやく目を開き始めている。
“自己責任”という名のなすりつけには、NOと言っていい。
そして、私はようやく、自分の責任を“自分のために”使う道に歩き出している。
■関西魂でバシッと代弁
🎤 ほな、言わしてもらうで。
おいおいおいおい…
あんたら、どの口が「自己責任」ゆうてんねん。
こっちはな、
自腹切って講習通って、
自分で本読んで、現場で学んで、ビレイも身ぃにつけて、
そんでもって命かけて登ってんねん。
ほんでなんや?
「自己責任」やて??
ちゃうわボケ、それ“お前らの無責任のなすりつけ”やろがい。
「よう知らんけど、お前のせいやな」って、なんでやねん。
お前が確認せぇへんかった、
お前が教えへんかった、
お前が決めとらんかった、
お前が逃げたんやろ。
それ、全部人のせいにして、
「まぁ自己責任やしな〜」って顔してんの、
ほんま見苦しいわ。
努力してる人間にばっか責任押し付けるって、どないな構造やねん。
やらへん奴、知らん奴、放棄した奴が「被害者ヅラ」して、
ちゃんとやってる人にだけ「責任とれ」て。
そんな世の中、間違うとるやろ?
ほんで「大人なんやから」とか言う前に、
まず自分が、「大人のすること」せぇよ。
「責任放棄の大人」ほど厄介なもんはないわ。
結論:
「自己責任」ちゃうねん。
それ、“お前らの無責任責任転嫁”や。
言葉、よぉ選ばんかい。
ほな、しっかり自分のケツは自分で拭きや?
こっちはもう、“無償のトイレットペーパー”ちゃうねんで。