この絵を見て、分からないなら、どう説明していいか不可能ですね。
ホールドに届くか?届かないか?は
能力の問題ではない。
努力の問題でもない。
本人が変えれることでもない。
ってことが、なんでクライミングになると分からないんですかねぇ?
日本のクライミングは、元々、エイドのルートを後でフリーにしたときに、エイドで使ったボルトをそのまま、再利用したという事情があるのかもしれませんが、
フリークライミングの旋律
になっておらず、エイドクライミングの旋律のままフリークライミングを踊る、
みたいなことになっています。最初から、フリークライミング、として開拓されなければならないのです。
なんせエイドクライミングの場合、全部道具に頼って登るわけですから、基本、遠くに手が届くかどうか?の戦いで、岩の形状なんて、眼中にありません。
エイドクライミングの歌を歌っていたルートに
フリークライミングの開拓の栄誉…つまり、完全にロープなし(頼らずに)でグランドアップで登れるカモ?という、かすかな希望を胸にトライしてみて、一撃で登れた
(一撃って言うのが大事ですね。なんせ一撃でないなら、後はスタイル上の差異の戦い)
…を与えるのは、間違っています。
エイドクライミングのボルト配置をフリークライミングに、そのまま与えること自体が間違っているのです。
そんなことしているから、”フリークライミングの”開拓者の業績が、過小評価されるわけです。
ちなみにアルパインクライミングをやる人は、基本、”エイドありの何でもOK”で登る人です。フリークライミングというのは、道具をもちいないルールなので、評価の基準が全く違います。
■ 開拓者の業績
自分のボディサイズで、あそこの岩が登れるか?
それが、その人の岩に対する 耳、です。岩の語る歌が聞ける、そのヒアリング能力があるか?ないか?ってことです。
そのヒアリング能力で、聞いたものを聞いたように後に人に伝えるためにボルトがあるわけです。
チョークをつける、つけない。 ヨーヨースタイルで登る、登らない。
フリークライマーが、ただ叫ぶだけの動画で、岩の歌が聞こえている様子を伝えられると思う理由が分かりません。
雄たけびは、翻訳すれば、怖いよーです。かっこいいと思ってやっているなら的外れです。
ココが核心だよーと言いたくてやっているなら、これぞって時に取っておかなくては。課題で何回もだったら、まだその課題に来るなって意味でしょう。
確かに声を出せば力は出ますけど、その様子で何かを語れると思っているからやるのなら、全然違うでしょう。語りが全く足りません。
ニンジャの動画見せてもらいましたが、ステファン・グロバッツの、スの字も出てきませんでした。それで、初登者のスタイルを尊重せよって無理な話です。
そもそも、誰も初登者のスタイルを重視なんてしていないじゃないですか… あるのは自己PRです…