クライミングをするようになり、”なぜ父は私たち三人を捨てたのだろう?”という疑問を持つようになりましたが…
今回のクライミングで、その疑問は、ますます晴れていき、答えは、父はまだ母から自分が子供として面倒を見てもらいたかったから…。家庭を二人で作り上げるもの、という理念がなかったから…と分かりました。
多くの男性にとって、”女性は助けてもらうもの”。”助けてあげるもの”、でも、”協力するもの”、でもない。それは、子供のころに会う女性代表が、お母さん、だからですね。
私は父を知らない上、知らないということにあまり不都合を感じてこなかったので、父からなぜ愛されなかったのかな?ということにも、ほぼ40年疑問を感じなかった。クライミングをするようになって、父性の不足という日本国民共通の現象を理解するようになり、疑問を持つように…そして、クライミングを通じて納得。
私は母については、母が私を愛してくれたのか?ということについては、ほとんど疑問自体を持ったことがなかった…それは、自分が母を死ぬほど愛した、ということについて核心があるから。
私にとって残念な事実だったのは、母は子供からの愛には答えるには、そもそもの”能力”自体がなかったということ。愛していなかったというよりも、愛していても、愛から出た判断んではなく、功利や損得、で判断してしまう、ということなのだった。
愛された記憶より、愛した記憶。
クライミングの仲間でもそうだ。判断は賢く。どのような判断が賢い判断か?ということを考えましょう。