こんなのが回ってきたので、アップします。
ーーーーーーーー文字起こしさんによる文字起こしーーーーーーーー
二子を見て思うこと
奥村晃史
二子で起こっていることに、ローカルでもないのにどうかとは思うが、私なりに思うところを整理して誌面の許すかぎり書いてみたい。
「ROCK&SNOW」 での記事の取り扱い
今回の 『ROCK & SNOW」 での記事の取り扱いには大きな失望を禁じ得ない。 ローカルクライマに対しては一方的で公平性に欠けるし、協会に対しては後出し的で卑怯と読者に映り、なかには不愉快な集団だと思われた方も多いのではないか。 結果的にこの記事の取り扱いと編集が、 問題をよりこじらせている原因の一つであることは間違いない。 あのような編集や記事の取り扱いはいかがなものか。 「ROCK&SNOW」 には今後、唯一の専門誌として自覚をもった誌面づくりをお願いしたい。
協会とローカルクライマーの協調
私は協会の運営に対してとやかく言うつもりはない。 私が言いたいのは、協会の方針はあくまで二子に集うクライマーのなかの一意見でしかないということだ。その協会の方針を提案とするのであれば、ローカルクライマーとの議論は必須だろう。 私は今回の件でなぜ議論が行なわれないのか不思議でならないし、 多くのクライマーが傍観していることも残念に思う。 しかし、議論をといっても、必然的に大きな影響力をもってしまう協会に向かって意見を唱えるというのは相当なものである。 協会はその影響力というところをよく考え、相当の配慮をする必要があるだろう。
今回の問題は、協会が協会の意向や方針を、ローカルクライマーの意見も聞かず強権的に押し通そうとしているように見えるところにある。 クライミングはそれを行なう一人一人の主体性をもっまた活動の積み重ねでつくられていくもので、 鶴の一声でつくられるものではないはずだ。 今後は協会とローカルクライマーとで真摯に議論して二子のクライミングをよりよい方向に向けてもらいたいと思う。
グレード体系の改革とリグレード
私はフレンチグレードのみの表記には反対だ。
グレードはその国や地域のクライミング文化の大きな要素でもある。 「今後デシマル表記はしない」というのは狂信的で性急すぎるように思うし、現実的にも極めて不便だ。
また、フレンチに変えても世界からたくさんの人が来るとは思わないし、そこまで喜ぶとも思えない。 記録の発信についても、 オリジナルなグレードと自国 (または発表国)のグレードに置き換えたものを併記することが世界でも一般的だろう。
モデルケースとしてイギリスでの例を挙げているが、そもそもトラッドに特化したグレード体系しかもたなかったイギリスは今回のモデルケースにはならない (詳しくは「ROCK&SNOW」077号参照)。
またフェイスにはフレンチ、 トラッドにはデシマルと言っているが、すでにクライマーの間でグレード感の認識ができていると感じるため、その必要性も感じない。むしろトラッドに対してのデシマル+αについて考えるべきだろう。
とはいうものの、協会の言うこともわかる。 私は現時点ではデシマルの横にフレンチをカッコ書きで併記し、あとはクライマー社会のなかでの自然の成り行きに委ねることがよいように思う。
リグレードについても然り。 今は世界中のクライマーがカタルーニャを訪れているが、この流れもいつかは変わるだろう。 そうなればそれに合わせて変えていくのか。 そうなるとかえって尺度としての機能が果たせない。 確かに既存のグレードが逸脱している場合は是正も必要だ。 しかし二子の従来グレードはそんなに辛く逸脱しているのか。
私は二子に数回しか行ったことがないが、そのときは、 関西と比較すると二子のグレードは少し甘いと感じた。一般的な換算表を基に私の経験でドイツやフランスと比較しても、総じて甘い印象だ。確かにカタルーニャと比べると全体的には辛めだが、 彼の地でも辛いルートはたくさんあるので、そこまで逸脱した感じはしない。 ギリシャのレオニディオやタイなどのリゾートクライミングで人気のエリアと比べればかなり辛いとは思うが、私はそれらのほうが特別であると認識している (レオニディオは最新のトポでグレードが見直され、以前に比べてグレードダウンしている)。
多分このようなグレード感は、経験を積んだ多くのクライマーと共有できるのではないだろうか。 私は毎年のようにヨーロッパへクライミングに出かけ、 カタルーニャでも毎年のように登っているが、 ヨーロッパの国々の間やカタルーニャでもバラつきがあり、その辺は日本と変わらないように感じる。これは同じデシマルを使っているアメリカでも同じだ。 仮に二子のグレードが辛いと感じるのであれば、それはフランスやドイツなどを訪れた開拓者たちが彼の地にインスパイアされたものではないか。 グレードが間違っているということではなく日本のスポートクライミングの歴史的背景なのだと思う。
グレードはいくら均一化をめざしたとしても、主観的であるためにバラつきは必ず出るだろう。
このバラつきはクライマーが常に議論提唱することで自然に抑制され、 大抵の場合はクライマー的許容範囲に収まっている。そしてクライマーはそのクライマー的許容範囲のバラつきを容認し、エリアやルートごとにグレード感をつかんで登っている。
このグレードの曖昧さを楽しむことも醍醐味であり、その地のクライミング文化やメンタリティを感じるところでもある。 そう思うと、二子の従来グレードもおおむねクライマー的許容範囲にあり、逸脱しているルートも少ないのではないかと思う。
しかし今回協会の行なったリグレードを見ると、 ローカルクライマーとの議論やその意見が反映されているのか、クライマー的許容範囲を逸脱したルートがあるのではないかといった不安が残る。 特にグレードの変化に対して私が危惧するのは、仮にクライマー的許容範囲を超えた甘いグレードになっていたとしたら、クライマーがそれに成果を見いだし始めることだ。 もちろん辛すぎるグレードも問題ではあるが、 逆の慎重さも必要だろう。
余談ではあるが、 私はクライマー的許容範囲のなかで下よりも上に合わせる心意気がクライマーにとって自然な姿だと思う。 昭和的かもしれないが 「クライマーたるもの」というメンタリティをそのようなものだと思うのは私だけなのであろうか。
いずれにせよ、 リグレードが必要なら検証を含め、その必要性を二子に集うローカルクライマーに説き、互いが協力して作業を行なう必要があるのではないだろうか。 そして協会だけでなく二子に集うクライマーが真摯に議論を尽くすほかない。その結果が今後の日本のモデルケースとなってほしいと切に願う。
サバージュの件
事情がよくわからない。 「補強」 というには少し無理があるらしい。 「削れているから埋めておこう」と何の意図もなくやったことが騒ぎになって、いろいろ言い訳をした結果、 泥沼にはまっている・・・・・・とも思いたいが、今のところそれも難しい。 仮に、 世間で騒がれているように「新しいムーブを封じ込めるために埋めた」 となると言葉もないし、 それはチッピングと同じで、誰が見てもよくない。
いずれにせよ、発表公開後にホールドの欠損や発見によって初登時のラインやムーブが変わることはままあるし、自然の流れでそうなっていくこともある。 初登者だけでなく再登者でも、思い入れのあるラインでそういうことが起こると大変残念に思う気持ちはわかるが、それはそれとして受け入れ、自然の流れに任すべきだと思う。 私はクライミングとはそういうものだと思っている。
真実がわからないし解決策も具体的にはわからないが、兎も角にも、この問題が早く解決されるのをただただ祈るばかりだ。
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■ 右往左往している印象
個人的に小鹿野のクライマーを知っていますが、ローカルクライマーに文句を言われれば、流され、こうしたらいいと、どこかから言われれば流され、
よって立つものがない、
印象を持っています。ビジョンが確立する前に…つまり十分な議論が行われる前に走り出した上に、そうした議論に手間暇をかけるマンパワーがないと、大体はこうなりますよね…
■ 小鹿野町のビジョン制定のほうが大事
小鹿野町は、もしクライミングの町として自我を確立するなら、町民自らが、どのようなクライマーを歓迎するのか?というビジョンを制定しないといけません。それは、クライマーが勝手に議論して決めればいいでしょ、というのでは、待ちの姿勢で、これまでと同じく、成果は町には落ちてこず、クライマーに搾取されて終わりになるということです。
小鹿野クライミング協会よりも、小鹿野町の人々がクライミングの町小鹿野をどうしたいか?どんな町になってほしいか?というそっちの方が大事な議論です。
なんせ町の将来がかかっている議論なんですから…。
■ クライマー界は伝統的に便乗者
まぁ、歴史的に仕方がなかった側面がありますが、クライマー界自体が、歴史的に便乗者的です。
エベレスト登山の歴史を見ても、地元の人そっちのけ、で、勝手に登って勝手に世界一を打ち立て、自分たちの価値観で切った張ったとやっている、その成果は地元(例:シェルパ族)には落ちないみたいなのが普通ですよね?
それは、すでに先住民がいるアメリカ大陸に行って、「発見した!」とか言った侵略者の思想です…(汗)。
登攀禁止になっている岩場にせよ、コソコソ登っていて、バレて登攀禁止、って流れが多いですが、それは、その侵略者の思想に疑問を持たないで行動してしまうせいです。
クライマー界では、むしろ、そういう風にコッソリ勝手に登る、ということをしないほうがバカみたいな風潮がありますよね。特に、登攀禁止の岩場に登りに行く人たち…バレなければOKって思想が強いです。
今回の騒動で、一番迷惑しているのは、誰か?小鹿野町の人たちではないんでしょうかね?
従って、クライマーの伝統さえ守れば、万事OKの姿勢は、まずいです。
それじゃ早晩、日本中の自治体から、こんなアウトドア活動要らない、と引導を渡されて終わりになるでしょう…っていうか、渡されてますよねぇ?城ケ崎の状態を見る限り。
いつまでクライマー界は反省しないつもりなんでしょうか?
ローカル住民の忍耐の緒を、フリークライミング協会が平謝りに謝ることで、なんとか切れないで保ってもらっているみたいな、綱渡り状態ですよね?
■ リーダーシップがない船
しかし、クライミング界自体が、私がクライミングをスタートした2013年ごろでも、すでに、
リーダーシップ不在
状態でした。私は内藤さんは素晴らしいリーダーだと思いますが、例えば、内藤直哉さんが整備した瑞牆は、素晴らしいトポが出ましたが、ローカルクライマーの元祖?集団である、山梨県の白鳳会…山梨では一番ちゃんとした”登れる”過去の実績があるクライマーが集まっている会です…は、
「俺らに無断で許さん」
と言ったとか言わないとか…。ただの噂話のレベルですので、本気にしないでほしいですが、そもそも
ローカルクライマーって誰問題
があります。その岩場でローカルクライマーの会を結成していることがほとんどなく、合ったとしても、年に一回の清掃クライミングがうざいとかで、参加しないクライマーもいます。
要するに、クライマー自身の自治の精神、って、かなりお留守です。
みんな仕事が忙しいだのなんだので、共同体への参加、逃げ回っている。
■ 無法状態
逆にローカルクライマーって誰なのかな?っていうので、九州ではかなり探しましたが、見つかることのほうが難しく、ほとんど中東のゲリラ戦争状態みたいな感じで、すっごく簡単に見つけることができる百岩場に名前が載っているような開拓者にでも、
無断で勝手に開拓
しちゃって、
「それが何か?」
と言っているような状態です。
社会人としての常識自体がそもそも崩壊
しているような印象を受けました。
■ 何とかするにはどうしたらいいか?
良識あるクライミングっていうのが、たぶん、模倣されていないので、ほっとくと非良識的クライミングがはびこることになるんではないですかね?
すべての発端はトップクライマーの様子を見ることができる人が限られていることでは?
私は運よく、良識的クライマー、トップクライマー、の在り方的なものを、すぐそばで垣間見ることができましたが、一般のジムクライマーと言うのは、そうした機会が与えられても、チャンス自体に気が付かないレベルの意識状態です。
チャンスって、それがチャンスだと受け取れる人にとってしかチャンスではない、って意味です。
例えば、奥村さんの講習って、滋賀のジムまで行って、私はジムの価格を払ってビレイをチェックされましたが、佐賀県で行われた講習会って、その半額以下の価格で、一日目は座学、二日目は実習と、
破格の安値
でした。それ、九州で出会った山岳会の皆さん全員に声を掛けましたが、
「オリンピックのボランティアでビレイは習ったから、私にはいりません」
とか言う返事で、過去に私と組んだ人は、誰一人も来ませんでした…。
そもそも、指導者レベルの人は教わる気で講習なんて参加するものではなく、自分が後進に教えるときに、教え方・・つまり、指導法の打ち手を増やすために出るもの、です。
そこが分からないレベルに加えて、この件では、オリンピックのビレイと外岩のビレイって全く違いますよね…。わざと流すビレイがオリンピックのビレイなんですよ?そんなことも分からないのに、自分には要らない、と判定してしまうんですよね。
それはわざわざ、良識あるクライミングを避けているということに結果としてなります。
■ 名誉欲
結局のところ、そうしたクライミングの機微に関する無理解が起こるのは、クライマーの伝統的な流れとつながっている人が著しく減って少数派となり、グレードを上げるためにコーチのビレイで登って自分は登るだけ、の登攀マシーンを作ることが第一に優先されてきたからではないでしょうかね?
私が良く知るバレエの世界でも、自分が一流プリマになり損ねた人が次にやることは、なんとしても、自分の教え子をコンクールで勝たせ、コーチとしての名声を勝ち取ることです。そうなると、踊る喜びとかそっちのけで、スパルタ教育に走ることになり、結果、踊れても、あっという間に体を壊すダンサーばかりになりますし、内発的動機で踊っているのではないため、表現力がない、と言われたら、?となって終わりになります。
クライミングも同じことで、登りたいところを登る、登りたいという内発的動機の生まれるルートを登る…ということが大事です。
■ もっと発信を
欧米では、アレックス・オノルド君とトニー・コードウェルがクライミングのオンラインコースを開いています。
オンラインだから、受講生は勝手に動画を見て学習してくれます。
現代のクライマーに不足しているのは、圧倒的に座学、です。ジムがあるのでクライマーたちは勝手に上達してきます。
一方、「自分のロープで登るもんだ」とか、「ロープドラッグがあると登れなくなる」とか、ストッパーノットの結び忘れですっぽ抜けて落ちた、とか、教えられないと気が付かない盲点のようになっている事例がいっぱいあります。
それは、昔はのーんびり、5年は師匠について回るということで、OJTで学んでいたわけですが、最近の若い人は、OJTしても、メタ認知力が弱すぎて、全然学ばない訳です。
10年以上登って、5.12が登れ、40kgくらいは平気で担げても、私がセカンドを務めた白亜スラブみたいなリードしかできないんですよ?それだけでなく、まずいリードだったなぁと思わず、俺ってやっぱすごいなーってに感想なってしまう認知力。
これは彼だけの問題ではなく、平均的男性クライマーに言えるようです。
昔の大学山岳部エリートとは、今のクライマーは違うんですよ。そうした現代クライマーの現実を見つめた新しいクライミング教育を作らないといけないってことです。
とりあえず、ただ登れるだけ、を推進してきた山岳上位団体が作り出した現実とは、このような内容である、ということです。