■ 善因善果・悪因悪果
仏教には、善因善果・悪因悪果という言葉がありますが、構造は単純です。
善因善果 良い種を撒けば、良い結果が現れる
悪因悪果 悪い種を撒けば、悪い結果が現れる
まぁ、仏教を持ち出さなくても普通のことですね。
■ アクセス問題
そもそも、人が死んだり、大けがしたり、というリスクが内包されるクライミング活動。
因1)わざとそのリスクが高くなるように、クライミング課題を創ったり、あるいは、そういう思想を擁護したり、
因2)マナーやルールの合意形成を怠ったり
すれば、当然、
果1)死亡事故や大事故が起きたり、
果2)マナー違反やルール違反が起きたり
して、結局のところ、
結3)岩場はアクセス禁止になる…
ということを繰り返すだけだよなぁ。
だって今までのやり方でそうだったんだから。
どうなるか?なんて
岩場が登攀禁止になるって結果が過去にすでに出ている
ことですよね…。
なんで結果がどう出るか分かっていることについて主張を繰り返すのか?そこが謎なんですけど…
■ 疾病ご利益
この場合、アドラー心理学では、岩場が登攀禁止になることについて、ご利益があるから、その現実を作り出していると考えます。
ご利益は何なのか?
岩場が登攀禁止になって、得をするのは誰なのか?
■ 何が悪因で何が善因なのか?
クライマー界を見ていると、
何が善なる因で
何が悪なる因なのか?
きちんと理解し損ねているために、延々と同じミスを繰り返している子供のように見えてならない…。
パパ、ママが、「〇〇が正しいと言ったから…」と言う理由で、”〇〇が正しい”と主張し続ける子供…子供だから、視野が狭く、環境が変わっている、時代が変わっている、ということが見えていない。
そういえば、中学時代、テストで赤点の人が合格点を取るまで帰れないっていうのがあったが、そのテストって、間違った個所を確認させない、というテストだった。英語の綴り。
何をつづり間違ったか?確認しないのだから、延々と間違い続ける…何回テストを受けても同じ。
■ 小鹿野(奥多摩) 今までと同じ思考回路で同じ間違いを犯す路線を提示中?
結局のところ、小鹿野で、
アクセス禁止になってきたクライミングに対する考え方を訂正することなく
今まで同じことを繰り返す
としたら、
いくら、強力な助っ人で、議員やら町の町おこしの人やらが頑張ってくれても、
今までと同じ結果が出る
ということを証明しつつある…ということなんじゃないだろうか?
■ 結局、懲りない面々ってことなんでは?
それもこれも、疾病ご利益、
空いている岩場で登りたい
=アクセス禁止になっている岩場でこっそり誰にも見つからずに登りたい、から?
なのだろうかね?
登攀禁止になった場合に迷惑をこうむるのが一般クライマーだけで、一部の特権クライマーには痛くもかゆくもない、という問題が解消されないのが問題なのかもしれませんね。
■ 自浄作用
この件に関してはクライマー内部での自浄作用を期待するしかないでしょうね…
古いやり方を唱えている人本人が、クライマーを代表して地権者との交渉担当やってみたらいいのでは?
あるいは、
地域おこし担当、とか…。忙しいからとか言って逃げるんだろうか(笑)?
■ 町がクライマーを選ぶ時代
昨今、お客にもいろいろな人がいて、
俺はお客様だから神様だろ?!
みたいな、モンスターお客もいます。ある書店の主と世間話しましたが、とんでもなお客は増えているそうです。便乗に平気な人ですね…
というので、今や、町がお客を選ぶ時代です。
小鹿野も、
どういうクライマーに小鹿野町に来て登ってほしいのか?
を町の人達自らが規定して、マナーを守るクライマーだけ来てほしいとか、ルールを町が作り、そのルールを守る人だけ来てほしいとか、そういう風にするのが、
本来の筋
なんではないですかね? クライマーって言っても、内容はいろいろなんですよね。
そういう考えの人には来てもらいたくない、ということになれば、危険思想の持ち主も、登れなくなったら大変だ、と考えを改める機会になるんではないでしょうかね?
町の人はクライミングについて分からないという情報の非対称性により、クライマー側が、ちゃっかり便乗して、利得は全部クライマー側だけに落ちるように登ってきた、というのが結局のところ、戦後70年間の在り方で、地元には全くメリットないどころか、迷惑しか落とさないんでは、当然、誰だってクライマーに来てもらいたくないですよねぇ?
なんでそれくらいのことが分からないのか?私にはかなり謎です。
昔の偉大なクライマーをそっくりそのまま真似したいというのは、クライマーの良い子病発病としか思えないんだけど…。
アダム・オンドラが登っているの見ましたが、立てるところに1ピン目かけていましたよ?
そりゃそうだ、被っているんだから。昔のルートは全部寝ていますよね…。