■ 責任最小
このところ、アキレス腱の断裂で、再度、まとまった時間ができたので、資産整理をしていて、自分の投資ヒストリーを振り返り、色々と理解している。
弟が死んだ、26歳の春。熊本に飛んだが、すでに8年、弟を始め、家族とは会っていない期間があり、それは私が大人になるために非常に苦しんだ期間だった。蛹から蝶というくらいの大変革だったので、まぁ、私に再会した人は別人と思っていたと思う。
私は、”責任” が、そのまま形になって生まれて来たような人、と表現したらいいと思う。
6歳で、4歳の弟、2歳の妹の面倒を見る、というのが、”責任”として、姉の私に降り掛かっていたためなので、”責任”は、後天的な資質だが、”責任”の大小が景気循環の波のごとく、多いときはリセッション、少ないときは景気が良い、とそういう感じだ(笑)。
今は、責任が最小の時期にいるので、自分を振り返ることができる。
■ エースだった時代
さて、私は開発部にいたのだが、当時松下は、ロボット開発では、かなりの後発部隊で、真似下とやゆされるような状態だった。
それを返上しよう!と意気込んだのが私のいた開発部だった。さしずめ、私は、当時のエース扱いだった。実際、私は、男性一色の開発部に女性雇用の道を開いたと思う。
しかし、なんと松下さんはロボット開発事業から全面的に手を引いたんですよね。
まぁ、全社的な視点で見ると、不採算事業だったからなんだが。夏に事業部解散の噂が流れた。私が不安がると、直属の上司が耳打ちして、「たとえ、多少の解雇があったとしても、あなたが解雇されるのは、一番最後だからね、安心してね」ということだった。当時、個人事業主として独立したばかりで、私は、組んでいるプログラミングの師匠である前川さんに5%を払って、口座を通過させてもらっていた。
松下みたいな大企業は取引先を査定しており、誰でも仕事ができる訳では無い。私は4年の信用で、取引を始めた。が4年では口座が作れない。前川さんは15年松下とやっており、前川さんの口座を通過させてもらって、仕事の代金を受け取っていた。前川さんとは、お互いウィンウィンだった。なにしろ、プログラミング業界って力仕事で、若い私がコーディングできる簡単な部分が8割、核心の1、2割を経験値の高い前川さんがやったほうが、効率がいいからだ。私は5%払っていたが、5%だって800万の5%だから、40万円。何もしないで手にするお金としては悪くないだろう。
前川さんからすると、私みたいな若いのがあと4人いたら、いいなぁ、なんて言っていた。
ちなみに、私以外で、私の年齢でこんな職業形態になった26歳の男性なんて周囲には誰もいない。みんな、就職氷河期で、仕事自体が見つけられず、実家に帰ってプータローとかだ。
しかし、残念なことに松下は事業部解散。そして、解散のときは、「あなたは、雇ってくれるところがあるから…」という理由で、松下さんは、PCの前に座っても8割は寝ていることで有名な男性のほうの雇用を守ったのである(彼も非正規雇用だったが)。
その男性は、でも、ほんとに、松下が雇用してやらなければ、他に雇用先がないだろう・・・と思われた。彼は、突発的優秀性というか、非常に才能が偏っていて、他の誰もがしたくないコードのデバッグをしてもらったら、役立つという感じだったんだよな。その代わり、8割は寝ているんだけど(笑)。
クライマーで例えるなら、普通クライマーが大好きな、岩場のクライミングが全然ダメで、しかも、デブで歩けもせず、荷物をもたせたら、更に歩きが遅くなり、もう歩荷もダメで、クライミングもダメ、と、”なんで、お前 山やってんの?”みたいな人が、ラッセルさせたらモーレツなラッセル力を見せるみたいな、そんなかんじだ。特殊な単機能型ってことですね。
ま、要点は、パナソニックという会社は、本当に家庭的で良い会社だったってこと。それが裏目に出て日本の国力低下につながっているってこと。つまり、落ちこぼれから拾ってくれるのが日本社会ってわけですね。言葉は悪いが行くところがない人。日本の地方が今、そうなっている。
で、私は失業したわけだが、それは前川師匠も同じだった。それどころか、プロパーの人も同じで、全員バラバラの配属になった。ので、別に自尊心は傷ついていない。松下の正社員だった人でも、やっていた仕事がなくなり、全員が事業部解散の憂き目にあったのだ。
私は渡りに船で、ドイツの外資から歯科営業の仕事のヘッドハンティングをもらっていたので、困ったら、そこに行けばいいか、という感じだった。歯科タービンってモーターなんで、モーターの塊のロボット開発部の人からしたら、単純な仕組みだからだ。
当時、私より10歳くらい上の30代後半の若手エースに、MITに社費で留学した人がいたんだが…彼も、結局、転職した。上と意見が合わなかったようである。(MITはマサチューセッツ工科大学)
私自身もそうで、エンジニアとして仕事していたのに、松下さんが提供しようとした仕事は広報…なんのわたしの強みも活かせないではないか・・・というので、外資に行った。
この経験でわかったことは、会社っていうのは優秀な人から辞めていく、と言われるが、実際にそれが本当に起こっている、ということだった。
それは、情、というか、人間同士の温かい気持ちから起こっている。そりゃ、他に行くところがないんだから、誰だって彼に席を譲るだろう。譲られた本人は、それが譲られていることだとは、全く気がついていないと思うが。まぁ、”甘ちゃん”っていうのは、そんなものだ。 大事にしてもらって気が付かない人のことが、甘ちゃん、なのだから。
これでは、日本企業は弱体化していく。だいたい、ヘッドハンティングというのは、海外スタートの習慣なので、外資に抜かれることが多い。
しかも、外資のほうが待遇自体も良い。ので、どんどん、日本人で優秀な人は外資系企業に吸われて行ってしまう。
日本では、あらゆる組織が同じかもしれない。つまり、山に例えるなら、山岳会、ということだ。
実際、横山ジャンボさん、佐藤ユースケさん、花谷泰広さん、菊地さん、ヒロケンさん・・・とあらゆるクライミングの著名人を見ても、誰も、”山岳会”を背負っていない。
スポンサーも、アルテリアとか。(え?外資?)
名刺交換するときに、「○○社でございます」と昔の人は自己紹介する。しかし、私が、労働市場にいた時代から、できる人は、「エンジニアの○○です。△△をやっています」と自己紹介するものだった。当時で、すでに20年くらい前である。
日本では、メンバーシップ型から、ジョブ型に移行中だが、これを山の世界でいうと
山岳会から個人の時代
である。
残念なことは、労働市場で起こっていることと同じで、やはり、山岳会に残らない、あるいは、山岳会をお荷物だと感じる、付き合いきれない人は、どこに収束するか?というと、海外、なのである。
■ レガシー
日本の岩場では、古いクライマーが、”俺が初登者だ。俺の登ったとおりに登る以外は許さん”と言って、今では陳腐化した”俺のクライミングの歌”を理解されたがり、その根拠は、そのほうが、”後に続くクライマーのためになるから”、ではない。
俺が(あるいは、私が)、”理解されたい”、つまり、”共感されたい”からで、それってかなり、個人的な理由である。
つまり、要約すれば、それは、”視野が狭い”、と言われる状況だ。
現代では、子供も登り、女性も登る。つまり、公共の意味する内容は、広がった。
時代の流れは、理解したくないが、自分の事情は理解してもらいたい、というのでは、態度としても子供である、ということは否めない。
伝統という言葉は、そうした個人の甘えをカモフラージュする口実に使われているに過ぎない。
もちろん、自分以外のクライマーのことを考える年配の人もいる。米澤さんは自分のためにボルトを打っているのではなく、現代の(登りが下手な初心者が中心の)大学生山岳部のために打っていたので、クラックの横にボルト、になってしまっていたのである。
(ちなみに、入門レベルのクラックでは、それでもいいのかもしれないという現象がアメリカでも起きているようである。人気がありすぎるルートでは、まだトラッドクライマーとして、クラック慣れする前のクライマーが来てしまい、プロテクションをきちんと設置できないので、事故が増える。事故を起こしてしまうくらいなら、ボルトを打っておき、そこでクラックに慣れてもらうのも手、ということだろう。クラックルートなら、なんでもかんでも、打っていいという話とはちがうだろう。しかも、同じサイズのカムが10個必要なルートとか、一体、誰がそんなに同じサイズばかり持っているって話ってなるし)
結局、若手で優秀な人は、海外に押し出されざるをえない…。つまり、日本の岩場ではなく、海外の岩場で登る…ってことだ。
それは、結局のところ、日本に優秀な彼らを活かす受け皿がないため、というのがわたしの主張だ。
日本の岩場で頑張っている小山田さんですら、別に会は背負っていない。
例えば、山岳会で、”若い人が来ない”という嘆きはよく聞く。
しかし、若い人が活躍できる場がない山岳会には、その会で育った人ですら残らない。
なら、その会に恩も何も無い人に、貢献を期待するのは、虫が良すぎる話だろう。(九州で何の好い目もみていない私に同郷のよしみで”見返り”を期待されてもねぇ…)
若い人の山岳会の側では、”もはや、伝統的に強いクライマーを輩出してきた山岳会の○○会ですら、アドバイザーとして、もはや機能できないのでは?”と思ったところで、代打が見つけられないので、くすぶっている、ということになっている。
若いだけに、誰に話を聞くべきか?という見極めすらできないでいる、というのが、実情だろう。
20年は長いようだが、短い。ゼロ歳だった子供は大人になる。20代だった人は40代になり、40代は社会を動かす主軸だ。しかし、40代だった人は、60代になり、60歳は個人差が大きい。70歳ともなれば、個人差は消え、もはや社会に何か価値を提供する活動をするという年齢ではない。林住期に入り、自分の人生を見つめ直す時期だ。
したがって、現在のアルパインクライミングを60代、70代がメインの構成員の山岳会…ほとんど中高年登山というジャンルのハイキングクラブと化している会に期待しても無駄だ。
では、誰に?
アルパインをしたいクライマーなら、アルパインを教えると題している講習会に自腹を切って出るしかない。
フリークライミングだったら、アルパインほど状況依存が少ないので、たぶん、ちゃんと菊地さんや北山さん、中根さん、海外のギュリッヒの本などを読めば、大抵のことはカバーできる。(外岩に登りたい人が、スポーツクライミングの本を読んでも仕方がないですよ? 別物なので)
そして、一通り外岩でフリーが登れるようになったら…私がやったように、海外に出ていくのがオススメである。
最初は、ラオスがいいと思う。もう山岳会の冬合宿も、ラオスにしてしまうのがいいのでは?と思うくらいだ。
なんせ、アルパインの基礎力はフリークライミングなのに、若い人が身につけそこねているのは、フリークライミング能力なのだから。そのフリークライミング能力の意味するところは、決してムーブではない。
海外では、20代の若い男性が、5.8でパートナー募集をしている。ちょうど、初心者バンド仲間募集くらいのノリだ。おれギターやるから、誰かベースやらない?程度の話で、プロ級の腕前も要求されない。
これは、5.8で落ちても死なない、整備された岩場環境があるからで、日本の岩場では同じことはできない。
クライミングというスポーツの裾野は海外のほうが当然広い。5.8しか登れない初心者のクライマーも、もちろん絶対数として海外の方が多い。
日本の男性は、”ねぇ、お母さん、見て見て!”を卒業しないといけない。ジムで自信をつけて、外岩に来るのはいいんだが、それと同じことを外の岩でやって、「よくできました☆」と言われたがっている…というのは、見ていれば理解できるが、全く外岩は別物なので、頓珍漢な行為だ。そもそも、誰かに見てもらって感心されたいという気持ち自体を卒業しないといけない。
外の岩とボルダリングジムの壁は全く別物だ。外岩にはスタイルの問題がある。ただ登れた!だけでは、「よくできました☆」とはならないのだ。まぁ、初心者が完登したら、誰でも親心で言ってはくれるが、ボルダーのように登れさえしたら何でもあり、ではない。
そんなことも、10年登っていても分からないのが、現代のクライマーのあり方だ。それはどれだけ長く岩に接しても、主眼になっているのが、俺がかっこよく見えるかどうか、だからだ。最初の入り口としてはいいが、いい加減、目を覚ましましょう。現代クライミングって、V15って世界なんですよ?
しかし、そんなことすら、自分で理解できないようでは、誰もヘッドハンティング(師匠になりに)に来てくれない。
断っておくが、私に2名の師匠がいたのは、私が師匠を求めたからではない。あっちから来たのだ。
40代のおばさんクライマーが、一撃できるような課題を、粋がって登るような人には、要するに、”誰も付き合いたくない” のである。5.12が登れても、トポも用意してこない人も同じだ。
なんせ、ローワーダウンの練習せずに岩場に来てしまった、みたいな理由で、落ちて死なれても、後味が悪い思いをしたり、レスキュー出動するのは、同行者である。
岩場のローワーダウンで、「僕、降りれませーん」という人は現実に存在する。課題のランナウトで、課題に、”来るな!”と言われる以前の問題だ。登ったら降りないといけない、のは、誰でも考えたら分かることなのだから、降りる練習くらい、下界でやってから行かないといけないことくらい、猿でも分かる。
アメリカに要る頃、語学学校に留学した友達が、全然、喋れるようにならなかったので、愚痴っていた。「考えてみたら、語学学校にはアメリカ人はいなんですよね」なんて言っていた。が、そんなの、日本にいるときに考えたら、すぐ分かることでしょう…
こんな調子で、日本の若い人は、伝統的に 思考停止 しているわけである。
従って、年配の人がもはや頼りにならないのは、”いい加減、目を覚ませ”って言うわけなので、良いことなのだ。
語学学校に行ってもアメリカ人はいないことが事前に分からない人が行くのが、山岳会、である。
登山の技術を教えてもらいたかったら、登山技術を持っている人が開いている講習会、に行かないとその技術は手に入らない。
そんなの、当然のことですよね。