■ いがみ合いのもとに敏感
小川山のトポに書かれた菊地さんのフリークライミング小史を読んで、花崗岩派と石灰岩派がいがみあっているらしい…と推察したのだが、
諍いの元凶が何か
を文脈から読み取れてしまう能力…は、子供の頃の傷、だと思った。
私は父方からも、母方からも、双方にとっての、初孫で、母と2人のおばあちゃんが、初孫を巡って、競い合う、という関係にあった。
いがみ合いの元は、赤ちゃんのわたしで、どちらも、赤ん坊を独占したいという所有欲が諍いの元。
なので、個人を愛情から、所有したい、という人が出てくると、私の感情の流れとしては、
冷める
のである。やれやれ、また誰が誰を所有するって話か…みたいな感じで。どうせ、所有欲が満足するまで、互いに喧嘩してやり合うんでしょ、みたいな。
赤ん坊の頃は、結局、子供には母親が一番なので、双方の祖母が諦め、母の手に委ねられると、今度は、赤ん坊が泣いても、母親が対応できないというケア不足に陥るということになる。赤ん坊は母親一人で育てられないのは普通のことだ。そこで母親が他社の介入を拒むのは、母親の自殺行為ってだけでなく、子供にも悪影響を残す。
ので、親の愛が、煩わしいか、もしくは、全く足りない、という愛情についての原風景を赤ん坊の私に与えることになった。
■ プラスの側面
ぴったり過不足なく与えられる、ということが、私自身には私自身についてできるので、
自分で自分の親をする
ほうが良い。
と結論。これが、独学のスキルに繋がったと思う。丁度スキルのレベルに合った課題を自分に与える力がある、ということ。
登山を学んでいる際も、例えば、積雪期の八ヶ岳権現とか通ったが、さんざん、素人のくせに危ないと悪口を言われたよなぁ…。
いや、あれくらいの山、素人でも登れなかったら、山やとしての才能ゼロレベルですよ。
■ 弊害
なので、世間一般の低くなった水準の方に、私を合わせようとしてくる人が多い。
これは害だ。
なぜなら、私は、中学までは、クラスで特にガリ勉しなくても、一番か2番の成績優良者だったのです。学年で言っても、調子が悪い時で5番を下ったことがないです。
日本社会では、偏差値で割り振られた社会集団に属すので、そんな私でも、三井物産にいたときは、みんな賢いから快適~ この中では私はバカな方だなーと思っていたのですが、そういう偏差値で関門がない世界…たとえば、山岳会、などに来ると、
え?!こんなことも分からないの?
ってことが多いです。
■ 事例
例えば、ビレイでは、「落ちる人をキャッチした経験がないとビレイは習得できませんよ」と言ったら、
「俺はバカでした。言われたらその通りなのに、今までビレイで落ちる人をキャッチしたことはありませんでした。ロープを持っているだけで、ビレイはマスターしていると思っていました」
って返事でした。これで、え?ってならない人、いるんでしょうか?
九州で5年クライミングをしていたと自己申告してきた人です。九州ではクライミングを誰もきちんと教えていないです。
■ まとめ
というわけで、自分に与える課題が、背伸びすぎている、ということはあまりない。
世間のほうが、頭悪すぎ、ということのほうが多い。
所有欲を主張されると、萎える。
自由を尊重されると、愛されていると感じる。
過保護にされると、疎ましいか、バカにされていると感じる。
というのが、わたしの取説です。どうぞよろしくね!