2019/10/20

自己犠牲としてのリードが存在しなくなった現代フリー

■ 昔のアルパイン=自己犠牲

ちょっと考えて閃めいたのですが、昔のアルパインクライミングにおいては、

自己犠牲が美化されていた、

と思います。例えば、

1)誰かが足を滑らせそうになった場合に、自分が下敷きになって自己犠牲する(多くの人の面前で)

2)下手くそなビレイでも登る

3)山において上げ膳据え膳= 歩荷してあげる、道案内してあげる、車で送ってあげる

…と全体に冒険的要素が少なくなる、ということです。段々、冒険がなくなり、安全で分かり切っていて当然になる…

です。これは、最初に山を教えてくれたガイドのM上さんが持っていた感性でした。

しかし、山って遊びです。ので、そんな自己犠牲、誰も頼んでいない。

■ 神風特攻隊気取りの山

神風特攻隊に、往年のクライマーが自分をなぞらえていることにも驚きました。

それは庵で知ることになったのですが、神風特攻隊はお国のために死んだ人たちで戦争という話でしょう。

いくらランナウトしていても、国家の威信をかけたマナスルなどならともかく、九州の山地の岩場では、特攻隊のつもりで山に挑んでも、特攻隊気取り、にしかならないです…。

残念ながら。その気取りを可能にするためのか弱き性=女性、だとしたら、茶番に対する道具立て程度にしかならない…。しかし、九州あるある、のような気がしてしまうのは、九州出身なので、自己批判とお許しください。

リード=自己犠牲=神風特攻隊的ノリ=かっこいい俺

と昔は繋がっていたのだと思います。しかし、そうでなくなってから30年くらいは立っているみたいです。

現代の落ちることが普通で、誰も命を掛けないでいいフリークライミングでは、その方程式は成り立たない…

■ リードしないと楽しくない…

現代のフリーでは、支点がしっかりしている限り、リードしないと緊張感が足りなくて、楽しくない。

リードクライマーの価値の低下が著しい…(笑)。

年配のクライマーは、若手にリードしてもらいたがります。それで気が付きました。リードしないと楽しくないというか、現代スポーツクライミングでは、5.6からリードしているのが普通なのです。

私はアルパインで、私が落ちるグレードのところをリードさせられるのが嫌なのです…。

アルパインは2、3グレード下からです。

丸3年懸垂も知らず、歩荷力ゼロ、読図力ゼロ、すべての時間をマルチに使っていた人が、5.7の二子山中央稜のリードを課題にするそうですから、私自身もそこからスタートしたいと思います。

■ もし、私が5.13登れたら

私はもし、私が5.13を登れるようになり、何も怖がらないとしたら?たぶん、そう言う人は自分を可能にしてくれる人がいなくなって、私から去っていくのではないでしょうか?

頼られる、には、頼ってくる人を必要とします。

イネイブラーというわけです。しかし、もし私が登れてしまったら、それこそ、

 ”可愛くない”

かもしれませんね?それは、まだ未知数のエリアですが、私は背が低く、優位性が属性として少ないですので、長い間イネイブラーでいれる、ということになるのかもしれません。

イネイブラーとして、価値が高いということだったら、とっても残念だなぁというのが、感想です。

別の活動しよ~