■ 昔のアルパイン=自己犠牲
ちょっと考えて閃めいたのですが、昔のアルパインクライミングにおいては、
自己犠牲が美化されていた、
と思います。例えば、
1)誰かが足を滑らせそうになった場合に、自分が下敷きになって自己犠牲する(多くの人の面前で)
2)下手くそなビレイでも登る
3)山において上げ膳据え膳= 歩荷してあげる、道案内してあげる、車で送ってあげる
…と全体に冒険的要素が少なくなる、ということです。段々、冒険がなくなり、安全で分かり切っていて当然になる…
です。これは、最初に山を教えてくれたガイドのM上さんが持っていた感性でした。
しかし、山って遊びです。ので、そんな自己犠牲、誰も頼んでいない。
■ 神風特攻隊気取りの山
神風特攻隊に、往年のクライマーが自分をなぞらえていることにも驚きました。
それは庵で知ることになったのですが、神風特攻隊はお国のために死んだ人たちで戦争という話でしょう。
いくらランナウトしていても、国家の威信をかけたマナスルなどならともかく、九州の山地の岩場では、特攻隊のつもりで山に挑んでも、特攻隊気取り、にしかならないです…。
残念ながら。その気取りを可能にするためのか弱き性=女性、だとしたら、茶番に対する道具立て程度にしかならない…。しかし、九州あるある、のような気がしてしまうのは、九州出身なので、自己批判とお許しください。
リード=自己犠牲=神風特攻隊的ノリ=かっこいい俺
と昔は繋がっていたのだと思います。しかし、そうでなくなってから30年くらいは立っているみたいです。
現代の落ちることが普通で、誰も命を掛けないでいいフリークライミングでは、その方程式は成り立たない…
■ リードしないと楽しくない…
現代のフリーでは、支点がしっかりしている限り、リードしないと緊張感が足りなくて、楽しくない。
リードクライマーの価値の低下が著しい…(笑)。
年配のクライマーは、若手にリードしてもらいたがります。それで気が付きました。リードしないと楽しくないというか、現代スポーツクライミングでは、5.6からリードしているのが普通なのです。
私はアルパインで、私が落ちるグレードのところをリードさせられるのが嫌なのです…。
アルパインは2、3グレード下からです。
丸3年懸垂も知らず、歩荷力ゼロ、読図力ゼロ、すべての時間をマルチに使っていた人が、5.7の二子山中央稜のリードを課題にするそうですから、私自身もそこからスタートしたいと思います。
■ もし、私が5.13登れたら
私はもし、私が5.13を登れるようになり、何も怖がらないとしたら?たぶん、そう言う人は自分を可能にしてくれる人がいなくなって、私から去っていくのではないでしょうか?
頼られる、には、頼ってくる人を必要とします。
イネイブラーというわけです。しかし、もし私が登れてしまったら、それこそ、
”可愛くない”
かもしれませんね?それは、まだ未知数のエリアですが、私は背が低く、優位性が属性として少ないですので、長い間イネイブラーでいれる、ということになるのかもしれません。
イネイブラーとして、価値が高いということだったら、とっても残念だなぁというのが、感想です。
別の活動しよ~