次の文章は、クライマーの行動原理について語っています。
- クライマーの行動は、本人だけしか理解できない内なる声に動かされています。
- チッピングは、過去の傷つきが原因で、「俺なんて」とふてくされている小さな男の子の心の叫びです。
- 違法駐車、雄たけびなど、社会規範の逸脱は、男性性の傷つきが原因です。
- クライマーに必要なのは、承認ではなく、一緒に登る仲間です。
- クライマーを批判するのではなく、慈悲の心で接し、一緒に登ろうと誘う。
- クライミングの本質は遊びであり、誰が一番でもどうでもよいことを理解する。
- メディアの賞賛に惑わされず、自分たちのペースで楽しむ。
**行動指針**
- クライミングは遊びなので、楽しくなければ意味がない。
- 一緒に登る仲間を増やし、互いを尊重し、共に成長する。
- 過去の傷つきに囚われず、今この瞬間を大切に登る。
- クライマーの行動を理解し、批判せず、温かい目で見る。
- 一緒に登ろうと声をかけ、仲間を増やす。
- クライミングの本質を忘れず、自分たちのペースで楽しむ。
- この文章は、クライマーの行動原理を理解し、共に登るためのヒントとなるものです。
- すべてのクライマーに当てはまるわけではありません。
- クライミングは、様々な楽しみ方ができるスポーツです。
クライミング
チッピング
男性性
遊び
慈悲
■ 本文
行動原則を指摘する、ということ。
昨日は、神先生のセッションをデモで見せてくれる日で、6回のうちの最後の会でした。
それである公務員の男性が、クライエント役になりました。
その方、なんか女性に対して蔑視があるなぁ…男が上だと思っている様子が、体からにじみ出ているなぁ…と、私の方からは感じられる人でした。
まぁ、私のことは苦手だろうなぁ…。私と言うか、枠からはみ出ているタイプの人全員が嫌いなんですよね、そういう人は。
世の中の大体の男性(標準的な日本の教育システムで男女観を身に着けた人)は、自分より上か下かで相手を計るので、自分のモノサシに入らないタイプの人は嫌いです。
公務員には多いタイプ…自分で自分の枠を決めて自分で勝手に入っているのに、なぜかそれについて、なんで俺が!と怒っているタイプ…。
実は、私の最も苦手なタイプです。私自身が、もうそれこそ子供‥まだ6歳とか7歳とかで、困難に直面し、それを乗り越えてきたので、枠は自分で広げていくものだ、という人生経験があり、そこに成功体験を持っているからです。そういう人から見たら、あなた、何に囚われているの?って感じで、意味不明な怒りをぶつけられても、ただの八つ当たり、だからです。
いますよね、おじさんで、飲むと絡んでくる人… 承認されたいんだろうとは、誰でも分かりますが、めんどくさい。だから人が離れていく。離れれば離れるほど、さらに承認されたくなるという悪循環…。
■ 非言語に注目
しっかし…、その人が夢を語ってくださいとコーチが促すと、本当に嫌そうに、苦虫をかみつぶしたような顔で、夢を語るのです…。
そういう非言語の本音を見た場合、「それって、夢でも、なんでもないんじゃないの?」と、グサッと、ほんとのことを言うのが、子供のころの私でした。無邪気な子供は、鏡のように相手の心を映し出すので、本当の意味でのコーチなんですよね。あなたの心の鏡、って意味です。
子供時代は誰でも無邪気なので、私も例にもれず、それを母にやって、私は、「は!かわいくない!」と母に言われるので、その攻撃が不本意で、”はぁ?”と思って、黙ってしまうという自動行動を作りました。つまり、これが私の行動の制限でした。
大人になってからは、本当のことを言うのは、失礼なんだな~と理解して、相手の失礼さを黙って見守るようになりましたが…これは良くないですね。
黙って見守る=ドアマットにされる、です。
さて、それで、その男性は、コーチからこういわれるのです。
「ちょっと待ってください。夢を語るのになぜそんなに楽しくなさそうなんですか?」
と言われ、しばし沈黙…。
「今、何が起っていますか?」
と言われると? どうも、怒りの感情や、依存的感情を、コーチに向けるのをやめ、自分の内部の感情を探索し始めるようです。
■ 足りないのは内省力
この「今、何が起っていますか?」という促しが、
現代日本人には全く足りていない
んですね…。
私は実はあまりに人生がつらかったので、小学生から日記をつけています。
が、みんなはつけていない…。だから、内省する力が育っていないのです。
その内省力の欠如を埋めるのが、コーチ、なんですね。
■ 団結
その内省力をサポートしますよ、というのが、作業団結…一緒に作業していきましょう、と言うことです。
私はこの力が強いので、よく学生時代も、人の人生の問題解決を手伝ってきました。
しかし、これがお金になるスキルとは、考えたことがなかったです。
■ 神先生のようにセッションを見せることで、一度に多くの人の思い込みを解決することができる解決が早くなる
さて、この方のセッションを見たことで、クライマーについて分かったことがあった。
彼らは、私個人やチッピングされているクライマー個人、あるいは、岩場がある地域そのもの、をいじめようとしているわけではないということです。
彼らの内部の、”非常に個人的な行動原理”、その人しか理解できない摩訶不思議な内なる声…に動かされて、なぜか、他人には、一切、理解できないような行動をしているんですね。
その声は、パーソナリティを構成する人格のうちの一つです。
例えば、チッピングを例にとると、「小山田大だけ、いつでも開拓の名誉をもらっていて許せん!」みたいな声が内部にあるわけです。
もう、この声を解析しただけで、誰が何を許すの? みたいな意味不明な声ですよね?
しかし、それを彼の内部で、誰かが言っているんですよ、その人の中で…。
そして、さらに別の人格が「そうね」と言い、「なら、あいつのルートをチッピングしてやれ!」(CP自我)というわけなんですよ…。
その別の人格が「おい、待て」というが声(A自我)は消え入りそうに小さく、代わりに、「そうだ!そうだ!」(FC自我)とけしかける…。
その異様な循環にいるわけですが、その分裂したパーツと呼ばれる自我による、内的会話が行われている間、彼の本当の自己…真我とヨガではいいますが…は、全く何も言わないんですね…。
すっかり偽りの自己(パーツと呼ばれる自我の一部、小さい自己=エゴ)に取り込まれてしまい、本当の自己がお留守になってしまうんですね…。
もしかしたら、学校だか、なんだかで、もしかしたら好きな女子にカッコつけたのに気が付いてもらえなくて傷ついたのかもしれません…。
その”チッピングを肯定する”自己が彼の中で巨大化した”きっかけ”は、本人にしか分からない、摩訶不思議な出来事があったわけです…。彼本人は、そのことを何歳になっても、引きずっており、それを克服しようともがいている=それがチッピングを繰り返す行為、なわけなんですよ…。
でも、チッピングって単なる明確な道徳違反なので、彼が欲しい承認は一生得られない…なんという悪循環でしょう!
たぶん、声にならない小さな内なる声が、そんなことをしていても何にもならないと言っているのですが、それでは彼には分からないんですよね…。
■ クライマーが起こす社会問題 ニアイコール 男性の精神病理
違法駐車に山火事、雄たけび、放尿、うんこ垂れ流し、不必要なランナウト、「俺が男だー!」とちんちん丸出しにして、叫んでいる割には、誇示している一物が、ミニチュアサイズなんですけど?みたいな、40m5.8ランナウト…って、そうした社会規範の逸脱ができた背景には、どれほど深い、
男性性の傷つき あるいは、小さな男の子の傷つき…
があったことか…ということが想像できませんか?
もしかしたら、幼少期にお母さんを助けてあげられず、おれなんて、と意気消沈したのかもしれませんし、仕事で実績を上げられず、クライミングの実績だけにしがみついているのかもしれません。
妻にどうしても認めてもらえなくて、あなたって駄目な人ね…と長年、非言語に受け取り続けているのかもしれません…。
どちらにしても、要するに、こういうことなんですよ…。
なので、
・チッピングする人、
・わざと自分を破滅に追い込むような行為をしている人、
の中には、実は
俺なんてとふてくされている小さな男の子がいる、
ってことなんですよね。こういう小さな男の子に必要なのは
慈悲のこころ
です。
男性は、この慈悲の心を恋人になる女性に求め、女性は、共感性の高さから、かわいそう、と無条件に思ってしまいますが…。よく考えたら、何がかわいそうなの?全然かわいそうではありません(笑)。そして、女性の心をゲットできた成功体験が一度でもあると、この手が使える!と分かった男性側は、同じ手をいつも心理ゲームとして仕掛けてきます。こないだも、体育会系の迷惑おじさんが、3回結婚した、と自慢していましたが、それって自慢にならないでしょう?3回も女性に捨てられたってことなんで。もしあなたがそんなに素敵な人なら女性は手放さないです。というわけで、女性は心が優しく、男性が仕掛ける心理ゲームに載ってしまうと、一杯食わされます。もう、クライミングでは嫌というほど、このゲームを仕掛けられていました。
クライミング界に、本当に必要な慈悲の心は、
一緒に登ろうよ
です。本当は、その子も、一緒に遊びたい、のです。なぜなら、
クライミングの本質は遊び
であり、それ以上でもそれ以下でもないからです。
クライミングに不必要な名誉をなぜか与えてしまったがために、なんか変なことになっていますが、クライミングをはじめすべてのスポーツは遊びなんですよ。遊びなのですから、楽しくないと意味がありません。遊びなのですから、誰が一番でもどうでもよいというか、一時的なことです。
特にフリークライミングって、5.14でやることも、5.9でやることも基本同じというか、延々と同じことをみんなで繰り返している感じです。なんでトップクライマーだって、一般クライマーだってやってることは同じなんですよ。
ただ雑誌やSNSのメディアの賞賛が変な方向に向かってしまい、世界最高難度しか価値がないみたいな世界観を作ったがために、一般クライマーたちの心に影を落としているだけです。
そんなことは関係ないラオスみたいな世界に触れると分かりますよ!
傷ついたクライマーはみな、ラオスに行って、国際社会で癒されて帰って来ましょう!
一緒に登ろうよ!と言えば、みんな、一緒に登ってくれますよ!英語力なんて要りませんよ!いるのはきっちりしたクライミングシステムの理解です。残置に直掛けなんてしていたら、あちゃー!ってなるだけでしょう。