訳: ナルシストは、パートナーではなく、使用人を求める
→
類似事例:
ナルシストは、妻ではなく、家事使用人を求める
ナルシストは、恋人に妻ではなく、自分の両親の介護要員を求める
あなたの反応について焦点を当て
自分があなたをどう扱っているか?
には焦点を当てない…
という行為によって行われる。
■ あなたを責める、という行為によって、あなたの行動をコントロールしようとします。
事例1)
「ピンが遠い。たぐり落ちのリスクが大きい」
→
「俺はそうは思わない」
事実:https://allnevery.blogspot.com/2024/04/blog-post_19.html
事例2)
つまり、私が、問題にしているのは、
クライミングパートナーの生命が、大事にされていない、ということなのに、
お前の書き方が悪いと論理のすり替え、されています。
(書き方が悪い)のと
(クライミングパートナーの命)の軽視
とどっちが重たい罪ですかね???
100歩譲って、私の書き方が悪いとして、そもそも、この記事を書く動機になったものは
男尊女卑、のその在り方
もし男尊女卑でないならば
リードクライマーの俺のほうが上だ、下のやつは言うとおりにしろ、
というあり方です。
俺は、相手の命を軽んじてよい
っていうのは、どういうあり方なのでしょうか?
このブラックメールの送り手の論法だと、そういうことになってしまいますが。
https://allnevery.blogspot.com/2024/06/blog-post_1.html
■ ナルシシズムの擁護
クライミング界は、伝統的に、ナルシシズムの擁護に走りがちです。
このブラックメールの送り手が最初ではありません。
一人目は
本間沢での失敗を相談した無名山塾のリーダーさん
でした。この時はかなりそのリーダーについて失望しました。この人は、ロープを出さずに死者が出た滝に取り付こうとした男性を、言って聞かせれば済む、と私に助言してきました。
優しく言って聞かせる
って、たぶん、女子に有効な手段で、子育てのエキスパートは、男子は言って聞かせても聞かない、って知っていると思います。
そのほか、ナルシシズムの擁護という点で私が見聞きした事例は
阿弥陀北稜に一升瓶担いで登り、凍傷者3人
です。私の所属した御坂山岳会での出来事です。この山行は、行く前から敗北が見えていました。賢い先輩は、ただ参加しなかっただけで周囲のメンバーが行くことを止めませんでした。そのあと、この山行を批判した私は、会から干されました。
でも、殺されるくらいなら、干されたほうが良くないです?
あと、最後はマルボーさんの事例です。
私に私を殺しかけたアラーキーと一緒に登ればいいって
言ってきたんですが…。
どうぞ、マルボーさんがアラーキーと登ってケツ拭いてやってください。私はいやです。
■ 自己陶酔的なクライマーと一緒に登ってしまい、個人的な攻撃を受けた場合の対処法
完全に健康的なクライミングライフを軌道に乗せることは、自己陶酔的なクライマーのクライミングパートナーをやってしまった人にとっては、簡単ではありません。
■ 対策
1)ナルシシズムについて、できる限りの本や動画を読んで勉強する
ナルシシズムについてもっと学ぶことで、自己陶酔的なクライマーが、あなたにどのような影響を与えたかを知ることができます。
また、回避という手段を取る、今後の対策になります。
2)悲しむことを自分に許す
相手と登った時代を帳消しにすることは決してできません。しかし、自分が心から愛し、信頼できるクライミングパートナーを持てない、という事実を悲しむことが重要です。
問題の真実を受け入れることが、癒しへの第一歩です。
3)同じ境遇のクライマー”スケープゴート”に手を差し伸べる
自己陶酔的なクライマーは、スケープゴートとして 1 人を選ぶのが一般的です。
他のクライマーには、同じ行為をしないかもしれません。
その結果、スケープゴート化された、あなたは、孤独に陥るでしょう。
周囲の人に相談しても、「気にしすぎだ」とか、「私はそう思わない」「あなたの思い過ごしだ」とか言われ、まるで、あなたが個人的に被害妄想をまき散らしているか、のように言われるだけでしょう。
その場合、きちんと境界を確立し、罪悪感や恥ずかしさを感じることなく、自分のニーズを満たすために必要なこと…例:カウンセリング治療…を行います。
山岳会には、長く、危険を分かっていても相手のナルシシズムのために、危険というよりも無謀と言えるを山行を強要されてきた人たちがおり、その人たちは、性虐待被害者と同じ立場に降り、何十年にもわたる沈黙を守っています。
事例: 一升瓶を担いで阿弥陀北稜 = 凍傷者3名
3)境界線を引く
自分と自己陶酔的なクライミングパートナーとの間に、距離を置く必要があることを認識します。
距離を置くことは、自己陶酔的なクライミングパートナーを憎むことを意味するわけではありません。
しかし、有毒な関係から自分を取り除くことは、あなたの幸福にとって重要です。
たとえ、それがクライミング自体と離れることになったとしても、心の健康のほうが、大事です。
4)助けを求める
自己陶酔的なクライマーのクライミングパートナーにされてしまった人は、破壊的な行動パターンから抜け出し、健全な関係を築くことを学ぶために、集中的な心理セラピーを必要とすることがよくあります。
ラオスで登攀中のワタクシ参考:
https://www.paracelsus-recovery.com/ja/
クライミング界に蔓延しているのは、主に男性メンバーによる
浅慮
である。つまり、
思慮の浅いこと。
浅慮に、殺されたり、殺されそうになった人の思いは深く、つらい。
思慮の浅い人間を作るのは?
教育の不在なのだろうか?
それとも、本人の資質なんだろうか?
それこそ、考えていない、つまり、浅慮、なのであろう…。
■ 社会的構造
思慮が浅いままの人間でも、楽勝で生きていけるように、構造的に作られてしまっているのが日本社会で、結局、弱者を再教育するよりも、その弱者のまま、考えないでも済むように、周囲がおぜん立てしてしまっているのが問題なのである。
たとえば、
残置直がけが九州のローカルルール
というローカルルール…
クライミングの終了点に関しては 歴史的遷移がある。
JDT(ADT)
→ 流動分散 →
→ 固定分散→
→ クワッドアンカー
で、現在ではクワッドアンカーが主流である。情報が伝播されないのは、山岳会が衰退したことにより、中央組織をトップとするピラミッド構造による情報伝播が上手く、機能しなくなったためだ。
■ 現在でもJDT、ADTが健在
実はアルパイン業界でも、JDTやADTは、いまだにご健在である… 古いクライマーは、新しいギアを購入しない。ので、結局、取り扱い説明書を見ない。
その上、古くからの教育をそのままにしている。古いクライマー自身は人工壁に通うことをしないので、情報がアップデートされない。
その上、山やということなので、ITをはじめとする情報機器とは無縁である。
そこが問題だが、そこを問題とは多くの人は捉えていないだろう… ずっと自分の古い技術を信じ切っているからである。
JDT(ADT)に関しては多くの記事が出回っているので、検索して勉強してください。
https://allnevery.blogspot.com/2021/07/jdtadt.html
教える側がこれでオッケーと思っている、っていうのが問題点である。
これなど、年に一回、ロクスノが、新人が入る4月号に毎週終了点特集を昨年の記事と異なる筆者に書かせれば、いいだけだろう。
山下さん、なんて、いい記事書いてくれると思いますけど…。
http://ifmgaguideyamashita.livedoor.blog/archives/280010.html
■ エチケットとして、浅慮はダメの空気感を醸造する
まぁ支点に関する知識が育っていないことの背景には
クライミングの倫理観として、男性の浅慮が肯定的に受け取られているクライミング文化がある。
それは、射精責任が問われず、男性の性欲に負けて、うっかり…という妊娠…という重大結果の責任…つまり子育て負担…を女性の側が受けてしまう、そしてそれを社会が男性を擁護し、女性を擁護しないという構造と同じである。
たとえ、そのセックスが女性の側にとっても快楽だとしても、それで男性とはイーブンであり、その女性一人が妊娠・出産・子育ての20年にわたる負担を一方的に背負うべきだという男性の主張には無理がある。
快楽5秒、苦役20年なら、女性にとってセックスや妊娠、出産、子育ては、全く割に合わない。
したがって、セックス自体をしたい、と思う女性がいなくなるだろう。
同じことで、クライミングも、白亜スラブは例えるなら、ほとんどレイプされたのと同じで、まったく喜びがなく(つまりエイドではなくフリーで登る箇所がなく)、一方的に尽くすだけのクライミングで、その上命まで取られそうになった、最悪のクライミングであった。
そんなクライミングで自信をつけていた相方。例えるなら、相手の様子など不在で、自分の射精だけが目的の男性と同じことだった。
私の屈辱は、まるで、自分の体を2000円で差し出してしまった売春婦のごとくだった。
東電OLと同じ気分ってことだ。
クライミングにおけるパートナー関係は、世間においては、弱者男性に身を売る弱者女性みたいな構造になっています。
それが、ほとんど真実だと思う。
日本社会の病理は、クライミング界に如実に表れているのである。
クライマー同士のホモソーシャリズムにゲンナリな記事が続きましたが…
良いニュース到来♪
https://the-tribe.jp/event_exhibition/2024/exhibition/06_wnakajima/wnakajima.html
トークイベント
「初登を巡る対話Ⅰ」
中嶋渉 x 草野俊達
2024.06.27 19:00ー21:00
坂下直枝さんの企画みたいです。やっぱり日本のクライミングのドンはロストアローですよね!
森山編集長なき後のロクスノ、全然だからなぁ…
日本では、マスメディアのコストは下がっているので、ぜひYouTubeにアップして、情報の伝播に務めてほしいです。
鈴木英貴さんとか、今、展示されているところみたいです。
日本人により、海外で知名度の高いクライマーです。
私の個人的意見によれば
一流クライマーのクライミングに接する機会を持たない一般クライマーの増加
が、
リスク認知ゼロ型、俺かっこいいだろ型クライミング
を推進してしまったと思います。そりゃスポーツクライミングしか推進してこなったんだから、
・競争に勝つ
・リスクはない
を前提にモノを考える人が増えたのは、原因と結果の法則通りのことが起きているに過ぎない。
スポーツクライミングを振興してきた人が、自分で責任を取って、岩場のリスク管理について、現代のジム上がりクライマーに、
優しく丁寧に何度も
教えてあげるのがいいんじゃないですか?
女性の母性に頼って、俺を男にしてもらおう
ってのは無しにしてもらいたいです。
■ 防衛機制の置き換え(displacement)
は、読んで字の如く、自分の感情を元来の対象に向けずに、違う対象に置き換えて発散することです。
その感情を直接ぶつけると危険で不安を呼ぶために、危険でない対象に向けて発散すること
平たく言えば八つ当たり。
https://suzuki-akiko.com/5734/
こちらのサイトに出ている事例が興味深いです。こんなのも置き換えなのー、です。
事例:
職場で上司に怒られた父親が、帰宅後にその鬱積を妻に向かって発散する(例えば、先日の出来事を蒸し返して文句を言う)。妻は、子どもに向かって鬱積を発散する(些細なことで怒る)。子どもは、飼い犬に向けてウサを晴らす。
パートナーの浮気が発覚した際に、怒りをパートナーに向けるのではなく、パートナーを「騙した」浮気相手に向ける場合です。パートナーに怒りをぶつけることで、パートナーの気持ちが一層離れてしまう不安があるために、無意識のうちに怒りの矛先を浮気相手に置き換えている例です。
・フェティシズムは、性欲の対象を人からモノに置き換えている
・自分のいら立つ感情のやり場に困って、家人が迷惑に感じる程のすごい勢いで家中を大掃除する場面がありましたが、これは行為への置き換え
・過干渉な母親への不安を無意識のうちにクモに向け、異様にクモを怖がる女性の例があります。クモから逃れることで母親から逃れられると無意識に感じることが、恐怖症として現れていると考えられます。
・無意識のうちに橋を渡ることを異界への移動、つまり死を意味していると捉え、死への不安を橋に置き換え、橋を渡ることに恐怖を抱く
・新型コロナウィルス感染拡大に際しての「自粛警察」
・組織で「スケープゴート」的に「社会的弱者」「少数者」に怒りが向けられることもある。
・例えば、同僚が産休に入り、そのために他の同僚の仕事の負荷が増した場合、それは本来は対策を取らない職場のマネジャーの責任ですが、怒りが産休を取得するスタッフに向けられる場合
■ クライミングで
小鹿野では、女性クライマーが登れないようにホールドを削るというのがこれですね…
全く八つ当たりされている側の身にもなってよね。
そんなんだから、女性にモテないんですよ(笑)。
https://suzuki-akiko.com/5240/ よりまとめます。
⑥身体化 (somatization)
抑圧された感情や葛藤が無意識に身体症状になって現れる防衛です。
身体化によって、葛藤や衝動、感情に意識上で向き合うことを避けることができ、自我の安定が保たれると考えられます。
脳は身体の一部であり、身体から切り離され独立した監督者ではありません。身体と思考、心は互いに密接につながり影響しあっていて、思考は身体に対してリーダー格というわけでは決してありません。
身体化の例1)
「成績優秀な生徒が高校に入学し、特進学級に入る。有名大学進学のプレッシャーの下、毎日勉強に励むうちに、1日に20回程度失神するようになり、受診」。
この例では、「勉強をしたい欲求」「勉強すべきという価値観」と、「休養したい欲求」「勉強をしないことへの不安」とが葛藤し、その葛藤が身体化していると考えれられます。
また、極端な的な例としては、運動選手のイップス、歌手の失声などがあります。
私のアキレス腱断裂と悪性貧血は身体化と言う防衛機制が働いた結果ではないかと思います。
防衛機制⑦ 行動化
行動化 (acting-out)は、言語化されない無意識の衝動、欲求、葛藤、感情などを行動によって表現する防衛です。行動化によって、その無意識の衝動等に意識的に向き合うことを回避し、自我がその安定を保つことができると考えられます。
行動化が防衛として未熟なものと分類されるのは、無意識の感情等について言語化がされていない段階での防衛であるからです。つまり、発達段階でいえば、言語獲得以前の乳幼児期から私たちが使ってきた防衛だと考えられます。
私は、水に対して、子供のころ行動化していました。母が水泳部に私を入れようとしたとき、公園に行って、水着を水でぬらして、行ってきたーと言って帰ってきていました(笑)。バレバレですが、誰にも何も言われませんでした。
行動化は一般に、言語化の回避のようです。
意識化を回避したい無意識の葛藤や欲求があり、それを抱えきれずに無意識に行動に移す。
感情的に明確に把握 (emotionally articulate)できていないものの表現である。
⑧ 極度の解離
身体離脱症状のことです。
自分の適応能力をはるかに超えた苦痛や経験から自我を守るために、その時の感情、思考、体験を自我から切り離すための防衛として作用する解離もあれば、日常的で問題のない解離もあります。いずれの場合も、通常であれば、感情、行動、経験、意図などが自分の体験として統合されるのですが、解離によってその統合が失われます。
日常生活で起こる解離としては、テレビに夢中になって周囲のことに反応しない、飲み過ぎた夜の出来事を翌日になると全く思い出せない、などがその例です。
私はアイスクライミングで、相沢大滝55mをリードしているはずなのですが…乖離していたのでしょう、全く現実感がありません。あれってホントの出来事だったのかな?って感じです。
トラウマ的体験、つまり戦争や大災害、大手術など生命が危険に晒されるような強烈な体験の際に、時に人は解離という防衛で自我を守ることはよく知られています。
トラウマなのではないので、シンプルに解離しただけだと思います。若いころに解離した経験があるので、乖離しやすいのかもしれません。
⑨ 抑圧
抑圧は、とても辛い感情や耐えられない記憶などを意識の外、つまり無意識に押しやり閉じ込めることで、それを意識から排除する無意識の心理的作用です。
⑩ 退行
退行は誰にでも起きることがあります。例えば強いストレスをさらされている時には、大人であってもお気に入りの縫いぐるみを抱いて寝たり、口当たりの良い食べ物をやけ食いしたりという風に。以前の発達段階での態度をとることで、安心を感じ、エネルギーを回復しているのだと考えられます。
⑪ 感情の分離
現代社会では、感情を抑えて理性的でいることを尊ぶ傾向が強いので、感情の分離という防衛はその傾向と親和性が高い言えます。明らかな虐待経験がなくとも、親の子育てのスタイルと子どもの資質の巡り合わせによっては、子どもが感情の分離を主な防衛として発達させることもあります。知人や友人の中に、いつも感情を表に出さず、周囲の人が喜んだり悲しんだりする場面でもクールなままで、理性的な事がらのみ表明することを理想化している人がいるかもしれません。
(14) 打ち消し
「打ち消し」は、「空想上のまたは実際の行為よる罪悪感や恥の感情を打ち消すために何かをする」という防衛です。
例:
・夫婦喧嘩の翌日にいつもより豪華な朝食を用意する、
・期日までにレポートを添削して学生に返却できなかった教授がそのレポートの評価をAにする、
などです。
自分の過去の過ちや失敗について、それが現実のものか空想上のものかにかかわらず、強く自責する傾向のある人は、生涯をかけて防衛の打ち消しの性質を持つ活動に取り組む場合があります。ある研究によると、死刑制度廃止のために長年熱心に活動をする人びとには、打ち消しの特徴が見られることが示唆されたそうです。また、幼少期に好意を持っていた人が人種差別に苦しんでいるのを救えなかった経験が元になり、人種差別根絶のための活動に生涯を通じて関わった例もあります。「自分の犯した罪に対する恥や罪悪感に対抗し打ち消せるような活動をする」のが防衛の打ち消しですが、こう考えると崇高な目的への無意識の動機付けになる場合があることがわかります。
昼夜を問わず会社のために仕事をする「熱血会社員」は強迫行為的だと言えますが、本人の動機に無関係に前向きな価値判断をさせることもあれば(「頑張っている」「根性がある」等)、本人がいかに遣り甲斐を感じていたとしても「ワーカホリック」と否定的に価値判断されることもあります。
クライマーはクライミングについて強迫的に取り組んでいると思います(笑)。
⑮ 自分自身への向け換え
「自分自身への向け換え(turning against the self)」は、その名称から想像できるように、他者に対する否定的な感情を自分に向ける防衛です。例えば、自分の幸福を左右しうる権威を持つ人に対して否定的な感情を持つことは葛藤を引き起こすので、その否定的な感情を自分に向けます。権威者に対しての批判は危険なものですが、自分を批判することは安全です。子どもの場合、養育者は自分の生存を左右する存在です。その養育者が安心や信頼を感じられる人物でない場合(例えば自殺願望のある親、一度家を出ると数日間返ってこない親、虐待する親)、子どもにとってはそれを認めることは脅威に感じられるので、子どもは自分を責めることで防衛します。状況を変える力を持たない子どもにとっては、自己批判的な気持ちがどれほど不快なものだったとしても、自分の生存が現実的に脅威にさらされていることを認めることよりはマシだからです。組織の上長と部下、グループリーダーとメンバー、先生と生徒などの関係においても使われると考えられます。
「自分自身への向き換え」は、精神的に健康な人にもよく使われ、問題を他人の責任と考えるよりも自分の責任を考えます。自動的かつ強迫的にこの防衛を使う傾向は、抑うつ的パーソナリティまたは関係性の自己虐待的なパーソナリティに共通してみられます。
これっぽいですね…
■ 防衛機制
こちらのブログを参考にまとめました。
① 逃避
逃避は、辛い現実を避けようとする防衛です。
英語ではwithdrawalです。何か自分がミスをしてしまったとき、それを見なかったことにする、無かったことにしてしまい、責任を取らない、ということは、逃避、となります。
例:
・試験勉強をしようと机に座ったとたんに、なぜか部屋の掃除をしたくなり掃除を始める。
・幼児は、多くの刺激に疲れた時には眠ります = 逃避
・大人の場合は、社会や人間関係から逃避して、自分の内的な空想の世界での刺激を求める
・薬物等の使用により意識状態を変えるのも一種の逃避
つまり、広く言えば、コーヒーや居酒屋も逃避です。逃避はストレス発散と似ているのですが、発散はしていないで、方向性を変えただけですので、問題は残り続けます。
逃避の相補的メリット: 現実を歪曲しないですむ
② 否認
否認は、クライミング界には顕著です。
しょぼいミスで遭難した事例は、まず事故自体が発表されません(笑)。否認の根拠に、故人の名誉が用いられます。しょぼい事故で死んだことを恥と考えているため、秘匿します。
例:
肉体能力や認知能力の衰えを認めずに運転免許証を返納しない高齢者
否認の明らかに病理的な例は、躁状態です。ですので、クライマーハイ=躁状態にある人は、自らの身体的限界を否定します。
睡眠の必要性、経済的緊急事態、自分の弱点やいつかは死ぬ存在であることすら、否認します。躁状態です。
③ 「万能的支配力 (omnipotent control)
これを防衛の一種に分類する立場は少数派のようです。
幼児期の万能感をもとにしているようです。自分の望みには魔法のような絶大な影響力があって「願えば叶う」というような万能感(自己肥大感)はスピの世界でよく聞きますが、これは、赤ちゃんが「自分が不快だと思う→オムツが乾く」という風に観察力などの欠如の結果であるようですね。私もたまに、原因と結果の法則をスピの人は無視しているんではないかと思ったりします。
赤ちゃんが自分と外界の区別ができるようになると、自分の無力さに気づき、それが不安を呼ぶので、今度は養育者を万能だと信じることで安心感を得ようとします。さらに成長すると、養育者でさえ万能ではないという現実に気づき、それを受け入れながら成長することで、自分の影響力には限界があることを認識した大人に成長していきます。
クライミングに例えると、俺ってスゲー=万能感 → 自分が登れないところが出てくる → 指導者やトップクライマーなどに万能を求める → しかし、それでも限界があることに気が付く → 成熟したクライマー です。
ロープがないと危険→落ちなければいいじゃないか = 万能感の段階
フリーソロのアレックススゲー、倉上スゲー etc... = ランナウトやフリーソロ礼賛
マークアンドレ = あれ?死んでる… = 限界に気が付く
どんなに優れたクライマーでもロープによる確保は必要 = 成熟したクライマー
ってことですね。男性は特に万能感へのあこがれが強いような気がします。
自己万能感の防衛は「他人を出し抜け」という働き方をします。クライマー界では、だしぬけ=ルサンチマンとして働いているかもしれません。たとえば、チッピングをする人は、この思いのために行っている可能性があります。倫理観より、自己万能感が優先するからです。
自己万能感と違い、有益な自己効力感は、次のようなものです。
トランプなどの勝負ごとで、相手の出方やゲームの展開の読み、その勘が当たって勝ちを手にした時の快感は、「願いは叶う」という「万能的支配力」の感覚に近いものです。
これは、私にとって、投資や山行計画でのリスクの読みが当たる感覚に近いです。海外登攀に出かけたとき、ホテルの選択などで、良い選択が出来たときもこれになります。ほかにはヨガのクラスがあります。良い内容を出来た、という実感があるとき、読みが当たった時です。
④ 理想化と脱価値化
養育者を万能だと信じることで安心するという心理です。
大人になると、国を運営している人々は自分よりも賢く頼りがいがあるという望みに表れます。民主主義国家であれば自分の今の生活は守られるという安心感などもそうです。
クライミングでは、師匠やメンター、山岳会への信頼がそうですが、それは、まぁ打ち砕かれるのが早ければ早いほど良いかもしれません。
他人から、魅力や権力、知名度などを絶え間なく称賛されることを必要とする場合、それは理想化と脱価値化という防衛の結果です。
グレード競争の結果、おれは5.13と言わないといけないクライマーが増えたのは、万能感を根底にするのかもしれません。
自分の妻の癌を治療できるのはこの医者しかいないと主治医を理想化している夫は、妻が治療の甲斐なく死亡した場合には、その医者を裁判所に訴える可能性すらあります。あの学校に進学さえできれば、あの会社に就職さえできれば、減量して痩せさえすれば…エベレストに登れさえすれば…あるいは、2段がノーマットで登れさえすれば…、5.13が登れさえすれば…等々、対象を理想化して「それさえ実現すれば私は完璧になれる」という心理は、それほど珍しくありませんが、その裏側には不完全な自分への不安があります。そして、それが実現したときに理想化の幻想が破れて、大きく落ち込むことも珍しくありません。
防衛機制⑤ 取り入れと同一視
取り入れは、健全なものを取り入れる場合と、不健全なものを取り入れる場合があるようです。当然か。
クライミングにおいては、クライマーとしての入門者時代に健全な態度を取り入れるのが大事ですね。
例えば、「これ、5.9だぜ、こんなのも登れねえのか…」というのは健全な態度ではないです。甲府時代もこの態度を取り入れていたクライマーに遭いましたが、クライミングの経験値が増加した今、分かるのは、
日本の5.9が、本当に5.9であることはほとんどない
したがって、5.9が普通に登れないことは、5.12をインドアで普段登るクライマーでも起こる
そのため、私を責めるクライマーが持っている防衛は、この”取り入れ”という防衛機構なのだと気が付くようになりました。
家族に争いが絶えないなどの劣悪な環境に育った子どもは、境界線を曖昧にすることによって環境の悪さを自分の悪さと感じます。お母さんが機嫌が悪いのは、自分のせい、というような感覚です。
強く惹かれる他者との境界線が曖昧になり、他者を取り入れた結果、それが自分のアイデンティティの一部になっている場合には、例えば、「私は〇〇の母」など…、その重要な他者を失った際には自分の一部を失ったように感じるそうです。
その空虚感や喪失感を回避するために、自分を責めたり、相手を責めたりし続けることでうつ状態になるという解釈です。
子どもが巣立った後の親や人生を捧げてきた仕事から引退した人にも当てはまる場合がありそうです。このように、不健康な取り入れは抑うつに関係すると考えられます。
これは、クライミングをアイデンティティの一部としていた山梨時代の私が九州に来てクライミング自体を喪失したこととについて言えるかもしれません。
同一視は中立的なプロセスであり、同一化の対象によって健康的にも病的にもなりえます。例えば、手本となる他者を見て真似ることを「モデリング」と呼ぶことがあるように、日常生活でも観察されます。
最近水泳の先生の、準備運動のかけごえが、まるで体育会系男子みたいなので、変だなーと思っていたのですが、同一視、だと思います。
私はクライミングでは何に対して同一視していたか?というと…?その対象がなくて困っているかもしれません。できたら、上級の女性クライマーと登りたいと思っているのですが…。なかなか同一視というかモデリングできるような女性クライマーがいなくて困っています。
長くなってきたので、①~⑤でひとまず、終了します。