■ 自閉症を読書で打開したこと
子供の頃、私は自閉症と診断された。
小学校に入学した時は、ひらがなが書けなかった唯一の生徒だった。かろうじて書けたのは、自分の名前。入学時点から、落ちこぼれということだ。
私が小学校に上がるか、上がらないかの頃、私の両親は離婚と再婚を繰り返した。子供心には、それは大人の出来事でしかなかったが、母親のストレスがそのまま、子供である私のストレスとして、現れていたのを理解したのは、大人になってからだ。私はひどいアトピーで、弟はひどいアレルギー性鼻炎だった。
当時は、ただ、無力で、目の前の状況を受け入れることしか、6歳の私にできることはなかったから、ストレスであるとも感じなかった。7歳の頃、一度自殺を決意した。今考えると、決意したのは、私ではなく、母親で、私の決意はただのその反映だったのだろう。
この経験で、小さな子供はストレスをストレスを感じることができない、ということを学んだ。
厳しい現実から逃避したい私が見つけた、唯一の居場所は、本の中だった。本を読んでいる間だけは心穏やかに生きることができたのだ。
弟はスポーツに居場所を見出した。打ちこんで県大会にでるような選手に育った。妹は学校にしろ、病院にしろ、大人の男性を見ると甘えて、抱っこされたがった。
妹は、私たちの父親の姿をまったく見たことがなかった。酒に溺れ、前後不覚になり、玄関でお小水の上に座り込んでいる、成人男性がいかに気持ち悪いものか、赤ちゃんだったから、知らないのだった。それで、私と弟のもつ嫌悪感を持っておらず、大人の男性に対する感受性が違った。ただ父を恋しがるだけだった。私たち兄弟には、恋しい父はおらず、避けたい男性がいるだけだった。
私は今でも、酔っぱらった男性には嫌悪感というより、単純に恐怖感がある。荒れたときの手の付けられない父親の暴力が、脳裏に浮かぶのだ。
だから、山ヤがお酒を飲んで暴れるのは、できたら見ないで済ませたい。
■ 初歩的な本を繰り返し読んだこと
話を戻そう。子供の頃、私は、本の世界に逃げ込んだ。
それは母親の都合とも一致することだった。手のかからない子、それが、働くのに忙しい母親が期待する、子供像だったから、本を与えていれば、満足する子は、都合がよかったのだ。
同じ本を何度も何度も読んだのを覚えている。世界の童話全集だ。心に残ったのは、
安寿と厨子王、石の花、
人魚姫、
アラビアンナイトに出てくる、川を渡るのに負ぶってくれというおばあさんの話。同じ本を飽きずに20回も30回も読んだ。
文字を覚えたての頃は、お菓子の原材料表のようなものを読むのも楽しかった。ありとあらゆる活字を読んだ。
余談だが、同じようなことは第二言語である、英語を習得した時にも起きた。あらゆる文字列が魅力だった。バスに乗っても、歩いても、あらゆる標識を読んだ。
■ 忙しい子供時代
こうした読書のおかげで、小学校2年に上がるころには、いつのまにかクラスのトップの成績になっていた。
子供は徒党を組むものだ。だが、私は誰とも徒党を組まなかった。いや、そんな時間がなかったのだ。
家では私の家事労働力を必要としていたから、夜に読書をしていると、本を取り上げられた。学校では、成績優秀者に学級委員長が回ってくる。
私は2年生から、毎年、3学期あるうちの2期間も学級委員長を務めなくてはならなかったから、本を読みたい私は、休み時間は読書に費やしたいと思っており、トイレに行くにも一緒に行くという女の子たちの習慣は、私には時間の無駄でしかなかった。
当時ですでに週に10冊くらい読んでおり、酷い時は、教科書の下に、本を隠して、授業中も本を読んでいたが、先生たちは事情を察して、気が付かないふりをしてくれた。
そのような調子だったので、小学校4年生に上がるころには、すでに校内で有名な生徒だったし、5年生では生徒会がスタートした。中学に上がった時には、隣の小学校から来た生徒たちにも、既に名前をよく知られていた。
読書のおかげで、何も特別な勉強をしなくとも、通知表はオール5だった。なぜか体育までも5なのだったのは、先生たちの先入観がなしたことだろう。
朝礼では、前以外立ったことがない。先生の代わりにマイクを持つこともあり、文化祭では壇上に上がり、運動会ではアナウンサーで、部活ではキャプテンなので、メニューを作ったり、先頭でランニングしたりしないといけなかった。そうしたことは、私には特別なことではなく、日常だった。
公的な予定・・・生徒会や委員会など・・・で忙しく、スケジュールは15分刻み。学校へは一番に教室に入り、窓を開け、帰りは一番遅く出る。何かをしてほしいときは、忙しい人に頼みなさいと言うが、常に頼まれる側にいたのだった。
非常に忙しい子供時代だった。これはお人よしで単に人に利用されやすいという意味だ。現に他の成績優秀な子供たちは余計な活動はせず、塾通いをしていた。
中学三年の時は、部活と生徒会、受験が重なり、ストーカーの被害もあって先生や男友達に送り届けてもらわなくてはならず、大変で、やっと家に帰りついたら、玄関で気を失って、倒れたことがある。
■ 落ちこぼれ
高校へ上がると、優等生から、落ちこぼれに180度転換した。
高校は各中学のトップが集まる進学校だったが、1回目の定期試験で、成績が489番だった。500人しかいないのに(笑)。君は高校で終りかい?というのが、数学の先生の言葉。
高校は特殊な学校だった。エリート養成だということを隠しもしない。ことあるごとに”ノブレス・オブリッジ”と言われ、エリートというものには社会的責任が伴うことが強調された。
授業は予習が前提で、教科書は、「35ページ、はい、読めば分かる」という具合で、先生は読んでも分からない難しい箇所しか説明しない。教科書の内容は、半年で終ってしまい、残りは応用問題をやるのだ。
校風は自己責任が徹底しており、パーマをかけようが、化粧をしようが、自由で、3年生になれば学校にさえ来なくていいのだ。
私にとって高校時代は、暗黒時代だった。大学進学100%の高校に進学してしまったのに、大学へ進むための経済的めどが立たない。前途の暗さに苦しみ、希望はなく、鬱病患者となり、勉強など何も手につかなかった。それより、バイトとばかりに、バイトに精を出した。
学校では成績上位者50名の名前が張り出される。
まぁ当然だが、私の名がでることはなかった。誰が見ても、落ちこぼれであったのだ。私は、といえば、ただ時間が過ぎるのを耐える日々。美術部の部室と演劇部の部室が拠り所だ。
2年の終わりまでに、3年生までの教科書はすべて消化してしまっている。3年生の1年間は、学校に来なくても、すべての必修の教科が2年生までに、履修済みになっている。だから、本当に学校に来ない生徒もいた。そういう人は本物の成績優秀者で、もちろん、いつも成績上位者50名のうちのトップ1~3名みたいな人たちだ。
定期テストの他、ATという実力テストがあった。これは教科書の内容を理解していることを問う問題は一切出題されず、教科書に出ている知識を応用して、問題を解くものだ。
そのATは、受験向きのつめこみ学習ではなく、つまり知識を問わず、真の実力を問うものである、とされていた。
で、そのATで、私はあるとき、なんと3番を取ってしまったのだった。私より上に名がある二人は、東大クラスの二人しかいない。
自分自身でもなぜ、そのような成績が突然とれたのか、謎だ。それでも、たしかに回答が帰ってきたら、私の回答だった。
この3番に勇気づけられ、進学を決めた。戦略が見えたのだ。応用問題だけを解く。
学科の勉強はしなかった。しても遅すぎたのだ。
けれども、マルクスの『資本論』やケインズを読んで感動したり、『アンナ・カレーニナ』 『怒りの葡萄』などを読んで、恐怖に震えあがったりした。メルヴィルの『白鯨』も好きだった。
当時のボーイフレンドは、中学時代から一緒に勉強し、中学当時から2番を大いに引き離した学年トップを楽勝でひた走ったサー君で、彼は一ツ橋大学に進んだのたが、彼から16歳の誕生日に贈られた本は、『アルジャーノンに花束を』だった。
その頃、二人で読んだのは村上春樹の『ノルウェイの森』。この本をハイティーンの二人が貸し借りして読んでいるとは、双方の親は、さぞかし心配したことだろう(笑)。
ところが、私たちは親の心配などよそに、至ってプラトニックな恋愛しかしなかった。
ただ、私は当時、腰まで届くくらいに髪を長くしていて、生涯で一番女の子らしくしていたので、ストーカーに付きまとわれたり、夜中に起きたら、見知らぬ男の人が私の布団に手を入れていたりで、性的被害的には、大変な時代でもあった。ボーイフレンドというのは、そういうのから守ってくれるためにある、という感じだった。
何を言おうとしていたんだったか?あ、そうだ。読書は、私の基礎力であり、私の強みであった。本に人生を救われた、というのは、あながち間違いではない。
■ クライミング
さて、クライミングである。このところ、私はボルダリングジムでも、易しい基礎課題しかしたくないのだ。
それは、どういう感じか?というと、子供の頃、読みまくっていた世界の童話集と同じような感じなのである。
あるいは、高校の頃読んだ、マルクスやケインズと。
何か、ピースがつながりそうになっている。