私にとってクライミングとは、
自然界との対話です。
山にも岩にも、敬意を払っています。
だから、ちょっとムーブが思いつかないからといって、
簡単にロープにぶら下がったりはしません。
ムーブが分からなくて焦ったときは、
まずクライムダウンします。
これは、
読図で現在地が分からなくなったら、分かる場所まで戻るのと同じです。
そうやって、改めて登ってみると、
思いがけずムーブが出てくる瞬間があります。
これが面白さの源。
自分の体から、無意識にムーブが引き出される。
それこそが、岩と自分の体がどう重なれるかを、時間をかけて探るということなのです。
だから、私にとってクライミングは、競争でも、征服でもない。
岩と向き合い、自分自身とも向き合う時間です。
だからこそ、命知らずを煽るような登り方や、
「これくらいも登れないのか」という登り方は、私はしません。
なにしろ、5.9というのは、男性の標準身長でのリーチをもとに
付けられた主観的指標。
世界的クライマーのヘイゼルも、自分にとってはグレードは意味がないと言っています。
「これくらいも登れないのか?」
そういう人は、そういわれて育った人。
それは、たいていの場合、
言っている人自身の自己愛の傷つきの投影なのです。
つまり、こう言ってくる人は、かつて自分がそう言われて育ってきた人。
実は、これ、私も言いたくなりました。
だって、10年前ですが、23歳、大学院生のぴちぴちの男子が、私がリードした5.9を、どうですか?と水を向けると、登れませんって言うんですよ。昨日、ボルダーで1級が登れたって自慢していませんでしたっけ?43歳のちび私がリードできるところ、君はしないって??どんだけ安全になったらリードするん?
でも、そこは言わずに我慢しました。だって、これ自己愛の傷つきの投影かもしれませんからね。
それに私の最初の師匠鈴木清高さんは、
私が不十分な視点を作っても何か事情があるのかな?と考え、責めないでいてくれる人でした。
だから、この23歳が登らない判断をしたとき、どういう根拠でその判断をしたのかな?彼は賢いから何か事情があるのだろうと思っていました。
師匠に関していうと、当時私は支点構築の勉強を始めたばかりで、入門クライマーだったので不十分な時は指摘してほしかったのです。わからないまま進むのが一番怖いと思っていました。
さて、このように最初の経験値で、人の自動反応は容易に操作されます。
「こんなところも登れねえのか」と煽る、そんなやり方は、私の辞書では、
そもそもクライミングとは呼べないものです。
クライミングとは、やっているうちに
無意識が機能して、ある日突然できるようになるもの。
そこが面白さであり、醍醐味なのです。
そもそもクライミングとは呼べないものです。
クライミングとは、やっているうちに
無意識が機能して、ある日突然できるようになるもの。
そこが面白さであり、醍醐味なのです。