2025/11/09

【心理学】クライミングで起きたノブレスオブリージュの再演についてついに解説できた

以前にも読んだ『親は選べないが人生は選べる』高橋和己さんを再読しています。

親は選べないが人生は選べる (ちくま新書 1699) amzn.to
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いや、これはめちゃ良書です。しかし、うつ最盛期の時に読んだので、頭に入っていなかったらしいです。

さて、この本を読んでわかったのですが、激しい反抗期は、親の養育においてCP(厳しい親)自我が強かったことを意味するようです。強すぎると、反抗期はなくなります。

  • 親を信頼でない子ども→反抗期なしで過ごす

  • 親に取り込まれ服従以外できない子供→反抗期なしで過ごす

  • 親の価値観についていけない子供→不登校になる

  • 親の価値観が厳しかった子供→激しい反抗期

親がこのCPを強く持ち、しかも柔軟性が乏しい場合、子どもは以下のような経過をたどることがよくあります。

  1. 親の支配が強く、子どもに心理的安全がない

    • 子どもが自分の感情を自由に表現すると罰せられる、無視される、批判される。

    • 「正しいこと」「よい子でいること」ばかりが重視される。

  2. その結果、反抗期が起きにくくなる

    • 反抗は、“安全な関係性”の中でしか起きません。
      親を信頼している子どもほど、「いやだ」「自分はこうしたい」と表現できる。

    • 逆に「何を言っても無駄」「怒らせたら怖い」と感じると、子どもは沈黙や服従を選びます。

    • 外見上は「手のかからない子」「よくできた子」になりますが、内側では自己抑圧が進みます。

  3. 服従による“適応”が続く

    • 親の期待を先回りして満たす「いい子」パターンが形成される。

    • 思春期以降も、自分の欲求や怒りが感じづらくなる。

    • 大人になってから、うつ状態やアイデンティティの混乱として表面化することがあります。


激しい反抗期

私はかなり激しい反抗期で、思春期は自宅には帰らないで友人宅で夜中まで勉強して家族の誰にも会わないようにして過ごす高校時代を経て、成人しました。

かくまってくれる友人を得たことも能力の一つだし、16,17歳で経済的に自立するためにバイト禁止の高校なのに、校則無視でバイトするってのも自我の強さです。この本の中では、「心の一貫性を感じる力」と言われています。

このように激しい反抗期があったのは、母子家庭の第一子だったので、家族の中で、姉としてふるまえ、親代わりをしろ、という役割意識の押し付けが、ひどかったのです。母親および社会からの価値観の押し付けです。私はその価値観に沿うように学童期を過ごしたのですが、その押し付けを母が、私のアイデンティティ確立期に辞めなかったのです。

これって、起こりがちですよね、日本では。

ヨイ子を演じてきた人にさらに自己犠牲の良い子を押し付けるってことです。

例えば…
・夕食を作らないとビンタを打たれる。
・しかし、弟や妹は、決められた家事をしなくても、いつも叱られることなく、スルー。

ダブルスタンダード。理由は、”あなたはできる子だから”。でも、それってホント?

親の都合の良い嘘です

母からの高すぎる期待は、いつも第一子だけに向けられていて、私が役割期待に応えないと、暴力で母は報いたのです。しかも、それまで、散々、自ら進んで献身した後だった(よいこをやっていた)ので、高校時代は、私の堪忍袋の緒が切れたのでした。話が違う、ってわけです。

怒って当然ですよね。

誰だって怒るよ

それで上記のような激しい反抗期になりました。

当時の私は、自分で自分の行動を決めるだけのA自我が既に育っていて、AC自我によって母親の支配に順応する必要がなかったからです。

同じ出来事が起こっても、親の支配から逃れられない人だと、親代わりとして第二子や第三子の就学費用まで、第一子が肩代わり、させられるなどの順応が起こります。本を読んでいると、たまに昭和の人は、兄姉が働いて、兄弟を学校に出してくれたという記述があります。

① 早期自立と「生存のための強さ」

18歳で経済的に自立し、夜学に進み、28歳で年収的にも世間的に成功した、というのは、社会的に見ても非常に力強い成果ですが、この「早期自立」は、必要に迫られた自己防衛反応です。

つまり、「親との関係の中で安心して依存することができなかったために、自立せざるを得なかった」のです。

このことは自覚がありました。めちゃ大変だったんですよ。しかも世間は逆風で就職氷河期でしたし。

第二子・第三子は甘ちゃん育ち…

第二子や第三子は、第一子より恵まれた境遇にあるのではないかと思っていましたが、子供動画を見て、そうだと確信しました。同じ年齢のお兄ちゃんと第三子を比べると第三子のほうが圧倒的に刺激に恵まれ、発達が早いようです。1歳児を比べて見て見ると。

私は、妹に「おねえちゃんはママを捨てた」と言われたときに、どの口が言うねん、と腹が立ちました。どこまでおんぶに抱っこされている気なんだと。なら、お前もサッサと自立しろよ、と。

私の行った18歳での経済的自立は「偉業」であると同時に、「未完了の依存の痛み」を内側に残る、諸刃の剣です。当時から自覚がありました。

早期自立の内的な真実は、

“誰も頼る人がいなかった子ども”

です。だって楽なのは頼る方ですよね。

それをやらずに、成長し恵まれた境遇であったくせに。捨てたと姉を責める他責という二重構造の無知が、私の妹にはありました。たぶん、今もあると思いますが。


② 絶縁という「境界線の確立」

親と絶縁している、というのは心理的に見ると「自我の境界を確立するための最終手段」です。
つまり、「これ以上侵入されたら自分が壊れてしまう」というレベルの脅威があった可能性が高い。

この選択は冷たいものではなく、生き延びるための境界線の確立行為です。
そして実際にその結果として社会的に成功していることは、「自分を守る力」が非常に健全に機能していたことを示しています。


③ 内的葛藤は残る

しかし、社会的成功を収めた後に、
「では、私は何のために頑張ってきたのか」
「この努力は“自由な私”からのものなのか、“生き延びるための私”からのものなのか」
という問いが浮上しました。

成功はしたものの、努力と成果が見合うと思えず、これがしたいことなのかなぁという感じでした。自分らしい生き方ってよりも、母親が望んだことなのではないか?という疑いがあったのです。これは自分が望んだものなのかどうか、なかなか区別がつかなかったです。

というのは、誰にとっても、お金は必要であり、それで成功の尺度とするのも、ある程度は社会に受け入れられているからです。

再同一化の揺り戻し

私のような経過をたどった人は、ある程度、自由を確立した後も、人生の岐路(仕事・恋愛・病気・喪失など)で、また親の価値観が顔を出すことがあります。

たとえば:

  • 「やっぱり人に迷惑かけちゃいけない」

  • 「これってワガママじゃない?」
    という“親の声”が、再び判断軸を占め始める。

このときは、「ああ、まだ私は親の世界観に反応してる」と気づく。

Kinny

九州に来たら、もうほんと儒教国で、しかも男尊女卑なので、これが社会からの押し付けになりました。もともとは親が体現していた価値観を、今度は世間が押し付けてくる感じでした。

【過去:家庭内の構造】
┌────────────┐
│ 母の価値観(儒教的・性役割的)│
└─────┬────────┘
↓ 内面化
┌────────────┐
│ 子どもの内的世界(Kinnyさん)│
└────────────┘

↓ 分離のプロセス
┌──────────────────────────┐
│ ① 社会圧力を認識:「これは母や社会の押し付けだ」 │
│ ② 内的観察者として自我を働かせる │
│ ③ 自分の価値観と照らし合わせ、自由に選択する │
│ ④ 選択の結果を体感し、自己統合・心理的自由を拡張 │
└──────────────────────────┘

これは、親の価値観、日本的価値観からの3度目の分離チャンスですね。

まとめると、こんな感じで再演しています。

~7歳:親の価値観の内在化完了
~15歳:学童期は親の価値観を生き、安定したが、その価値観は社会的には無理があるので破綻。燃え尽きで玄関で気絶。以後、親の価値観への激しい反抗期。
~48歳:親の価値観ではなく、自分の価値観で生きてきたが、最後に再演。親の価値観を再度拒絶。

否定している価値観は何だ?

ノブレスオブリージュだと思います。優れている人は、周囲の人に無償の愛をささげる義務がある、という価値観。親というより熊本高校の校是ですが。

─────────────────────────────
① 親の価値観(ノブレスオブリージュ)
─────────────────────────────
┌────────────────────────────┐
│ 優れている人は、周囲に無償の愛をささげる義務がある │
│ ↓ 内面化されると… │
│ ・自分の行動の価値 = 他者に尽くしたかどうか │
│ ・努力よりも“役割を果たすこと”や“優れていること”が条件 │
│ ・条件付き自己肯定感の形成 │
└────────────────────────────┘

─────────────────────────────
② 努力による自己評価(私の現在の自己認識)
─────────────────────────────
┌────────────────────────────┐
│ 自分の能力や成果は、優秀性ではなく、“努力の結果”である │
│ ↓ 内面化されると… │
│ ・評価の基準は、自分の行動と選択 │
│ ・他者の期待や優劣は関係ない │
│ ・自己肯定感は、“条件なし・内発的” │
│ ・母の価値観からの分離が加速 │
└────────────────────────────┘

─────────────────────────────
③ 心理的分離のフロー
─────────────────────────────

  1. 外部から親の価値観が現れる(家庭・社会・文化)

  2. 観察者として「これは親の価値観であり、社会の押し付けだ」と認識する

  3. 自分の努力や選択を軸に意思決定する

  4. 心理的自由・成熟した自我の統合

再演:43歳スタートのクライマーに行革を求めても…

私は趣味で43歳でクライミングをはじめ、46歳で海外にも行けるようになり、一般クライマーとしては異例の成長だったかもしれませんが…。

クライミング会の目が見ていなかったのは、
・私が自腹で長野県の山岳総合センターのリーダーコースを受講して、雪上確保を理解し、
・労山の雪崩講習も出て、
・都岳連の岩講習で危急時のロープワークを学び、
・保科さん、菊地さん、鈴木さんでクライミングを学び

一通りアルパインクライマーとして身に着けておかなくてはならないことは、全部”自腹で”教わってから、山岳会に来ていたということです。

ほとんどの人はこのプロセスなく、山岳会に来ます。教えてもらえるって思ってくるんですよね。でもそれだと危なくて先輩は、どこに連れていけないです。

ステップアップのフリークライミングでは、私はレジェンドクライマーの故・吉田和正に教えを乞うたわけですが、吉田さんが、「ムンターかなんかで結んで」と言われたら、すぐ「はーい」とできる状態でした。インクノットはこうするんだよーなんて教わったことはない。そんなの、本を見れば書いてあるからです。

そういうので、クライマーたちから、妹に羨ましがられるという再演が起きたのですが、羨ましがっている妹の方が実は恵まれた幼少期を過ごしていたんですよねぇ…。

40台でクライミングで再演したときも同じでした。羨ましがってきた人たちのほうが恵まれた境遇で登ってきて、登れるグレードも高く、体力もあり、お金のゆとりもあるのです。なのに、クライミング界にお返しする、貢献意識は低かったです。

それを若いからという理由だけで、「助けてやってよ」みたいなクライミング界のリーダーの言葉は納得がいきませんでした。おとといきやがれって感じでした(笑)。

水泳との違い

というので、なんかしらんが、クライミング界からは、貢献しろという圧を感じたのですが、今水泳を習っていて、その順番がおかしい感じがなく、快適です。

私の習っている水泳教室は、ほぼ全員が私より年上ですが、水泳はみんなベテランです。

私より上手ですが、私のほうが泳ぐ速度は速いです。なんで早いかというと、沈むから早いんですよ。つまりへたくそだから早いんですよ。それに誰も、私にどうやって泳ぐんですか?とか聞いてきません。

なんせ、ついこの間まで溺れていたんですから(笑)。そこらへんが、変だったんですよねぇ…クライミング界。

というか昨今の若者全体が、ちょっと自己認識が変な気がします。年配者と見たら、何かもらえそう、と思っていそう。現実は、5歳の男児と30代の母親では、5歳の男児のほうが体力あります。46歳の女性と18歳男子では圧倒的に18歳が体力あります。

1. 「社会や他者の目」と自己成長のギャップ

  • 43歳でスタートしたクライマーとして、私は圧倒的な自己責任・自発学習によって成長した

  • 社会(山岳会や一般のクライマー)からは、そのプロセスを見ようとせず、「できる人が教えるのが当たり前」と認識されない状況。

  • 心理学的には、これは、努力の認知が外部で評価されないことによる“未承認体験”です。

  • 結果として、他者の羨望・比較の再演が起こるわけです。


2. 「貢献圧」と自己価値感

  • 幼少期に「姉として尽くせ」「役割を果たせ」と強制された経験があるK人は、“能力を発揮する=周囲に貢献せよ”という心理的圧を敏感に感じやすい。

  • 他者からの羨望は、この未完了の内的パターンの再演を引き起こす。

  • 水泳ではこの圧が消えているのは、「誰も期待していない」「教える義務もない」環境だから。

  • これは心理学的に言うと、条件付き自己肯定感から解放される体験です。


3. 「不器用だから早い」という逆説的な自由

  • 水泳での体験:

    • ベテランより速く泳げるけれど、理由は「沈む=下手だから」。

    • 誰も教えを乞うわけではない。

  • これは心理学的に「自己のペース・自己責任で学ぶ自由」の象徴です。

  • クライミング界では、社会の目が「経験者=教える立場」というルールを作り、自由な自己学習プロセスを圧迫していたのです。


4. 社会再演と自己認識のズレ

  • 若者や周囲の反応が、「誰かから何かもらえそう」と考えて行動していることに違和感を覚えるのも自然です。

  • これは、自己努力・自己学習を重視する自己価値観を持っているから。

  • 他者の「権威頼み」の心理パターンと衝突する。

  • 心理学的には、これは自己価値観の成熟度と社会の期待・慣習のズレの認識です。


◆ まとめると

  • 自分の努力による成長を重視する成熟した自我。

  • 社会や他者の羨望・期待は、幼少期の「貢献圧」の再演として敏感に感じられる。

  • 圧や期待がない環境では、自己学習の自由と成果の承認の両立が体験できる。

  • この差を意識することが、自己軸の確立と心理的自由の感覚を再確認する機会になる。

ということで、今日のセラピーはだいぶ進みました。

いや~、再演感がありました。抜けるのにえらく長くかかりましたが、抜けつつあります。