1)柏瀬裕之
かつての「初登攀競争」が主流だった近代アルピニズムの終焉を早くから予見し、山をより個人的で内面的な「遊び」や「探求」の場として捉え直す点に大きな特徴があります。
その登山観を具体的にまとめると、以下のようになります。
🏔️ 柏瀬裕之氏の主要な登山観
1. 「山を遊ぶ」という提案と中高年登山への影響
競争からの脱却: 彼は、登山が、「登頂」や「初登攀」の記録を競い合う時代は終わった、と見ていました。
「山を遊ぶ」: 登山の目的を「自己との対話」や「自然との調和」に見出し、登山を個人的な愉しみや探求として再定義しました。これは、後の、中高年登山ブームにおける「健康や生きがいとしての登山」の土壌作りに大きく寄与したと言われています。
探求の多様化: アルパインクライミングだけでなく、沢登りの愉しさを広く伝えたり、消えゆく古道や山里の暮らしを追った民俗紀行を展開したりと、山の関わり方を多角的に広げました。
2. 経験と安全性の重視
経験の重要性: 著書『山と渓に遊んで』の中で、「登山という行為に冒険が含まれるのは、動かせない事実だ。いつ、なにが起こるかわからない自然に身を託し、無事に帰ろうとするところに、山に登る意味がある。だからこそ、山とかかわってきた経験という歳月が重要になってくる」と述べています。
山行論と随筆: 彼の著作は、単なる紀行文ではなく、自身の体験に基づく山行論や人生論が深く織り込まれており、安全と経験に裏打ちされた自立した登山の必要性を説いています。
3. 「人生の午後三時」を見据える哀愁とユーモア
内面的な成熟: 紀行・エッセイ集『午後三時の山』のタイトルにも象徴されるように、彼は山登りを通じて、人生における成熟した時期(「人生の午後三時」)やそこに伴う哀愁、あるいはユーモアを見据える視点を持っています。
自己との対話: 山は、単に登る場所ではなく、人生を振り返り、自己と深く向き合うための内省的な空間であるという哲学が通底しています。
柏瀬氏の登山観は、記録や他者との競争から離れ、登山をより知的で、かつ人生と深く結びついた個人的な活動として捉え直す、現代の多様な登山スタイルに大きな影響を与えたと言えます。
2)原真
原真氏(1936-2004年)は、高所登山の経験豊富な登山家でありながら、単なる記録者や技術者にとどまらず、登山を通じて人間の本質と社会構造を見極めようとした、稀有な思想家・作家としての側面を強く持っていました。
彼の登山観は、極限の環境下での「人間観察」と、登山を続ける上での「戦略的・哲学的な考察」に基づいています。
🏔️ 原真氏の主要な登山観のまとめ
1. 人間関係への冷徹な考察
友情の「死」と登山家の成長: 彼は、ヒマラヤのような極限状況で、日本国内で培養された「友情」に対する幻想が打ち砕かれ、「死滅する」と述べています。
そして、「美しい友情を壊すところから一人前の登山家になる道が始まる」という厳しい視点を持っていました。
目的と手段の峻別: 登山隊の失敗は、「目的(登頂や探求)を探求する精神力に欠ける人間たちが手段に拘泥しすぎたために、友情が失われた」結果であると分析しています。登山を人間を見極める手段と捉え、高所で露呈する人間の本質を糾弾しました。
2. 戦略としての登山と「頭で登る」思想
戦略論としての登山: 彼の著書『ヒマラヤ・サバイバル:登山戦略論』などに表れているように、登山を感情論や精神論ではなく、極めて冷静な「戦略」として捉える視点が特徴です。
判断力と頭脳: 特に中年以降の登山について、「経験を生かした、よき作戦をもって、頭で登ることが必要である」と説きました。成功は判断力に負うところが大きく、「何をしないか」に鋭い嗅覚を持つことの重要性を強調しました。
下界との両立: 「中年を過ぎて山を続けている人間は、下界の仕事をちゃんと片付けているものである。下界でちゃんとやっているから山もできる」と述べ、登山を趣味や逃避ではなく、社会生活と両立し、知性によって支えられるべきものと位置づけています。
3. 登山を越えた文学的・哲学的価値
作家としての目: 彼は、長く先鋭的な登山に関わりながら、その経験を単なる記録ではなく、文章力をもって読み物として昇華させました。彼の文章には、登山家というよりも作家の目があり、読者を唸らせる力があったと評されています。
死生観: 弟の原武の死を扱った著作『北壁に死す』の後記で、「山の死―すぐれた登山家の死―は、ときには人生の完成を意味する。それは幻滅からの解放であり、自己欺瞞の克服である。美しい余韻を持つ、完璧な人生だ」と述べ、登山における死を、人生における一つの完成形として捉える独特の死生観を示しています。
原真氏の登山観は、非競争的な登山観を持つ今西錦司氏などとは異なり、ヒマラヤ登山の厳しさや人間の葛藤を正面から見据え、極限の状況における人間の真実を探ろうとした、哲学的かつ戦略的なアルピニズムであったと言えます。
原真氏の著書『快楽登山のすすめ』は、彼の登山観を最も明確に打ち出した一冊であり、従来の「苦行」「精神主義」「集団主義」といった日本の登山文化への強烈なアンチテーゼとして知られています。
🗻 『快楽登山のすすめ』が提唱する登山観
1. 「苦行」からの解放と「快楽」の追求
否定される登山: 彼は、「お決まりの山へ、お決まりのルートから登り、鮨詰めの小屋へ泊まり、我慢を強いられる」ような、苦行や義務感に縛られた従来の登山を厳しく批判します。
肯定される快楽: 登山は、**「自分本位」に楽しみ、自然の中で自己の感覚や身体的な悦びを追求する「快楽」**として捉えられるべきだと主張します。これは、他人の価値観や社会の評価に左右されない、純粋な個人の体験としての登山を意味します。
2. 「孤独」と「自立」の推奨
孤独の享受: 彼は、孤独を楽しむことを「快楽登山」の重要な要素と位置づけました。集団に依存せず、自分自身で判断し、自己責任で行動する自立した登山者こそが、真の山の喜びを見出せると説いています。
自己決定: 登山計画、ルート選定、ペース配分まですべてを自己決定し、自分にとって最も快適で満足度の高い山行を追求することを推奨しました。これは、日本の集団主義的な登山文化からの脱却を促すものでした。
3. 「戦略的」かつ「知的」なアプローチ
登山戦略論の応用: 前述の『ヒマラヤ・サバイバル:登山戦略論』に通じる考え方で、快楽とはいっても感情論で登るわけではありません。 彼の快楽登山は、綿密な計画とリスク管理、そして知識に裏打ちされた「知的活動」でもあります。
「頭で登る」: 経験と知恵を最大限に生かし、無駄な苦労や危険を避けるための冷静な判断こそが、快楽を継続させるための戦略であると述べています。
まとめ:「快楽登山」とは
原真氏の「快楽登山」とは、単なる楽な登山ではなく、「他者の価値観や義務感から完全に解放され、自己の知性(戦略)と身体(感覚)の求めるままに山と対峙し、そのプロセスを悦びとする、自立した登山」であると言えます。
この登山観は、登山ブームの拡大に伴い、「いかに安全に、いかに楽しく」山を楽しむかに価値を見出す現代の多様な登山スタイルに、先駆的な影響を与えました。
3)横山厚夫
横山厚夫氏(1925年生まれ)は、戦後の登山界、特に一般登山者の啓蒙に大きな影響を与えた登山家・山岳ライターです。彼の登山観は、登山を人生の一部として長く続けることを重視し、知的な探求心に裏打ちされた自立した山登りを推奨する点に特徴があります。
彼の登山観の主要な要素は以下の通りです。
🏔️ 横山厚夫氏の主要な登山観
1. 登山を「人生の継続」として捉える思想
「長く山登りを続けること」の重視: 彼は、登山を若いうちの一時的な熱中や肉体的な挑戦としてではなく、生涯にわたる活動として捉えていました。
障害の克服: 著書の中で、山登りを続けていく上での健康、体力、家庭環境、人間関係など、さまざまな「障害」に触れています。これらの障害は、本人自身の**山に対する「意欲」と「情熱」**によって克服できることが多いと説いています。
歩くだけの登山への疑問: 「むやみに歩くだけの人の山登りは、長続きはしないように思えます」と述べ、単なる運動や体力自慢に終わる登山ではなく、知的な動機づけが重要であると考えていました。
2. 知的探求と「東京から見える山」
山の文学・歴史・地理との融合: 横山氏の著作には、単なる山行記録ではなく、山にまつわる歴史、文化、地理への深い洞察が見られます。山を登ることと、山を知ることを一体として捉える、知的探求を伴う登山を推奨しました。
「東京から見える山」: 彼の代表的な著作の一つである『東京から見える山 見えた山』は、身近な場所から見える山々への知的好奇心を出発点として、山との関わり方を示しています。これは、エベレストのような遠大な目標ではなく、日常と密接に結びついた登山の喜びを提示しています。
3. 技術・計画による「自立した登山」
基礎知識と技術の重要性: 『登山読本』など、登山技術に関する著作も多く手がけており、計画、読図、技術といった基礎知識の習得が、安全で充実した山行に不可欠であると考えていました。
人間関係からの自立: 山岳会などの集団登山がもたらす人間関係の「縛り」について言及しつつ、最終的には、そうした縛りを超えて、自らの意志と技術で山と向き合う自立した登山者の育成を目指しました。
横山厚夫氏の登山観は、スポーツとしての登山と、文学・哲学としての登山の中間に位置し、多くの一般登山者に対し、「長く楽しく、そして知的に山と付き合い続ける方法」を提示したと言えます。
私の登山観
1. 登山は「自己との対話」と「個人的探求」の場
山は単なる競争や記録の場ではなく、自分の感覚や知性、経験を通して自然や自分自身と向き合う場所である。
登山は人生の鏡であり、山での経験は自己理解や人生観の深化につながる(柏瀬・横山)。
「快楽登山」の概念を取り入れ、義務感や他者の評価から解放され、自分にとっての喜びや学びを追求することが核心である(原)。
2. 「戦略」と「経験」に裏打ちされた知的活動
登山は単なる感情や精神論ではなく、計画・判断・リスク管理・経験を組み合わせた戦略的な活動である(原・柏瀬)。
「頭で登る」こと、何をするかだけでなく何をしないかを見極める判断力が安全で充実した山行の鍵となる(原)。
経験の積み重ねが自立した登山者を形成し、山での行動は人生経験と直結する(柏瀬・横山)。
3. 「孤独」と「自立」を通じた快楽と成熟
山での孤独は恐れるものではなく、自己決定と自立を深める喜びとして肯定される(原)。
登山は身体的な喜びだけでなく、知的・精神的な快楽を伴う活動として位置づけられる。
中高年になっても、人生の「午後三時」を見据え、哀愁やユーモア、成熟した感性と共に登山を楽しむ(柏瀬・横山)。
4. 登山と人生の統合
登山は人生の一部として、生涯にわたり継続可能で豊かな活動である(横山)。
下界での生活や人間関係、健康との両立が前提となり、登山は趣味や遊びを超えた人生の活動として位置づけられる(原・横山)。
登山を通じて、人間関係や友情、自己欺瞞、死生観などの人生の本質を見つめることが可能(原・柏瀬)。
5. 登山の多様性と文化的・自然的探求
アルパイン、沢登り、古道巡りなど、多様な形態の登山を通じて、自然や文化、歴史への知的好奇心を満たすことができる(柏瀬・横山)。
山は単なる目的地ではなく、自然・文化・人間性を統合的に体験する舞台である。
🔑 まとめ
登山とは、競争や義務から解放され、経験と知性に裏打ちされた戦略的・自立的な行為を通じて、身体的快楽と精神的探求を同時に享受し、人生や自然、自己と深く向き合う生涯にわたる知的・感性的冒険である。
現代との融和
これを現代のジムクライミングで、クライミングのムーブを強化しながらやりますと、登攀の能力をアップすることができ、結果として、フリークライミングのレベル感で、クライミング能力が付きます。
ので、山でも、昔よりも、レベル的にさらに高度な遊びができます。
冒頭の写真は、私がアイスクライミングしているところの写真ですが、43歳のスタートのクライマーで3年で、WI6級が登れるようになりました。
むろん、山に登りながら、無雪期は岩登りや沢へ行き、積雪期が山登りシーズンでアイスを登っていました。冬山合宿が最大の本番です。
普段の冬は、登山道のない低山の雪の山をラッセルして楽しんでいました。
43歳でこのレベルなので、大学生などの若い男性がジムやフリークライミングという武器を得て、登山活動を高度化させて行くと、自然と現代のトップアルパインクライマーへの道が形作られるような気がします。
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