■ みなみゆうたさんのメマガより引用
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「無条件の愛情」にこだわる代わりに、「限られた条件の中で、できる限りのサポート」をしましょう。
「限られた条件」とは、あなたの時間、予定、体力、気力、お金などなどです。
なぜこういうことを言うのでしょうか?
それは、依存的な人や支配的な人ほど、相手に「無条件の愛情」を求めるからです。
この場合の無条件の愛情とは、「底なしの愛情要求」です。
依存的な人や支配的な人たちからの「無条件の愛情」の要求には、あなたの時間や体力、気力、お金などに対するリスペクトがないのです。
無条件の愛情とは、「なんでもあり」ではありませんよ?
電車で足を踏まれても、目の前で嫌味を言われても、暴言を吐かれても、「赦してあげる」のが無条件の愛情でしょうか?
それはやさしさではありませんよね。
成熟した人間関係には「条件」が絶対に必要です。バウンダリーの感覚がマヒしたり、融合していたり、侵入しがちな人の言う「無条件の愛情」は、「すべて私のために犠牲にしてね」という要求になります。
だから、あなたが言いなりになる必要はありません。
ーーーーーーーーーーーーみなみゆうたさんのメマガより
■ クライミングバージョン
「いつでもロープ組んであげる」にこだわる代わりに、
「いつもはできないけれど、できる限りロープを組んであげる」
をしましょう。
「限られた条件=いつもはできない」とは、
あなたの時間、
予定、
体力、
気力、
お金
性別
体重
などなどです。
なぜこういうことを言うのでしょうか?
それは、依存的な人や支配的な人ほど、相手に「無条件の愛情」を求めるからです。
この場合の無条件の愛情とは、「底なしの愛情要求」です。
依存的な人や支配的な人たちからの「無条件の愛情」の要求には、あなたの時間や体力、気力、お金、性別、知力、などに対するリスペクトがないのです。
無条件の愛情とは、「なんでもあり」ではありませんよ?
ロープを持ってこないけど、ビレイもできないけど、あるいはめんどくさかったからと言う理由で足りないロープで2ピッチつないで、一つのボルトに仲良くぶら下がることになっても、危険個所でロープを出さないでも、「赦してあげる」のがクライミング仲間の絆でしょうか?
それはやさしさでも、クライミング仲間の絆、でもありませんよね。
成熟した人間関係には「条件」が絶対に必要です。バウンダリーの感覚がマヒしたり、融合していたり、侵入しがちな人の言う「無条件の愛情」は、「すべて私のために犠牲にしてね」という要求になります。一人、一個しかない命までも。
だから、あなたが言いなりになる必要はありません。
ーーーーーーーーーーーーみなみゆうたさんのメマガより
■ バウンダリーの問題
クライミングにおける心理学的問題は、ほとんどがバウンダリー問題だということができると私は思います。
大体バウンダリーの侵害が起きているときに、よろしくない事故やパートナーへの人権侵害が起きる。
共依存的関係に持ち込むことで、成功をクライマーとしての成功をゲットしてきた経験がある人は、山岳会に多いです。昔の山岳会のシステムは、昔の会社と同じで、年功序列なので、下の人が無条件に歩荷してくれ、上の人は、歩荷せずに山に登れて、栄誉を自分のものとすることができた、という流れがあり、それを手放すのが惜しい人が少なからずいます。
例えば、私の前の会の阿弥陀北稜の会山行は、一升瓶を新人に背負わせ、てんやわんやの宴会をして、泥酔状態で北稜に登り、凍傷者3名というていたらくでした。阿弥陀北稜って私が、初見フリーソロ、で登った尾根です。どんだけレベル低下というか、わざと事故を招くようなことをやっているか?分かるでしょう…
そういう意味では、カニを担いで黄連谷行きました、とかも同じメンタリティで、カニをかついで、のところで、いかに黄連谷が簡単か、ということをアピールするのが目的なんですが、新人は、これに騙されないように、ある意味搾取されないように賢くないといけませんね。
なんせ、黄連谷って時点で、すでに諸先輩方のスキルレベルからすると地に落ちたレベルということがうかがえ、それを、カモフラージュするためのカニ、なんですから…。
もちろん、黄連谷であっても、そこが初めての人にはチャレンジですが、チャレンジだと思って行けば成功するものが、カニなんて活がされていけば、死に至る可能性があります。
阿弥陀北稜で、一升瓶活がされた新人、と同じです。私も比叡では同じ目に遭いました。
■ ”カニ担いで黄連谷”と同じ、”敗退ロープなしで!”
この、「一升瓶担いで阿弥陀北稜」「カニ担いで黄連谷」は、「敗退ロープなしで白亜スラブ」と同じメンタリティです。
わざと一升瓶やらカニやら、敗退ロープなしやら、をやるのは、そのルートが楽勝だ、ということをPRするためです。
しかし、現実は、楽勝PRどころじゃなく、アップアップ、死の瀬戸際。
しかし、現代クライマーは、”都合の悪いことは山行記録に書かない”というこれまた不文律があるので、会の中ですら、実際の、
等身大の山
が共有されていなかったりします。それで、指導する側も、「よし、ここが登れるなら次のステップへ」とか考えてしまい、実際の実力より上のルートを勧めてしまったりします。
なんせ現代の男子は、たったの10cで2時間半かかっても、挫折感ゼロなほど、おぼちゃまくんに育っているんですよ?
結局のところ、(拡大したエゴ)を(等身大の自分)に直す機会が、ほとんどないんですよね…。特にクライミングや、アルパインクライミング、ロープが出る本格的な山はそうです。一般市民の誤解に基づく尊敬のまなざしが気持ちよくて仕方ない、ってことになっています。
なんで、白亜スラブを敗退ロープなしで行きたかった彼は、ほんと、ダメクライマーの伝統のほうを引き継いでしまったみたいなんですよね… (とても残念)
考えてみると、青ちゃんは依存的な人、アラーキーは支配的な人、でした。
■ 教育の失敗
なぜこういうクライマーができてしまうのか?というと、まぁ本人の性格もあるとは思いますが、登山者教育、クライマー教育が適正でない、ということも言えるでしょう。
これは、どうもアメリカでも同じ事態なんではないか?と思いますが。
しっかし、こんな、山の指導者のていたらく、新人の側が、怒りを感じて当然です。
威張るだけ威張って、能力なしという、いったい何やってんだ、っていう情けない状態、っていうのが、客観的な姿ですよ。
■ 対策
相手の気持ちを察する=自分を理解してくれているという誤解(期待)
クライミングで威張りたいんだなぁ=俺を立ててくれるに違いないという期待